小説「僕が、剣道ですか? 3」

 次の日は日曜日だった。母は用があるとかで、朝早くから出かけていた。

 晴れたいい日だった。きくは昨日買ってもらった服を何度も着替えて鏡に映していた。

「出かけたいなぁ」ときくは言った。

 昨日の新宿での買物が楽しかったのだろう。

「そうだな、こんな天気のいい日に、一日家に籠もっているの馬鹿らしいよな。出かける前にききょうにおっぱいいっぱい飲ませておけよ」

「わかりました」

「親父、出かけるけど、留守番頼むよ」

「わかった」

 僕は昨日新宿に行ったから、今日は渋谷に行こうと思った。きくがパンツ類に興味を持っていたようだったから、それらを見て回ろうと思った。

 財布には少し余裕があるだけのお金は入れた。

 きくがききょうに授乳するのを待って出かけた。

 きくは白いコートも買っていた。それを着て、僕はいつものオーバーだった。

 ききょうは抱っこ紐できくが抱いていた。きくは小さいから、小学生が赤ちゃんを抱いているような感じに見えた。

 電車に乗って、渋谷に出た。

 渋谷は久しぶりだった。こんなにも変わったのかというくらい、分からなくなっていた.

 とにかく歩いて女性もののパンツを売っている店を探した。

 それらしい店を見つけたので入った。店員にきくを見せて「この子に似合うのを選んでください」と言った。きくがパンツを選んでいる間は、僕が抱っこ紐でききょうを抱っこした。

 きくはパンツの穿き方から店員に教わっていた。

「これとこれがいい」と言うので二つ買った。

「急ぎで裾上げをしますか」と訊かれたので「はい」と答えると、一時間ほどかかると言うのでそれで構わないと言って代金を払い、「一時間後に来ます」と言って店を出た。

 昼頃になっていたので、何か食べようと思った。

 きくにはわからない食べ物であふれていた。僕は自分の好みでハンバーガー店に入っていた。きくにはオーソドックスなハンバーガーを注文し、僕はキングサイズを頼んだ。代金を払って、受け取り口で待った。トレーに載せて運ぶ時、普通サイズのハンバーガーとその三倍ほどの大きさのキングサイズのハンバーガーにきくは驚いていた。

 飲み物は僕はコーラにしたが、きくはカルピスにした。きくにはソーダ水はまだ無理かなと思ったからだ。カルピスなら、子どもでも喜ぶだろうと思って……。案の定、カルピスを一口飲んだだけで「美味しい、こんなに美味しい飲み物があるなんて知りませんでした」と言った。

 きくはハンバーガーを食べるのには、苦労していた。口よりでかいパンをどうやって食べられるのか、不思議に思ったらしかった。僕はパンを潰して口に入れるんだよ、と教えた。でも、きくは上手くはできなかった。口の周り中をケチャップだらけにした。

 ゆっくりと時間を過ごして、一時間ほどが過ぎた。ハンバーガー店を出て、さっきの店に寄った。裾上げができていると言うので、試着してみた。OKだったので、袋に入れてもらい店を出た。

 抱っこ紐でききょうを抱いているきくは、通り過ぎる女の子たちには「可愛い」と何人にも言われた。きくはそれが嬉しそうだった。

 もう、そろそろ帰ろうと思ったが、歩いているうちに駅の方向が分からなくなった。

 そのうち、誰かと肩がぶつかった。僕は「済みません」と謝った。そして、先に行こうとした。するといきなりオーバーの襟を掴まれた。

 そいつは「ぶつかっといて謝らないで行く気かよ」と言った。

「さっき、謝ったじゃないですか」

「はぁ」

「聞こえなかったんですね。済みません」と僕は言った。

「はぁ」

「離してくださいよ」

 そいつは手を離した。僕はもう一度「済みませんでした」と言って、歩いて行こうとした。すると、きくが前を塞がれていた。仕方なく、別の方向に歩き出した。

「きく、私にもっと近付いていろ」と言った。

 次第に渋谷から遠ざかっていった。

 とにかく、前に歩いた。

 後ろからは、がらの悪そうな連中がついてきていた。

 いつの間にか、黒金町に入っていた。

 あの黒金古物商が遠くに見えていた。

「京介様、わたし、こわいです」ときくが言った。

「そうだな。少し早く歩くか」

 黒金町を抜ければ、新宿に入る。そこまでは遠かったが、引き返すよりはましに思えた。

 歩みを速めた。しかし、後ろの連中も速く歩き出した。

 先には路地が見えた。

 いつの間にか、向かい側からも、がらの悪い連中がやってきた。

 路地で挟まれた。僕はきくを連れて、先に行こうとした。しかし、またしてもオーバーの襟を掴まれた。

「なぁ、俺は謝ってくれって言ってんだ。何も難しいことを言っているわけじゃないだろう」

 僕ときくとききょうは、路地に押し込められていった。

「謝ったじゃないですか」

「はぁ」

「その、はぁ、が分からないんですけれど」と僕は言った。そう言いながら携帯を出して、彼らの写真を撮った。彼らには素早すぎて写真を撮られたことも分からなかっただろう。

 写真はすぐにクラウドストレージにアップロードした。と同時に録音を始めた。

「はぁ」と言った奴が、周りを見回して、「こいつ、謝り方も知らねえぞ」と言った。

「済みませんじゃ、いけませんか」と僕は言った。きくは僕にしがみついていた。

 僕はオーバーのポケットの中を探って、皮手袋を脱ぎ、前にごろつきから奪ったナックルダスターを右手に嵌めた。そして皮手袋をその上からした。さすがに上まで引き上げられなかったので、右手を出して、左手で引き上げた。

 その時、一瞬彼らは身構えたが、皮手袋をしただけだとわかると、また元に戻った。

「済みませんで通れば、警察はいらねぇんだよ」

「じゃあ、警察に行きますか」

「なんだと、こりゃ」

「嘗めてますぜ、こいつ」

「おい、お前。お前が今、どういう状況になっているのかわかっているのか」

「分かってますよ。新宿にも渋谷にも行けない、道が塞がれていてね」

「わかってるじゃないか」

「で、どうしろと」

「だから、謝れって言ってるんだよ」と「はぁ」と言った男が言った。

「どう謝ればいいんですか」

「馬鹿か、お前」

「馬鹿呼ばわりされる覚えはないんですけれどね」

 僕ときくとききょうは、次第に路地の奥に追い詰められていった。

 路地の向こう側は、線路で、金網が張ってあった。また、路地の両側は居酒屋風の店で、まだ昼間の今頃はどこも扉が閉じられていた。

 僕らは袋地に入り込んでいた。

 相手は右側に八人、左側に七人いた。合計十五人だった。

「おい、口の利き方に注意するんだな」

「分かりましたよ」

「わかりゃいいんだよ。で、謝ってもらおうか」

「済みませんでした」

「おいおい、お前は何を聞いていたんだ。それで謝っているつもりか」

「謝っているつもりですが、違うんですか」

「やっぱり、こいつは馬鹿だぜ」

 周りの連中が笑った。

「そうだな。謝り方も知らねえ馬鹿だぜ」

「だから、どうすれば謝ったことになるんですか」

「言わなきゃ、わかんねぇのか」

「分かりません」

 僕がそう言うと、相手は呆れたような顔をした。

「本当に馬鹿だな、お前は」

「馬鹿で、済みません」

「金だよ、金」

 とうとう相手は、お金の話を持ち出してきた。

「お金が、謝ることとどう結びつくんですか」

「はぁ」

 また、そいつは「はぁ」と言った。

「とにかく、金を出せばいいんだよ」

「分からないなぁ。お金を出すことと謝ることとどういう関係性があるんですか」

「金を出すっていうことが、謝るっていうことになるんだよ」

「ああ、そういう意味だったんですね。で、いくら出せばいいんですか」

「さっきなら、数万で済んだが、今はこれだけ集まったんだぜ」

「何人ぐらいいます」

「馬鹿か、お前は。数えられないのか」

「怖くて、よく分からないんです」

「十五人だよ」

「十五人ですか。それで、いくら払えばいいんですか」

「少なくとも一人あたり、これくらいだな」とそいつは人差し指を一本立てた。

「千円ですか」

「馬鹿野郎。さっきなら、数万で済んだが、って言っただろう。一人一万に決まってるだろう」

 きくは僕のオーバーの腰あたりに手を置いていた。

 僕は財布を取り出した。そして中を見て、「五、六千円しかありません」と言った。

 すぐ近くの者が、財布を取ろうとしたので、僕はすぐにしまった。

「ふざけるなよ、この野郎」とそいつは言った。

 そいつは「キャッシュカードが見えました。キャッシュカードで引き下ろさせればいいんですよ」と言った。

「そうだな。五、六千円じゃ、しょうがないからな」

「そこの女の子を捕まえろ」