小説「真理の微笑」

 あの猛暑の続く夏の日、私は蓼科にある富岡の別荘に向かっていた。数キロ歩き、汗だくだった。山の端に日が微かに残り、西の空の雲を紅く染めていた。

 …………

 その二ヶ月前の事だった。街で偶然に北村を見かけた。道路を挟んだ向かい側だった。北村が角のビルの地下の喫茶店から出てきたところだった。北村は、我が社のシステム・エンジニアだった。私が信号を渡ろうとしたら、赤になった。北村は反対方向に向かいそうだった。彼には、大事な仕事を任せていた。私は朝からそのために、何度も彼を呼び出していたのに、こんな所で油を売っていたなんて。私は、あわてて声を出した。あらん限りの力で呼び止めるほどの大声ではなかった。青信号で一斉に走り出そうとしている車の騒音にかき消されて、私の声は聞こえるはずもなかった。しかし、彼はこちらを向いた。そして、私に気付き、逃げるように反射的に走り出した。彼は前をよく見ていなかった。歩行者が途切れたので交差点を右折しようとしていたトラックの前に飛び出した。まるで飛び込むかのようにはねられた。

 それを見ていながら、その時の私には、何が起こったのか、俄には理解できなかった。私は信号が変わるとすぐに走り出し、人垣をかき分け近寄った。誰かが「救急車だ」と叫んでいた。仰向けに倒れていた北村の頭部から次第に血が道路に滲み出していた。私は「北村~」と叫んだ。彼は私を見ていた。そう、確かにしばらく私を見ていた。微かだが、唇が動いた。何か言おうとしていた。それもできず、目を閉じた。

 

 パトカーの方が先に着き、警官が呆然と立ちつくすトラックの運転手に話しかけた後で私のところに来た。質問される事に答えながら、目は横たわる北村を見ていた。

 救急車は渋滞に阻まれて少しく遅れて着いた。警官が尋ねる言葉は遠い所から届いてくる感じだった。私はただ機械的に一通り話し終えていた……と思う。

 救急隊員が降り立つと、北村はすぐに担架に乗せられた。

「ご家族か知り合いの方?」

 救急隊員の一人が、北村が横たわっていた傍らに立ちつくしていた私に訊いた。「ええ」と言うと、「じゃあ、乗ってください」と言われたので、彼に従うように救急車に乗り込んだ。

 何かを訊かれたが、覚えていない。分かっている事はきっとそれなりに答えていただろうとは思う。助手席の隊員が無線で搬送先の病院と連絡を取っているのがぼんやりと聞こえてきた。その間も北村がはねられた瞬間が何度も頭の中で繰り返されていた。

 近くの救急病院に着くと、すぐに手術が始まった。最初に手術室の前の長椅子に座っていたが、次第に騒然とした時間から解放された私は、電話を探して、会社の中島に状況を伝え、誰か病院に来るように頼んだ。

 

 結局、北村は助からなかった。

 手術から二時間後に死亡した。臓器のいくつかが(説明を聞いたが覚えていない)破裂していたのだった。何故か北村は封筒に入った三十万円を持っていた。