二十三
次の日も午前中には真理子は姿を見せなかった。
昼食後、リハビリが始まった。
四階のリハビリルームに行くと、看護師が富岡修と書き込んで理学療法士を紹介した。
「矢島です、よろしく」
まず手指の練習から入った。手首を回すところから始めて、それぞれの指が動くか確かめた。指でキツネの形を作ろうとしたが、これがなかなか上手くいかなかった。次に腕を上げる事をしたが、右は肩あたりまでしか上がらず、左は耳の近くまで上げる事ができた。
その後は奥の個室に入った。そこには女の先生が待っていた。
「頭の働きと、どの程度、記憶が戻っているのかを調べますね」
頭の働きは、いろいろな図形を何秒か見せられて、それと同じ図形を書く事だった。指がまだ上手くは動かないので、綺麗には描けなかったが、大体、同じようには描けた。
次は積み木のようなものを出して、一度、形を作ったら、バラバラにし、「同じように作ってみてください」と言われた。これも何とかできた。
次は百から七を引く計算を暗算でやらされた。上手くしゃべれなかったが、ラストまで辿り着く事ができた。
そして、記憶について訊かれた。
「子どもの頃の記憶は」
高瀬としての記憶ならあったが、富岡の子どもの頃の記憶などあるはずもなかった。
「いいえ」
「では事故を起こした直前はどうです」
「いいえ」
「何か覚えてはいませんか」
「いいえ」
私は記憶喪失を装わなければならなかった。しかしどう装えばいいのか分からなかった。下手な事をして疑われるのは絶対に許されなかった。だからすべて「いいえ」で答えた。
リハビリを終えて病室に戻ると、真理子が来ていた。
もうそれがほとんど習慣のようにキスをして、真理子はプリンタで打ち出した社屋の資料をベッドの上のテーブルに並べた。
「大体、こんなところね」
「今の所は何平米なんだ」
「そうね。二百はないわね、百九十ぐらいかしら」
「だったらその二倍ぐらいの所にしろよ」
真理子は呆れたような顔をした。
「あなた、一体いくらかかると思っているのよ」
「せいぜい月五百万ぐらいだろう」
そんな話をしている時、看護師が入ってきた。
「今、警察の方が来ているんですけれど、お通ししていいでしょうか」
真理子は「またなの」と言った。
「ええ」と看護師は応えた。
私は正直言えば帰ってもらいたかったが、事故の事など、知りたい事もいっぱいあった。第一、警察が何処まで真相を掴んでいるのか、探りたい気持ちもあった。
「入ってもらえ」
私はゴロゴロする声で言った。
「わかりました」
看護師がそう言うと、二人の刑事が入ってきた。一人は背はそれほど高くはなかったが、がっしりした中年の男で、もう一人はそれよりも若い背の高い男だった。警察手帳を見せて、がっしりした方が「野島です」と言い、もう一人が「宮川です」と名乗った。
二人は看護師に出された椅子に座った。
真理子は病室の隅の窓辺に立っていた。
「今日は何の用なんですか。事故の事ならもう済んだんでしょう」
真理子がきつい口調で言った。
「いや、私たちは長野県警の者ではないんですよ。警視庁です」
「えっ」
「いや、二ヶ月ほど前に高瀬夏美さんからご主人の捜索願が出されていましてね、それを調べているんです」
私は高瀬夏美と聞いてドキッとした。いつか譫言で夏美の名を呼んでしまった事を真理子は聞いているはずだったからだ。つい真理子の顔を見ようとしたが、堪えた。
「その事がうちと何か関係があるんですか」
しかし、真理子は相変わらずきつい口調だった。夏美と聞いて気付かなかったのだろうか。気付いたかも知れないが、真理子はそんな素振りさえも見せなかった。だから、私には何も分からなかった。
「高瀬隆一さんの乗用車が茅野の駐車場から見つかったんですよ」
年配の方が言った。
「茅野?」
真理子が呟くように言った。
私はどんな顔をしていたのだろう。
「不思議でしょ」
「茅野と言えば、富岡さん、あなたの別荘がある蓼科に行く通り道ですよね」
「何を言っているんですか」
私はつい口を出してしまっていた。ゴロゴロする声に二人は驚いたようだ。真理子が私の代わりに言い直した。
「二ヶ月前と言えば、あなたが事故に遭われた頃ですよね。これ、偶然ですかね」
「何が言いたいんですか」
真理子が言った。私はといえば刑事の鋭い勘に驚いていた。
「元の従業員の人にも話を聞いたんですよ。中島さんと岡崎さんだったかな。二人の話では、この春頃に画期的なワープロソフトを発売する予定だったという事らしいんですね。何でもワープロソフトなんだけれども、表計算ソフトみたいな事ができるとかなんとか」
私は心の中で震えていた。それはTK-Wordの事だった。北村が盗み出して、富岡に渡したワープロソフトだった。
「それがどうしたんですの」
真理子が言った。
「それって、トミーワープロとそっくりだったというではないですか。どういう事なんですかね」
「何を言いたいんですか」
真理子が怒った。
「ですから……」
「帰って下さい。そんな話、聞きたくもないわ。その高瀬とかいう人の失踪と何の関係もない事じゃないですか」
「関係があるかも知れないから、お尋ねしてるんです」
「関係なんてあるわけないじゃないですか。失礼しちゃうわね」
私は真理子を見た。彼女は本気で怒っていた。
「もう、いいでしょう。帰って下さい」
真理子の剣幕に追い立てられるようにして、二人は病室を出て行った。しかし、帰りがけに年配の方が「また、お邪魔するかもしれませんよ」と言った。
「何て人たちなの」
真理子は肩で息をしていた。そんな真理子を見ていたら、心の震えが治まってきた。
彼らは私の様子を見に来たのだ。
高瀬隆一が失踪して二ヶ月が経っている。なのに何の手がかりも掴めない。普通なら、もう捜査は打ち切られているだろう。だが、茅野の駐車場から高瀬である私の乗用車が発見された。そして、同じ頃、富岡が蓼科の山道で自動車事故を起こしている。これはどういう事なのだろうか、と考えるのは当然だ。
失踪と自動車事故、一見関係なさそうな二つの出来事だが、両方とも同じようなソフトを作っているソフトウェア会社の社長だったとしたら、偶然と言えるのだろうか。しかも、元の従業員の話によれば、トミーワープロは、その失踪した高瀬の会社で作っていたワープロソフトとそっくりだと言う。それが本当であれば、富岡が高瀬の会社のソフトを盗み、売り出した事になる。とすれば、高瀬が黙っているはずがない。富岡と高瀬が言い争いになり、その結果、富岡が高瀬を殺してどこかに埋め、その帰り道に事故を起こした。
二人の刑事が考えている事柄はそんなところだろう。
だが、高瀬が見つからない限り、富岡を殺人者にする事はできない。しかし、高瀬が見つからなかったとしても、状況証拠が揃ったら、富岡として高瀬である私が逮捕される可能性はある。
高瀬が生きている事を証明する事ができれば事は簡単だが、それは富岡が死亡している事と引き換えになる可能性があり、できる事ではなかった。