小説「真理の微笑 夏美編」

二-2

 午前八時半過ぎに電話が鳴った。夏美は洗濯をしていた。電話には母が出たが、すぐ切れたようだった。また電話が鳴り、母が出るとまた切れた。
 夏美はもしや高瀬からの電話かも知れないと思って、洗濯の手を止めて居間に行くと、今度は父が電話に出て、「いたずら電話ならやめんかい」と怒鳴っていた。そして、受話器を置こうとしていたので、夏美は「待って」と言って受話器を横からひったくるようにして、「あなたね。あなたなのね」と言った。
 少しの間があった後で、「そうだ」としゃがれた声が聞こえてきた。
「やっぱり、あなたね。声が変わっていてもあなただとわかるわ」と夏美は言った。
 受話器の向こう側からしゃがれた声で、高瀬はゆっくり「パソコン通信ができるか」と言ってきた。
パソコン通信?」
 夏美は、パソコン通信が何のことだか、わからなかったので、高瀬に訊き返すしかなかった。
 高瀬はもう一度「そうだ、パソコン通信だ」と言った。
パソコン通信って言っているのはわかるけれど、それをどうするの」
パソコン通信を知らないのか」
「そんなこと、急に言われてもわからないわ」
パソコン通信ができるようにして欲しい」
「どうすればいいの」
「まず、パソコンがいる」と言った。
「パソコンが必要なのね」
「そうだ」
「わかったわ」
「それにモデムがいる」
「モデム」
「そうだ」
「ちょっと待ってね、メモを取るから」
 夏美はメモ帳とペンを探して、見つけると「いいわよ、続けて」と言った。
 高瀬はもう一度、「パソコンとモデム」と言った。これを夏美はメモした。
「それに電話線ケーブルがいる」
「書いたわ。でもこれをどうしたらいいの」
電気屋に頼め」
「そうよね。電気屋さんにお願いすればパソコン通信できるようにしてくれるわよね」
「そうだ」
「でも、機械が揃ってもどうしたらパソコン通信できるの」
「手紙を出す」
「手紙? 手紙を出すって言っているの」
「そうだ」
「わかったわ。手紙が来るのを待っていればいいのね」
「そう、手紙に必要なことを書いて送るから、手紙が来るのを待て」
「わかったわ。待つわ」
「元気にしているか」
 夏美も高瀬の話し方に慣れてきて、もう繰り返さずに「ええ、元気にしているわ」と言った。
「良かった」
「心配しないでもいいわ。わたしたちは元気にしているから。でも、あなたはどう。あなたのことが心配よ」
「心配しなくてもいい」
「そんなの無理よ。あなたの声を聞いていると、苦しそうだもの」
「声帯を痛めたので、こんな声しか出せない」
「生体をどうかしたの。躰のどこかを痛くしたの」
 夏美は、声帯を生体と誤解した。それがわかった高瀬は言い方を変えた。
「喉を痛めたのだ」
「喉を痛めたのね。そうか、さっきは声帯って言っていたのね」
「そう。だから、上手く話せない」
「そうか、喉を痛めたので、あまり良くはしゃべれないのね。今、あなたはどこにいるの」
「病院」
「病院にいるの。病院から電話をかけているのね」
「そう」
「だったら、わたし、行くわ。どこの病院なの。教えて」
「教えられない」
「どうしてなの。わたしはあなたの妻なのよ。妻にも教えられないの」
「そう。どうしても教えられない」
「ねぇ。わたしがどれほど心配しているか、わかる」
 夏美は電話の前で泣いた。
「…………」
「何があったか知らないけれど、あなたのこと、忘れたことは一度もないのよ。あなたがいなくなってから一度もよ。あなたに会いたい。どこか教えて。どんなに遠くても、すぐに行くから。ねぇ、お願い。お願いよ」
 夏美の最後の言葉は悲痛な叫びだった。しかし、それも虚しく電話は切れた。