八
月を見る。まだ三日月だから、満月までに間があった。
家のことはすでに大家に話して、借主が風車大五郎に替えてあったが、大家には僕が今月中に田舎に戻ることになったが今まで通り頼みますよ、と念を押しておいた。
「叔父が亡くなったので、その後を継ぐことになったのです」と答えておいた。
「どこですか」と大家に訊かれたので「高潮藩です(「僕が、剣道ですか? 1」参照)」と答えた。
「そりゃまた遠い所ですな」と大家は言った。
大家との話がついたので、ホッとした。
きくとは、現代に持って行く物と置いていく物とを仕訳した。僕の紋付羽織袴ときくとききょうの紋付の着物は持って行くことにした。帰るときには、きくとききょうは一番良い着物を着て、その他は置いていくことにした。
おむつはしている物だけで、後は置いていくことにした。哺乳瓶と余ったミルクは置いていっても良かったが、この時代にない物は置いていかない方針を取った。
捨てていってもいい物は、風呂焚きの時に焼却した。
満月に近付いてきた夕餉の時に「どうしても帰らなければならないんですか」とまた風車が言った。風車には、僕が現代に戻らなければならない理屈が分からなかったのだ。これは、何度説明しても無理な話だった。
「拙者は鏡殿と別れたくはないんですよ。おみねと添い遂げられたのも、そして今、筆学所をやっていられるのも鏡殿のおかげだし、鏡殿がいなければ拙者は……」と風車は言って言葉に詰まった。
僕もその言葉を聞くと苦しかった。しかし、こればかりはどうしようもないことだった。
「私は未来から来た人間なんです。だから、そこに戻る。風車殿には理解できないでしょうが、それが宿命なのです」と言った。
それから二日後だった。もうすぐ満月だった。
夕餉に突然、みねが「わたしに赤ちゃんができたようなのです」と言った。風車も聞かされていたようで、頷いていた。
「良かったですね」と僕は言った。
そして僕は「これからはあなた方がこの家の未来を開いていくんです」と言った後、みねと風車に「おめでとう」と言った。
きくがいれば、みねも心強いだろうが、仕方のないことだった。
去る者がいれば、生まれ来る者がいる。そうやって、世の中は循環していくんだと思った。
京一郎は元気な子だった。そしてよく泣いた。泣く子は育つと言うが、本当だろうか、と思った。現代に戻った時、京一郎はどうなるのだろうか。考えても仕方がなかった。ききょうだって同じだし、きくもだ。
何とかしなければならない。
そして、ついに月が赤くなった。
きくも見た。
「月が赤くなりましたね」ときくが言った。
「そうだね。明日、帰るんだ」
僕は帰る準備をした。前に持って行く物を確認したが、その再点検をした。
ここに来た時の物は持って行く。その他にひょうたんができた。この中にはあやめがいる。あやめが時を越えられるかは、やってみなければ分からない。越えられなければ、成仏したということだ。
夕餉の時に、風車に「明日、帰ります」と言った。
「明日ですか」と風車は言った。
「はい」
「おきくさんもそれでいいんですか」と風車はきくに訊いた。
「ええ、わたしにも明日、現代に帰ることがわかっていますから。それに、京介様と離れることはありません」と答えた。
「そうですか。でも、鏡殿、拙者にはあなたに返すことのできない恩義がある。それをこれから返せると思っていたのですが」と風車は言った。
「わたしを吉原から救い出してくれたことです」とみねは言った。
「それはもういいではありませんか」と僕は言った。
「でも三百両は何としてでも、お返ししなければならないと思っています」と風車は言った。
「それは貸したお金ではありません。風車殿に差し上げた物です。返してもらういわれはありません」と僕は言った。
「それでは拙者の気が済みません」と風車が言った。
「風車殿のお気持ちは分かりますが、もう返してもらうこともできませんし、その必要もありません。だから、差し上げた物だと言っているのです」と僕は言った。
「納得がいきません」と風車が言った。
「そうでしょうね。これを納得してもらうことはできないでしょう。そういうこともあるのです。これ以上、言うことはありません」と僕は言った。
風車は拳で畳を叩いた。どこに向けていいのか分からない気持ちを畳にぶつけたのだ。
次の日、筆学所は普通に開かれた。
今日、僕らが現代に帰ることはないかのようだった。
きくは忘れている物がないか、なおも点検していた。
持って行く物は、ここに持ってきた物と、新しく作った僕の紋付羽織袴ときくとききょうの紋付の着物とひょうたんだった。
ここに持ってきた物の中には、もちろん、定国も入っていた、定国は簡易ゴルフバッグの中に入れた。千両箱は五百両少なくなっていた。千両箱はショルダーバッグの中にしまった。
着物は大きな風呂敷包みにした。
夜になった。
大きな満月が空に浮かんでいた。
僕は来た時の服装に着替えていた。きくは一番上等な着物を着ていた。
僕はショルダーバッグと簡易ゴルフバッグを肩から下げ、いろいろな物を詰め込んだ大きなナップサックを背負い、ききょうを抱いた。
きくは小さなナップサックを背負い、京一郎を抱き紐で抱き、着物の入った大きな風呂敷包みを持った。
そして、大川の土手に出た。
風車とみねもついてきた。
「少し離れていてください」と僕が言うと、彼らは離れた。
十分、距離が取れたと思った時、僕は簡易ゴルフバッグの中から、本差の定国を取り出して、鞘から抜き、空に突き上げた。
上空に雷雲が広がり、僕らの周りだけが吹雪になった。そして雲が光り、稲妻が落ちた。
僕らはその光の中に、飲み込まれた。
そして、上空に巻き上げられた。
強い光の渦の中で、僕はきくやききょうや京一郎の魂が躰から抜け出さないように、押し込んだ。一度押し込むと抜け出すことはなかった。
さらに光が強くなり、その渦の中で意識を失った。意識を失う前に、僕は自分の部屋を強く念じた。きくやききょう、京一郎をそこに行かせるためだった。