二十六
お昼になった。
安全防犯対策課のメンバーは誰も帰ってこなかった。いつもは屋上のベンチで昼食をとるのだが、今日は誰もいないので、デスクで弁当を広げた。
鶏そぼろと炒り卵の二色弁当だった。きくは鶏そぼろでハートマークを作っていた。
昨日の鯛の切り身を焼いたものとイカの天麩羅がおかずだった。残さず食べて、水筒のお茶を飲んだ。
午後三時過ぎ頃からメンバーは帰ってきた。
皆、疲れた顔をしていた。
「お疲れ様」と僕はそれぞれに言った。
緑川が「全部、終わりました」と言ってきた。
「大変だったね」と言うと、「ええ、大変でした。それより、電話はかかってきませんでしたか」と訊かれた。
「いや、どこからも」と答えた。
「そうですか」と緑川は言って、自分の席に座った。
僕は書類を見ているフリをして五時までやり過ごした。
午後五時になったので、「お先に」と言って、安全防犯対策課を出て、家に帰った。
木曜日と金曜日は何事もなく過ぎていった。
そして、問題の土曜日が来た。
「あなた、お昼はいらないんですか」と訊くので「ああ、人と会う約束があって、外で食べる」と答えた。
午後一時少し前に新宿三丁目の****デパートの前に行った。すると、岸田信子とその隣に若い男女が、すでに来ていて待っていた。
僕が側に行くと、岸田信子が「お忙しい中、済みません」と言った。
「いえ、いいんです」と応えた。
「隣にいるのが弟の秀明で、その隣が峰岸康子さんです」と言った。
「初めまして、岸田秀明です」
「初めまして、峰岸康子です」
二人は、それぞれ挨拶をした。僕も挨拶を返した。
峰岸康子は清楚なお嬢さんといった感じだった。とても結婚詐欺をするようには見えなかった。だが、この手の相手がくせ者なのだ。見た感じで判断すると、騙されやすいからだった。
「ではパンケーキ屋に行きましょうか」と僕が先になって歩き出した。岸田信子は僕の隣について来た。
二分ほど歩いた所のビルの地下一階にあるパンケーキ屋に三人を連れていった。
二組が並んでいた。前の方に順番待ちの番号を発行する機械があり、そこで順番のカードを取って、二組の後ろに僕たちも並んだ。
「こんな所にパンケーキ屋があったんですね。ここに来るのは、初めてです」と岸田信子が言った。
「実は僕も入るのは初めてなんです。一人だと入りにくいでしょう」と中にいる、大勢の女性客を見て言った。
岸田は笑って「そうなんですね」と言った。
二組はほどなく店の中に入っていた。その後に店員が来て、「四名様ですね」と言った。
「ええ」と僕が応えると、「こちらにどうぞ」と店内に招き入れた。
僕らは中程の席に座った。
向かい側に岸田秀明と峰岸康子が、こちら側に僕と岸田信子が座ることになった。
メニューが渡された。
僕はバナナホイップパンケーキチョコソース添えを、岸田信子は紅茶ミルクパンケーキ自家製グラノーラがけを、岸田秀明はティラミスパンケーキを、峰岸康子は季節のフレッシュフルーツパンケーキを選んだ。飲み物は、僕と岸田秀明がコーヒーを、岸田信子と峰岸康子は紅茶を頼んだ。
店員がメニューを確認して、カウンターの方に行くと、僕は時間を止めた。ズボンのポケットに入れて来たひょうたんを叩いた。
「あやめ。峰岸康子の意識を読み取れ」と言った。
「わかりました」とあやめは言った。
しばらくすると、意識が流れ込んできた。峰岸康子の母親は時子といった。二人きりで生活をしていた。家は借家ではなかった。
峰岸時子は一ケ月ほど前までは元気だったのだが、お腹の調子が悪いと言ってかかりつけのクリニックに行ったら、大きな病院で診てもらうようにという紹介状をもらって、お茶の水にある病院で診察を受けた。その結果、肝臓癌ですでに他に転移しているという診断が出た。
肝臓癌は放射線治療をすることになり、転移した癌は保険の利かない新薬の抗がん剤を使うことになった。病室は個室の方が治療しやすいということで個室になった。
最初に保証金として、十万円が必要で、治療には、少なくとも二、三百万円はかかると言われていた。健康保険の高額療養費制度を利用するとしても、それは保険の利かない新薬には適用されないので、治療費だけで二、三百万円かかることになる。その他に個室入院費が一日、一万五千円かかるので、かなりの出費となる。
峰岸康子は結婚資金に二百万円ほど貯めていたが、それでは足りず、残りのお金をどうするのか、岸田秀明に相談していたのだ。結婚詐欺ではなかった。
峰岸康子は岸田秀明に少なめに二百万円ほどかかると言っていたのだ。岸田秀明から借りるという話はしていなかった。おそらく、岸田秀明が貸してくれと言われたように誤解したのだろう。峰岸康子は水商売のバイトをしてでもお金を作らなければならないと思い詰めていた。そうなれば、岸田秀明とも別れるつもりだった。そこまで決心していた。そうして腹を決めて、ここにやって来たのだ。
僕は時間を動かした。
「峰岸康子さん」と僕は言った。
「はい」と彼女は返事をした。
「お母様は、御茶ノ水駅近くの病院に入院することになったんですね」と言った。
「そうですけれど、どうしてわかったんですか」と訊いた。
「失礼ですが、少し調べさせてもらったんです」と答えた。
嘘も方便だ。
「姉貴、この人にそんなことを頼んだのか」と岸田秀明は信子に向かって言った。
「あなたのことが心配だったのよ」と岸田信子は言った。
「それは俺の勝手だろう」と秀明は言った。
「お姉さんが心配するのは当然ですよ。付き合って、三ヶ月程しか経っていない相手から、お金の相談を受けたんだから」と僕が言った。
「こんな店出よう」と秀明は立ち上がった。
「まぁまぁ、落ち着いて。誤解は解けたんだから、パンケーキが来るのを待ちましょう。そちらのお嬢さんにもまだ話はあるんですから」と僕は言った。
「話って何だよ」と秀明は言った。
岸田信子は「鏡さんに失礼ですよ。せっかくの休日の日に来てもらったんだから」と言った。
「頼んだわけじゃないよ」と秀明は言った。
「このまま帰ったら、後悔しますよ」と僕は言った。
「そんなこと知るか」と秀明は言った。
「そうですか。峰岸康子さんは夜のバイトも考えているようですよ。放っておいていいんですか。このまま帰ったら、二人は結局別れることになりますよ」と言った。
「本当か」と秀明は峰岸康子に訊いた。
峰岸康子は「この方の言われるとおりです。わたしは別れを言いに来ました」と言った。
「そんな」と秀明は腰を落とした。
「僕を愛していたんじゃないのか」と秀明は峰岸康子の肩を掴んで揺すった。
「これ以上、迷惑はかけられないもの」と峰岸康子は言った。
「迷惑だなんて、水くさいことを言うなよ」と秀明は言った。
「だって……」と峰岸康子は泣き出した。
秀明は峰岸康子の肩を抱いた。
その時、パンケーキが来た。
ウェイトレスが、パンケーキをどう置くのか迷っていた。
「それはこっちで、これは向こう」と僕が指示をした。
そして、コーヒーと紅茶も運ばれて来た。それも僕が指示して、それぞれのところに置かせた。
「取りあえず、温かいうちに食べませんか。話はその後にしましょう。峰岸康子さんが夜のバイトをしなくても済むようなアイデアはあるんですから」と僕は言った。
「本当ですか」と岸田信子は言った。
「ええ」と言った。
「そうですか」と岸田信子は言った。
僕はナイフとフォークを取って、パンケーキを食べ始めた。