小説「僕が、剣道ですか? 6」

 湯屋には草履で行った。

「しまった。下駄を買うのを忘れていましたね」と風車が言うと「明日、買いましょう」と僕が言った。

 脱衣所の上の棚に浴衣とバスタオルと洗ったトランクスを置くと、下段の棚に着物と今まで穿いていたトランクスと肌着を置き、手ぬぐいと折たたみナイフを持って、風呂場に入っていった。桶にお湯を汲み、頭と躰を洗って、先に五右衛門風呂に入った。丁度いい湯加減だった。

 躰が温まったところで出て、折たたみナイフで髭を剃った。代わりに風車が五右衛門風呂に入った。

 僕は髭を剃ると顔を洗い、上がり湯を躰にかけて、「お先に」と言って風呂場を出た。

「ちゃんと待っていてくださいね」と風車は言った。

「待ってますよ」と僕は言った。

 バスタオルで躰を拭き、トランクスを穿いた。そして、浴衣を着た。良い着心地だった。

 そのうちに風車も出て来た。

 浴衣を着ると、「いいですね」と言った。

 僕らは草履で母屋に帰っていった。

 

 庖厨では炊き上がったご飯をおひつに移していた。きくの様子から、上手く炊けたようだった。

 茶碗から一口、炊きたてのご飯を食べた風車が「美味しいでござるな」と言った。

 僕も食べてみた。上手く炊けていた。きくも口にして、嬉しそうだった。

 煮売屋があったので買ってくれば良かったのだが、夕餉も朝餉と同じように、味噌汁の他は梅干しと漬物だけだった。それでも美味しく炊けたご飯はご馳走だった。ききょうの分を取り分けてなかったら、ききょうの分も食べてしまうほどだった。

「明日はもう少し多く炊きますね」ときくは言った。

「拙者が食べ過ぎましたかな」と風車が言った。

「そんなことはありません」ときくが言った。

 

 夕餉の後に「離れを見させてもらってもいいですか」と僕が訊いた。風車は恥ずかしそうに「布団は敷きっぱなしですよ。でも、構いません」と言った。

 離れに入ると、真ん中に布団が敷かれていた。

「あんまり、ふわふわなので……」と風車が言い出した。

「眠れませんでしたか」と僕がすぐに言った。

「いやいや、ぐっすり眠れました。今まで煎餅布団に慣れていたもので、また、煎餅布団になったら、寝付けるのかと心配になります」と言った。

 僕は笑った。

 着物は衣桁に衣紋掛けで掛けてあった。

 押入れを開けてもらったら、当然のことだが、押入れ箪笥がぴったりはまっていた。

 刀は隅に置かれていた。

「どうです、居心地は」と訊くと「良いですよ、拙者には分不相応なくらい」と風車は言った。

 

 僕は風車を離れに置いてきて、母屋に戻った。

 そして、きくを捜して寝室に入った。きくは総桐の箪笥に手を当てていた。

 僕が入って行くのに気付くと、「ありがとうございます」と言った。

「礼を言われることはしていない」

「そんなことありませんよ。総桐箪笥ですよ。普通は一生かかっても持てやしません」ときくは言った。そして、箪笥の扉を開け、中に菊の着物が入っているのを見せた。

「こんな設えの箪笥も珍しいんですよ。いえ、持っている人がいるかどうか」ときくは言った。

 箪笥から離れると、布団をさわり、「こんなふかふかな布団に眠ったのは初めてです」と言った。

「さっき、風車殿も同じようなことを言っていた」と僕は言った。

「そうでしょうね。風車様も一生に一度寝られるかどうかの布団ですものね」ときくは言った。

「そういうものなのか」と僕は言った。

「そうですよ。京介様はあのようなベッド(「僕が、剣道ですか? 3」参照)に寝られているからわからないんですよ。こんなに綿が詰まった布団は珍しいんですよ」ときくは言った。

「そうか」

「それにしても、幽霊は出ませんでしたね」

「そうだな」と僕は嘘をついた。

 

 それからしばらくして、僕らは眠った。

 昨日と同じように、眠っていると、冷気がすうっと首元に漂ってきた。

 僕が目を開けると、昨日の女が白い着物を着て枕元に座っていた。僕を覗き込むように、顔を見ていた。

 僕が起き上がると襖が、女が手をかけないのに、すうっと開いた。女は廊下に出た。僕はそっと布団から抜け出すと、女の後をついていった。

 女は昨日と同じように奥座敷に入って行った。

 僕も女の後に続いて、奥座敷に入った。部屋の中は、やはり、行灯がついていないのにもかかわらず、ぼうっと薄明るかった。

 僕は座布団を出して座った。女も僕の前に座った。

「窶(やつ)れているな」と僕は言った。

「それは死ぬ前の姿、そのままだからです」

「お腹は空かないのか」

「霊ですから、空きません」

「人の生気を吸って生きている霊もいると聞くぞ」

「わたしはそんなたちの悪い霊ではありません」

「そうか」

「はい」

「だったら、何故、人前に出ようとする。その辺りにいれば気付かれはしないだろうに」

「人恋しいのです」

「そうなのか」

「はい」

「そうか」

「わたしはこの家にいて、何ヶ月も人に会わずに過ごしていました。食べ物を運んでくれる人はいましたが、決してわたしに会おうとはしませんでした。居間に食事を置いていくと逃げるように帰って行きました」

「そうだったのか」

「はい。だから、こうして人とゆっくりと話すのは、もう七年ぶりです」

「そんなになるのか」

「ええ。あなた様は昨夜、わたしが恐ろしくはないと答えましたね」

「ああ」

「そんな人は珍しいです」

「私は変人だからな」

「あなたが変人ですか」

「そうまともに言われると答えようがない」

「そうは見えません」

「人は見かけによらない。今、思いついたのだが、霊よりも人の方が恐ろしいかも知れない」

「そうですか」

「ああ。私はその恐ろしい人たちを相手にしてきた」

「そうでしたか」

「そうだ。そして、今も相手にしている」

「それは難儀なことで……」

「私もそう思う。ほっといてくれれば何もしないのに、私を邪魔者扱いする」

「まるで、わたしのことを言われているようですね」

「そうだな。似ているな」

 女がぽっと顔を赤らめた。

「手に触れても良いですか」と女が訊いた。

「ああ」と答えた。

 女は僕の手を取った。そして、その瞬間、すぐに離した。

「こんなことって……」と女は言った。

 女は明らかに驚いていた。

 その時、「京介様」と呼ぶきくの声がした。

「戻らなければならない」と言うと、女は「はい」と言って消えた。

「ここにいる」と言って、僕は寝室に向かった。