小説「真理の微笑」

三十二
 夕食を終えた。今日は土曜日だからリハビリはなかった。明日も日曜日だからない。
 それよりも月曜日からの言語聴覚士との事が気になった。今は喉を痛めているが元のように話す事ができるようになるのか。そうすると声はどうなるのだろう。私は富岡ではないのだ。
 その時、私は今朝の夏美との電話の事を悔やんだ。パソコン通信の事で頭がいっぱいで夏美と実質的な事は何も話してはいなかったではないか、と思ったのだ。
 すぐに電話機をサイドテーブルからベッドに持ってきた。ダイヤルを回した。何度か、コール音が聞こえた。義父が出た。私はすぐに電話を切った。そして、また、ダイヤルを回した。また、義父が出た。また切った。三度目にダイヤルした時に、夏美が出た。
「ごめんね。あなたからだと思ったんだけれど、父が出ちゃって……」
「あやまる事なんかないよ」
 私はゆっくりと言った。
「喉を痛めないように話しているのね」
「そう」
「上手くしゃべれないから、そうしているのね」
「そうだ」
「聞き取りにくいけれど、ちゃんと聞こえているわよ」
「よかった。今朝、電話した事、分かった」
「わかったわ。早速、電気屋さんに行って、パソコンとモデムを注文したわ」
「そうか」
「水曜日に届けてくれるって。その時に、パソコン通信ができるように接続してくれるとも言っていたわ」
「それでいい。電気屋さんに任せておけば、繋がるようになるよ」
「でも、その後、どうしたらいいの」
「手紙を送る。火曜日に出すから、木曜日には着くと思う」
「わかったわ。手紙を待っていればいいのね」
「そうだ。その中にパソコン通信ソフトと設定用のフロッピーディスクを入れておくから、手紙に書いてあるようにインストールするといい」
「わたしにできるかしら」
「大丈夫。分かりやすいように書くし、面倒な設定はフロッピーディスクに入れておくから、それを差し込むだけでいい」
「いいわ、やってみる」
「後は、手紙に書いてあるようにすれば、俺のメールを読む事ができる。夏美もメールを書いてくれ。返信というメニューを選択すれば俺のメール箱に届くから」
「わかったわ。ねぇ、あなた、パソコン通信なんて面倒な事しなくても、こうして電話をかけてきてくれればいいのに……と思うんだけれど」
「すまない。今はこうするしかないんだ」
「わたし……」
 夏美がそう言うと、泣き声が伝わってきた。
「あなたに会いたい。会いたくてしょうがないの」
 泣きながらそう言った。私も胸が熱く、そして苦しくなってきた。
「ごめん。俺もできる事なら、会いたいと思っている。でも、それはできない」
「何があったの」
「言えない」
「わたしにも言えない事なの」
「…………」
「わかった。訊かないわ。でも、わたしはあなたの事愛しているからね、どんな事があっても」
 私はその言葉に涙を落とした。今の私が、もはや夏美の知っている高瀬ではなくなっている事を言う事はできなかった。私は泣きながら、「許してくれ」と言って電話を切った。電話機の上に両手を乗せ、そこに顔を埋めてしばらく泣いた。

 ひとしきり泣いたら、パソコン通信ソフトのマニュアルを読んだ。私には難しくはなかったが、素人がこれを読みこなすには、骨が折れると思った。大体、インストールの仕方から起動までもが面倒だった。私は、マニュアルの余白にボールペンで分かりやすいように書き込みを入れた。下手な字だったが、読む事はできるだろう。
 一番分かりにくいのは、ダイヤルアップ接続の仕方だった。ソフトには、一応、大手の接続先の登録はされていた。だから、そこを選ぶだけで、接続先の電話番号を書き込む必要はなかった。私が入っていたパソコン通信会社も最大手だったので、一番先に登録されていた。それを選んだ後に確認画面になるのだが、登録内容を確かめるようにという表示が出る。そこはただ「OK」ボタンをクリックすればいいのだが、画面には、幾つものチェック欄があって、素人なら迷うだろう。
 後は自分のメールアドレス画面が出るのでそこに適当なハンドルネームを入力すればよかった。この場合、夏美の設定画面なので、私は「natti」と書き込んだ。夏美と付き合っていた頃は、なっち、と呼んでいたからだ。そして、後は、メールアドレスを確認する画面(メールアドレスを変更する場合は、ここでする)になるのでOKボタンをクリックする。今度は相手の、つまりこちらのメールアドレス画面になった。(株)TKシステムズで使っていたハンドルネームではなく、分かりやすく「Ryuichi」と書いた。書いているうちに、その上に涙が落ちた。後はこちらのメールアドレスを書き込み、夏美に送る方のフロッピーの設定は終わった。
 午後十時になって消灯時間がきた。その時に、看護師から眠剤をもらって飲んだが、なかなか眠れなかった。