小説「真理の微笑」

三十三-1
 朝食は半分残した。
 食事が済むと薬を飲んだ。看護師が膳を片付けながら、薬を飲んだか確認した。
 看護師がいなくなると電話機を見た。夏美に電話がしたかった。ただ、声が聞きたかった。しかし、何を話していいのか分からなかった。
 夏美は、また「会いたい」と言うだろう。でも私には、夏美に会う事が出来なかった。
 真理子が持ってきた社員名簿を取り出した。専務の高木の所を見た。住所と電話番号が載っていた。日曜日だという事は分かっていたが、会社の事を、真理子からではなく、彼から聞きたかった。専務にしているくらいだから、富岡は高木を信頼していたのだろう。そう信じた。電話機をとった。高木の所に電話した。
 高木ではなく、彼の奥さんが出た。「富岡です」と少し掠れたような声で言った。
「だれですか」
 当然、不審がって訊いた。
 もう一度、「富岡です、トミーソフトの」と言った。
「いたずら電話ならやめてください」
「切らないでください。こんなふうにしか、話せないんです。ご主人をお願いします。富岡です。と・み・お・か」
 保留音がした。しばらくして「高木です」と太い男の声がした。
「富岡です」
 私はやはり掠れた声で言った。
「だれですって」
「と・み・お・か」
 私は精一杯の声を出した。
「社長ですか」
「そうだ」
「すみませんでした。家内の奴、てっきりいたずら電話だと思ってしまって……」
「そうだろうね。こんなふうに話すのだから、誰だってそう思う」
「…………」
「喉を痛めている事は知っているよね」
「はい」
「だから、こんな声でしか話せないんだ」
「わかりました」
「今日は、日曜だというのに済まないんだが、ここに来てくれないかな」
「今からですか」
「できればそうしてもらいたい」
「ちょっと待ってくださいね」
 また保留音が流れた。高木は今日、何か家族と約束があったのだろう。それを私は取りやめて、病院に来てくれと言っているのだ。今、家族を説得しているのだろう。
 少しく時間が経った。
「お待たせしました。わかりました。行きます。何か必要なものはありますか」
 そう言われて「ソフトとフロッピーディスクが入れられる少し大きめの封筒と便せん、それにメモ用紙を買ってきて欲しい」と言った。
「わかりました」
「じゃあ、待っている」
 受話器を置いた。
 午前九時を少し過ぎていた。高木の住所からなら、車で三十分もあれば来られるだろう。
 今日は、高木と二人きりで話がしたかった。忌憚のない高木の話が聞きたかったのだ。
 今度は真理子に電話した。
「はい、富岡です」
 真理子が出た。
「俺だ」
 私は掠れた声で言った。
「あなたなの」
「そうだ」
「で、どうしたの」
「真理子がどうしているかと思って……」
「馬鹿ね、今日は家の改修工事の見積もりが来るって言ったでしょう。だから待っているのよ」
「そうだったね。何時頃の約束なんだ」
「午前十時よ。あと一時間ほどで来るわ」
「そうか。日曜日もゆっくりできないんだね」
「そんな事ないわ。ただの見積もりだもの。あなたは、あなたはどうしているの」
「こうしてお前と話している」
 真理子が笑った。
「来て欲しいんでしょう」
 その声には媚びがあった。昨日のキスが頭を過ったのかも知れない。
「いや、いいんだ」
「見積もりが済んだら行くわよ」
 高木が来るので、真理子が家にいるのか確認したかっただけだったが、やぶ蛇のようだった。それなら、時間を指定した方がましだった。
「だったら午後三時頃、来てくれないか。冷たいアイスクリームが食べたい」
 私は思いつく有名なアイスクリームの品名を口にした。
「あら、あなたアイスクリームの名前、思い出したの」
「いや、雑誌に載ってたから食べてみたいと思って」と言いつつ、内心ドキッとした。
「わかったわ。買っていく」
「それから、財布も持ってきてくれないか」
「買物するなら、わたしがするけど」
「真理子がいないときに看護師に買ってきてもらうのに必要じゃないか」
「いいわ。持って行く。午後三時ね」
「うん、三時だ」
 アイスクリームは口実だった、午後三時まで真理子を来させないようにするための。高木と真理子を会わせるわけにはいかなかったのだ。