小説「真理の微笑 真理子編」

三十九

 真理子は午前八時過ぎに病院に向かった。病室に入ると、富岡が朝食をとっているところだった。

 真理子が椅子に座ると、「休めているのか」と富岡が言った。

 真理子は首を左右に振った。高瀬隆一と思われる男とキスをしたことが、真理子の頭からは、なかなか離れなかったからだ。

 富岡が「今日は会社に行って、昨日決裁した書類を……」と言いかけて、しばらく間がおり、やっと「専務に渡してくれ」と言った。

「わかったわ。高木さんね、高木さんに渡せばいいのね」

「社員名簿ってあるよね」

「あると思うわ」

「だったら、持ってきて欲しい」

「わかったわ。それだけでいい」

「書類を渡したら、社員名簿を持ってきてくれればいい。今日は、土曜日だからそれだけしたら家に帰るといい」

 真理子は頷いた。

 富岡は番茶を飲むと、真理子を呼び寄せた。そして、抱きしめるとキスをした。

 富岡のキスは思いのほか激しかった。真理子はそれを受け入れた。

 唇を離して、病室の入口の方を見ると、朝食の膳を片付けにきた看護師が立ち尽くしていた。

 

 会社に着くと、高木を呼んで富岡が決裁した書類を渡した。そして、「会社移転の方は話は進んでいるの」と訊いた。高木は「総務部に話は通しておきましたから、そのうち報告がくると思います」と答えた。

「会社移転に関わる書類については、任せてもいいのよね」

「ええ、大丈夫です」

 高木が出ていくと、滝川に内線をして、「社員名簿が欲しいんだけれど、どうしたらいいの」と訊くと、「総務部が持っているので伝えます」と答えた。

 しばらくして、総務部の長谷川が黒い硬い表紙に綴じ紐で綴じられたものを持ってきた。

 真理子は印刷されたものを想定していただけに意外だった。

 真理子の表情を読んだ長谷川は、「八十名の小所帯ですからね」と言いながら、社員名簿を真理子に渡した。

「高木専務から話は聞いていると思うけれども、会社移転の方はどうなるのかしら」と真理子は長谷川に訊いた。

「今、検討中ですが、専務からは二十三、二十四日の土日にやって欲しいということだったので、手配しているところです。ただ、決まってしまえば会社の移転は、多分、あっという間に終わりますよ。業者はそのあたりは心得ていますからね。ただ、トミーワープロの大ヒットの上に、会社移転ですからね。大変です」と言った。長谷川がTS-Wordとは言わないで、トミーワープロと言ったのが意外だった。そうか、社内でもトミーワープロって言っているんだ、と真理子は思った。

 

 午後、真理子は病院に行った。病室に入り、ベッドの枕元に座ると、待っていたかのように富岡はキスをしてきた。まるで恋人のような感じだった。それは真理子にとっても、決して悪い気持ちはしなかった。

 真理子は持ってきた社員名簿を富岡に渡した。富岡はそれを開くと、最初のページを見ただけですぐに閉じた。後で、ゆっくり見るつもりなのだろう、と真理子は思った。

「で、今日は、どうだった」と訊いてきた。

「別に何もないわ。あなたが決裁した書類を高木さんに渡してきただけ」と真理子は言った。

「そうか。会社移転の方は進んでいるようか」

「そうみたいよ。総務部が忙しそうにしていたわ」

「真理子、頼みがあるんだが」

「なぁに」と真理子が言うと、富岡は「これなんだが」と言って、パソコン雑誌のあるページを見せた。そこには、丸をつけたパソコン通信ソフトが載っていた。

「丸がついているもののこと」

「そう。それを買ってきてくれないか」

「いいけど……、今から?」

「うん」

「そんな、今来たばかりよ」

「そこを頼む」

「それにパソコンが届くのは、月曜日よ。それからでも遅くはないんじゃない」

「そこをなんとか」と言いながら、拝むような格好をして見せた。

「まったく、仕方ないんだから」

 真理子はハンドバッグを手にすると、立ち上がった。

「ちょっと待って、忘れていた。二つ買ってきて欲しいんだ」

「一つでいいんじゃないの」

「中身をいじるからさ、二つ要るんだ。それと新しいフロッピーディスクも買ってきて欲しい。十枚パックのやつ」

「わかったわ。それでもういい」

「ああ」

「じゃあ、行ってくるわね」

 

 真理子は病院を出ると、この前行った電気量販店に向かった。

 店に入ると、「パソコン通信ソフトってある」と訊いた。

「こちらです」と案内された。何種類も並んでいた。どれだかわからなかった。○の付けられたパソコン雑誌を持ってくれば良かったと、後悔した。しかし、確か、面白いネーミングのソフトだったことは覚えていた。

「一番売れているのはどれ」と訊いてみた。

「これですけれど」と店員が差し出したのが、『すぐつながーる』というソフトだった。

「それそれ」と真理子は言った。

「二つ欲しいんだけれど」と言うと、店員はそのソフトの方に向かって行き、「良かったです。ちょうどもう一つありました」と言って戻ってきた。

「それと十枚パックのフロッピーディスクもお願いします」

「承知しました」

 

 必要なものを買うと、真理子は病院に向かった。

 戻りながら、富岡が高瀬隆一であることを確かめたくなった。通りがけに書店が目に入ったので、車を止めた。

 店内に入ると、週刊誌が置かれているコーナーに向かった。大抵の週刊誌は、トミーワープロが売れていることとその社長が自動車事故に遭ったことを載せていた。ただ、一誌だけが高瀬隆一の失踪について書いていた。真理子はその週刊誌を手にすると、記事を読んだ。記事によれば、七月三日に警察に捜索願が出されているそうで、高瀬隆一の失踪はその二日前からと書かれていた。二日前と言えば、富岡が蓼科の別荘に行った日ではないか。真理子は手を振って富岡を送り出したことを、鮮明に覚えていた。当然だった。この蓼科行きで、富岡は自動車事故を起こして死亡するはずだったからだ。真理子は最期の別れと思って見送っていたのだ。

 記事には、目線は消されていたものの、高瀬隆一の妻と子どもの写真が載っていた。これを富岡が高瀬隆一であるとしたならば、どう見るだろうか。

 真理子はその週刊誌を買って、書店を出た。

 

 真理子は病室に入ると、「これでいい」と言って、ベッドに電気量販店の袋を置いた。

 中を確かめた富岡は「済まない、ありがとう」と答えた。

「ちょうど二つしかなかったわ。あなたの言っていたそのソフト」

「そうか」

 

 真理子は椅子に座って、コップの水を飲んだ。

 いよいよだ。真理子は、富岡の方をじっと見ながら、「隆一さん」と呼びかけてみた。

 富岡の躰が一瞬止まったように見えた。しかし、富岡は顔を上げようとはせずに、パソコン通信ソフトのマニュアルを読み続けていた。

 真理子は買ってきた週刊誌を読みながら「高瀬隆一って言うのね、失踪している人の名前は」と言った。だが、富岡はそのままパソコン通信ソフトのマニュアルを読んでいた。

 普通なら、「なに」とでも言いそうなのに、ことさら無関心であるのは、それを装っているからではないのか、という思いが真理子には湧いた。

 

 ある程度の確信を持った真理子は、週刊誌を置いて会社の話を始めた。

「会社の移転はそんなに時間はかからないようよ。業者が、ぱっぱとやるようだから」

「そうだろうね。家の引越しの大がかりなものだと思えばいい」

 呪縛から解けたように、富岡は言った。

 真理子は、「それに、移転に必要な書類は高木さんが何とかしてくれるようだし……」と言った。

「家の改修は?」

「そうだったわ。そっちも進めなければね。改修中は家にいなければならないから、会社には行けないわね」

「会社の移転と同じ時期にやればいい」

「わたしもそう思っている。でも、家の改修は一週間ほどかかるようよ」

「へー、そんなもんで済むんだ。大したことないじゃないか」

「会社の引越しは土日でやっちゃうから、それに比べたら……」

「家の方が大事だよ。真理子がいてくれなけりゃ、どうにもならないんだから」

「家のことは覚えているの」と真理子が突っ込むと、「いいや、全然」と富岡は否定した。

「そうなの。覚えているのかと思った」

「それは違う。全く思い出せない」

「そうなの」

「事故を起こす前の俺はどうだったんだ」

「本当に思い出せないの」

「そう言っているだろう」

「わかったわ。教えてあげる。そうねぇ、あなたは会社人間だったと思うわ」

 真理子はわざと前の言い方と違う言い方をした。以前は、富岡が自分は会社人間だったのだろうか、と訊いた時に、否定的な言い方を真理子はしたのだった。

「でも、夫としてはどうかな。わたしにはいい夫ではありませんでした」

「きついな。でもキスをしているじゃないか」

「入院してからよ」

「えっ」

「あなたが目覚めてからキスをするようになったの」

「そんな。そうなの」

「ええ。そりゃ、結婚当初はよくしていたけれど……」

「じゃあ、どうして」

「最初は、あなたの記憶が戻るかと思って……。わたしの顔を見ても初めはわからなかったでしょ。だからよ。キスすれば、少しは思い出すかも知れないと思ったの」

「そうだったのか。俺はてっきりいつもしているものだと思っていた」

「もう結婚して十二年にもなるのよ。そんなわけないじゃない」

「でも、今は真理子といつでもキスをしていたい」

「いいわよ、ほら」

 真理子は富岡とキスをした。いや、高瀬隆一とキスをした。

「あなた、変わったわね」

 キスをし終えると、真理子は富岡となった高瀬隆一に向かってそう言った。