二十五
家に着くと、いつものようにきくが出迎えてくれた。この三つ指の出迎えが見たくて、富樫は僕よりも先に玄関に入った。
きくは富樫を見て、「いらっしゃいませ」と言った。そして、僕が入って行くと、三つ指を付けて「お帰りなさいませ」と言った。
富樫が「お前が羨ましい」と言った。
「どうぞ、お入りください」ときくは富樫に言った。
富樫は「お邪魔しまーす」と言って家に上がった。そして、きくの案内でリビングに入って行った。
僕は玄関を上がると、リビングに顔を出して、富樫に「剣道の道具をしまったら、シャワーを浴びる。その後で来るから待っていて」と言った。
富樫は「全然、構わないよ。ゆっくりシャワーを浴びてきていいぞ。俺はおきくちゃんと話をしているから」と言った。それが最初から狙いだったくせに、と思ったが、僕は三階に上がって行った。
納戸に剣道の道具を仕舞う時、竹刀ケースの定国を取り出した。
「今日もありがとうな」と言って、竹刀ケースに戻した。
シャワーを浴び、着替えて戻ってくると、リビングでは、富樫がきくの隣に座って、身振り手振りで話をしていた。
富樫の前のテーブルには紅茶が出されていた。そして、ケーキを食べた皿が載っていた。
僕がテーブルにつくと、「お昼を食べますか」ときくが訊くので、「いや、ケーキでいい。それとコーヒーを入れてくれ」と答えた。
富樫が肩を寄せてきて、「おきくちゃん、変わったよな」と言った。
「そうか」
「ちょっと見ない間に、凄く大人になった感じだな」と言った。
「あの年齢は育つのが早いからな」と僕は言った。もう一年以上も経っているとは言えなかった。
「おきくちゃんは中学生だよな」と富樫は言った。
「そうだよ」
「中学生には見えないな」
「そういう年頃なんだよ」と僕は言った。
きくがケーキとコーヒーを持ってきた。ケーキはショートケーキだった。
「いただきまーす」と言って、僕はケーキにフォークを入れた。
富樫はまたきくに話しかけていた。
きくは僕を見ていた。
富樫が帰っていった。富樫が帰ると台風が去って行ったような感じだった。
「富樫は何て言っていた」ときくに訊いた。
「今日の京介様の活躍ぶりを、まるで自分のことのように話されていました」と答えた。
「そうか」
「京介様が勝つのはわかっていましたから、別に驚きませんでした。すると、富樫様はどれだけ凄いのかわかっているのと、言われました」
「それでどう答えたの」
「わかっています。よく知っていますから、と答えました」
「そんなことを言ったのか。だったら、富樫のことだから、質問攻めにあったよな」と僕が言うと「はい」ときくは応えた。
「どう答えたの」と僕は不安になり訊いた。
「見たことを言いました」ときくは答えた。
「富樫は何って言っていた」と僕は訊いた。
「ああ、夢でか、と言ってました」と答えた。
「わたしが、いいえ、と言っても信じてもらえませんでした」と続けた。
そりゃ、そうだろう、と思った。
きくが時計を見て、「お昼を食べていませんよね。食事にしますか」と訊いた。午後二時少し前だった。
「時計の見方は覚えたの」と訊くと、「お母様に教わりました」と答えた。
「十二時がお昼で午後三時がおやつなんですね」と続けた。
「まあ、大体、そうだね。でも今は午後二時だから、お昼は過ぎているよね」と言うと、「そうですが、京介様はまだお昼を食べていないでしょう」と言った。
「そうだけれど」
「今日は午前中だけだから、お昼は家で食べるとおっしゃっていましたよね」と言った。
「そうだったっけ」
「そうです」
「でもケーキ食べたからな。がっつり、食べたいって感じじゃないな」と言った。
「がっつりとは、しっかりという意味ですか」
「そう」
「だったら、おにぎりを握りましょうか」
「そうだな、それを一つ食べるくらいが丁度いい」と言った。
「わかりました」と言って、きくはキッチンに向かった。
きくの握ってくれたおにぎりを食べながら「お袋はどうしている」ときくに訊いた。
「京一郎をベビーカーに乗せて、買物に出かけられました」と答えた。
「ききょうは」と訊くと、「ベビーベッドで眠っています」と答えた。
そして、きくは時計を見て、「三時ぐらいに起きると思います」と言った。
「そうか。ケーキはどうしたんだ」と訊くと、「お母様が『買物の練習をしましょう』と言って、千円札一枚と五百円硬貨一枚渡してくれて、『これで買えるだけのショートケーキを買ってきてちょうだい』と言われました」と答えた。
近くにケーキ屋があったから、母はそう言ったのだろう。そこは税込みでショートケーキは一個二百七十五円だったから、五個買える。そして百二十五円のお釣りが来る。
そうか。そうやって、母は母なりにきくに買い物の練習をさせているんだと思った。
千円だと三個しか買えないから、千五百円持たせたのだろう。五個だと一個余るが、それは僕が食べるか、ききょうに少しでも食べさせたかったのだろう。その一個を富樫が食べてしまった。
「ちょっと出かけてくるわ」ときくに言って、家を出た。ショートケーキを一個買うためだった。ケーキ屋は、家のすぐ近くにあった。
三百円出してショートケーキ一個を買って家に戻った。
「速かったですね」ときくは言った。
「富樫の食べた分を買ってきたんだ」と言って、ショートケーキをきくに渡した。
時計を見た。もう少ししたら、ききょうが起きる頃だった。初めて食べるショートケーキはさぞや美味しいことだろう、と思った。
夕食の時に、父と母に今日の結果を話した。
父は「凄いじゃないか」と言った。母も褒めた。
だが、僕は「明後日勝たなければ意味がない」と応えた。
きくは僕が勝つことを信じて疑わなかった。
沙由理からはメールが来ていた。明後日は何が何でも行くからね、という内容だった。無理して来なくても良いのにと思ったが、そうは書けなかった。
その夜だった。
きくが抱きついてきたので、「今日から近藤さんを使う」と言った。
きくが「近藤さんって何ですか。一緒に寝るわけではないですよね」と言った。
僕は江戸時代のきくにコンドームのことを近藤さんというジョークが使えないことを忘れていた。
僕はコンドームを見せて、それを嵌めてみた。
「それが近藤さんですか」ときくは言った。
「コンドームって言うんだ、本当は。おおっぴらに言いにくいから、近藤さんって言っただけ」と僕は言った。
「それは何のために使うんですか」ときくが訊くので、「これ以上、子どもを作らないためだよ」と言うと「京介様は、もう子どもが欲しくはないのですか」と訊かれた。
「これ以上はね」と答えた。
「わたしは何人でも欲しいです」ときくは言った。
「無理言うなよ。二人いれば十分だろう」と僕は言った。
「京介様がそう言われるのなら、わかりました」ときくは言った。