小説「真理の微笑 真理子編」

「じゃあ、行ってくる」

 富岡はいつものように片手を振り、車を出した。これから蓼科の別荘に向かうのだ。

「あなた、気をつけて」

 真理子の声は上ずっていた。

 もうこれで運命は変えられない。

 走り出した車を見送って真理子は思った、これでいいんだわ! と。

 家の中に入る。何だか、気持ちが落ち着かない。

 そわそわする感じから抜け出せないのだ。

 真っ赤なポルシェに向かった。車を出すためではない。煙草を取りに行ったのだった。夫の前では決して吸わなかったが、今は煙草を吸いたくてしょうがなかった。

 火をつけ、一服吸い込む。そうすると気分が少し落ち着いてきた。

 

 病院から電話がかかってきたのは、日を越えた午前三時少し前頃だったろうか。

「富岡修さんのお宅ですか」と女性の声がした。

「はい、そうですが」

「奥様でいらしゃいますか」

「はい、そうです」

「ご主人が事故に遭われて、今病院で手当をしています。大変危険な状態です」

 そう言った後、少し間を置き、持ってくるのに必要なものを言い、「こんな時間ですが、来られますか」と尋ねた。

「車がありますから、行けます」

「運転なさるのはあなたですよね」

「はい」

「夜間ですから、十分注意して下さい。こちらの病院の場所はわかりますか」

「いいえ、わかりません」

「そうですよね。ファックスがありますか」

「この電話と一緒になっています」

「では、一度電話を切ってください。こちらから案内地図を送信しますから」

「わかりました」

 受話器を置いてしばらく待つとファックスが送信されてきた。感熱用紙に案内地図が印刷されていた。

 再び、電話が鳴った。

「届きましたか」

「ええ」

「わかりますか」

「ええ」

「それでは、お待ちしています。くれぐれも運転に気をつけてください」

 受話器を置いた真理子は、気を落ち着かせようと、昼間持ってきた煙草に火をつけた。

 煙草を吸うと少しは元気が出た。

 今の電話は真理子の期待を裏切るものだった。富岡の死を告げる電話が警察署から来るものと思っていたからだ。

 看護師と思われる女性の話では、大変危険な状態にあると言っていたが、一刻を争うような状態には聞こえなかった。

 電話は茅野の病院からだった。ここが東京だとわかっていたはずだから、これから行くにしても、よほど飛ばせば二時間でも着くかも知れないが、普通に考えれば早くても車で三時間程度はかかるだろう。

 病院から電話がかかってきたということは、計画は失敗したことになる。

 富岡は大怪我は負ったが、助かる可能性があるのだ。

 看護師は真理子が動転しないように、注意して話していたが、煙草を吸い、気持ちが落ち着くと、むしろ醒めた感じになっていった。

 その時、また電話がかかってきた。

「こちらは茅野警察署ですが、富岡さんのお宅でしょうか」

「そうです」

「ご主人が事故に遭われまして……」と言い出したので、真理子はその言葉を遮るように「さきほど、病院から電話がありました。それで今から病院に向かおうと思っているところです」と言った。

「そうですか、それなら詳しい事情は病院でお話しすることにします」

「そうして頂けますか。とにかく、今は急いでいるものですから」

「わかりました」

 それで電話は切れた。

 警察からも電話がきたので、初めは警戒する気持ちが生じたが、病院の電話の方が早かったので気持ちはすぐに切り替えられた。今は早く病院に行き、富岡の容態を確認するのが先決だった。

 取りあえず必要なものを荷造りして、保険証をハンドバッグに入れると、赤いポルシェに向かった。途中で、家の鍵を締め忘れたかも知れないと思い引き返しもした。

 車に乗ると、益々醒めてきた。

 

 病院に着いたのは、まだ日の出前かも知れなかったが、あたりは明るくなった午前六時過ぎ頃だった。

 警備員に案内されて夜間出入り口から、病院内に入った。

 夜間受付の窓口に向かった。そこにいた看護師に案内されて三階に上がった。

 富岡はICUにいた。

「まだ容態は安定していません。こんなことを言うのは酷ですが、いつ危篤状態になってもおかしくない状況です。と言うよりも、今が危篤状態だとも言えます。助かるかどうかは本人次第です」

 中にいた医師が出てきた。真理子は駆け寄り「どうなんですか」と尋ねた。

 医師は「私にもわかりません。本人の体力が持てば或いは助かるかも知れませんが、非常に危険な状態であることは確かです」と言ったきりだった。

 その間に、看護師がいくつかの書類を持ってきた。

「こんなときに恐縮ですが、これらの書類を読んで、サインをして頂けませんか」と言った。

 真理子は手渡された書類を眺めるだけで、署名の欄に記入するのが精一杯だった。

「保険証をお持ちですか」と訊かれたので、ハンドバッグから出して渡した。

「コピーさせて頂きますね。そうしたらすぐお返しします」と言って、事務室の方に向かった。その間に渡された書類にサインはした。看護師が戻ってくると保険証を受け取るのと同時に書類を渡した。看護師は「ありがとうございます」と言って、書類を受け取った。

 午前七時を過ぎた頃に中年の警察官がやってきた。

「失礼ですが、富岡真理子さんですか」と尋ねた。

「はい、そうです」と答えると、「事故は不幸中の幸いというか、夜中の十二時過ぎに起きたようなのですが、たまたま通りがかった車が事故を目撃していて、近くの民家からすぐ百十番の連絡が入ったんですよ。それでパトカーと救急車、消防車がすぐ出動して、車から放り出されていたご主人をたまたますぐに発見したんですよ。その時は、上半身は焼けただれていました。しかし、あのまま車に乗っていなくて幸いでした。車は我々が到着する前に爆発したそうです。本人はすぐに救助されてこの病院に搬送されてきたんです。もう少し搬送が遅ければ助かっていなかったでしょう」とここまで一気にしゃべった。

「夫は事故に遭ったのは不運でしたが、その中でも運が良かったということでしょうか」

「ええ、昨夜のような事故が起これば、一応はパトカーや救急車、消防車が出動しますが、怪我人が路上に倒れている場合なら助けることも可能ですが、崖下に落ちている場合は、普通は翌日の捜索ということになるのです。ところが、今回の場合には、たまたま木に引っかかっているご主人をすぐに見つけたのと、その木の位置が救助するのにそれほど難しい場所ではなかったという偶然に救われたのです」

「そうでしたか」

「ご主人は救えたのですが、身元を示すものが焼けてしまっていて、最初は誰だかわからなかったのです。しかし、ナンバープレートから所有者がわかったものですから、病院に伝えたのです。その後で、お宅に電話をしました」

「ええ。夫の容態が気がかりだったものですから、急いでこちらに向かいました」

「そうでしょうね、事故については、現場検証が九時ぐらいから始まります。もう警察の者が現場に向かっているところです」

「事故現場は蓼科の山奥なのでしょうか」

「ええ、山奥と言っても、ここからなら二時間か二時間半ぐらいの所です。もっともパトカーで向かうとしたらの話です。山はカーブが多く速度制限があるので、乗用車で行くとしたら、もっとかかるでしょう」

「そうですか」

「お訊きしたいことが一つあるのですが」

「何でしょうか」

「お車に乗っていたのは、ご主人なんですよね」

「ええ」

「別の人に車を貸していたというようなことはないでしょうね」

「ありません。どうしてそんなことを訊くのですか」

「さっきも話したように、身元を確認できるようなものがなかったからです。財布や免許証は持っていたでしょうが、おそらく事故の際に焼けてしまったのではないかと思いまして……」

「…………」

「何しろ、本人を確認するものを本人が所持していなかったのです」

 その時に看護師がやってきた。

「主人はどうなんですか」

 真理子はソファから立ち上がって訊いた。

 看護師は「相変わらずです。まだ、危険な状態であることには変わりありません」と言った。変に家族に希望を持たせて、後でクレームをつけられるのを恐れているかのようにも見えた。

 中年の警察官が、「これを見てもらえませんか」と言った。それは焼けただれた人の手だった。真理子はすぐに顔を背けた。

「何ですの、それ」

「これはご主人の左手です」と警察官は言った。

「お医者さんから説明がありませんでしたか」

「何がですか」

「顔のことです」

「顔?」

「ええ」

「いいえ」

「そうなんですか」

「それがどうかしたんですか」

「いや、なに……」

 警察官は、しまったとでも思っていたのだろう。しかし、言い始めてしまったものだから、途中で止めるのもおかしな話だった。仕方なく続けた。

「ナンバープレートから車の所有者はわかったのです。それと同時に免許証も照会しました。免許証には顔写真が載っていますよね」

「ええ」

「それで本人かどうか確認しようとしたのです」

「…………」

「しかし、事故が事故なものですから、顔からは本人かどうか判別がつかなかったのです」

「主人の顔は傷付いているんですか」

 真理子は少し大きな声で言った。

「ええ、詳しいことは私たちもわからないのですが、顔から本人だということが確認できなかったのです」

「そんな……」

「それでですね。現場に駆けつけたパトカーの警官が現場の写真を撮ったのです。これは現場の状況を保全するためです。そのうちの一枚がこの手の写真なのです」

 そう言って、警察官は、もう一度、写真を真理子の方に差し出した。やはり焼けただれた左手だった。しかし、よく見ると薬指に指輪をしているのがわかった。

 警察官が「薬指に指輪をしているでしょう」と言ったので、真理子は頷いた。

「これがその指輪の拡大写真です」と言って、警察官はもう一枚の写真を見せた。

 そこには結婚指輪が鮮明に写っていた。それは富岡がいつもしているものだった。真理子が見間違うはずはなかった。

「主人です」

 真理子はそうはっきりと言った。

「この結婚指輪は、いつも主人がはめているものです」

「そうですか。それを確認したかったのです。ご協力、ありがとうございました」

 警察官はそう言うと、取りだした写真をバッグにしまった。

「わたしはもういいのですか」

「ええ。事故に遭われた方が富岡修さんだと確認できましたから、もう用件は済みました。ご主人の回復を願っています」

 用事が済むと、警察官はさっさとその場を立ち去っていった。

 警察官がいなくなると真理子は所在がなくなった。

 通りがかった看護師に「わたしはどうしたらいいのでしょう」と訊いた。

 その看護師は「さぁ」と首を傾げてから、「ちょっとお待ちください」と言って、ナースステーションの方に向かった。しばらくして、その看護師が出てくると「今は特に奥様にお伝えすることはありません」と言った。

「ではわたしはどうしたらいいのですか」

 彼女は少し考えてから、「昨夜から眠られてはいないんですよね」と言った。

「電話がかかってくるまでは眠っていました。でも、それからは眠ってはいません」

「では、近くのホテルでお休みになった方がいいですね。ご主人の容態は今は安定していますが、いつ急変するともわかりませんから、近くにいて頂く方がいいですね」

「どこか近くのホテルを紹介してもらえますか」

 そう言うと、看護師は「ちょっとこちらに来てください」と言って廊下を曲がった所から見える、道路を挟んだ隣の建物を指さした。

「あのホテルならどうでしょう」

「わかりました。あそこに泊まることにします」

「部屋番号などがわかりましたら、こちらにお電話頂けますか。もし、急な用ができたらご連絡できるでしょうから」

「わかりました」

「では、失礼します」

 看護師が離れていくと、真理子はもう一度ICUの病室の前に立ち、それからきびすを返した。