小説「真理の微笑」

 我が社のプロジェクトは極秘に進められていた。画期的な技術とアイデアだったと思う。この頃のパソコンは、スタンドアローン(個々に独立して他のPCとつながっていないPC)的に使われる事が多かった。イントラネット(企業内におけるプライベートネットワーク)もそう多くはなかったと思う。しかし、電話回線(特にISDN)を使って特定の通信会社を経由してメールやその他の情報を交換する時代を迎えていた。といっても、それは始まったばかりで、まだインターネットの時代を迎える前段階だった。

 ほとんどのパソコンはワープロかデータの集計処理に使われていた。しかし、そのインターフェイスはお粗末なもので、ユーザーにとって決して分かりやすいものではなかった。だから、パソコンで文書が作れるワープロソフトが売り出されていても、まだ企業ではワープロ専用機の方が圧倒的に多く使用されていた。

 私たちは、パソコンのワープロの入力画面を一新して、専用機に勝るとも劣らないものを作りあげていた。それに加えて、よく使われる表計算ソフトも罫線機能を利用して組み込んだのだった。

 グラフィカル・ユーザー・インターフェイス(GUI)も新しく作って、それまでの黒い画面に白い文字を打ち込むのではなく、白黒を反転させ、まるで白い紙に文字を書いていくような画面を作りあげたのだった。そして、機能は画面上部にメインメニューを表示して、そのメニューをクリックするとプルダウンメニューが現れるようにした。その先はポップアップメニューを表示させて、そこに書いてある指示に従っていけば、やりたい機能を呼び出し、使えるようにした。メニューにはアイコンも多用した。

 この機能の将来性については、自信はあったし、先駆者としての自負も持っていた。北村はそのプロジェクトの責任者だった。信頼していた。会社設立当時からの同志だったからだ。

 

 北村とは、各有名企業や大小のソフト会社などがその新商品などを発表する場であるビジネスショーで知り合った。痩せた躰に明らかに慣れていないスーツを着ていた。その頃は私も北村も大手の子会社のソフトウェア会社で働いていた。たまたま出展していたブースが隣同士だったのだ。客が途絶えたとき、何度か会話をした。面白い奴だと思った。四日間に亘って行われる展示会の帰り、二度だったろうか、居酒屋で話をした。朧気だが、今自分がしたいものと現実にやっている仕事のズレを互いに感じ合った。何か新しい事に挑戦したい気持ちを話し合った。酒の勢いもあったけれど、何かやれそうな気がした。

 その後もちょくちょく会うようになった。途中まで帰りの電車が一緒だった。

 ある時、どれだけの時間、語り合っていただろう。「帰れるのか」と尋ねたら、北村は「終電はもうとっくに出た」と答えた。私は腕時計を見た。午前二時になろうとしていた。「明日は」と北村に訊くと、「寝ているよ」と笑った。

「だったら、始発まで飲むか」

「いいね」

 その時、私は会社を興そうと思った。彼となら、なんとかやって行けそうな気がしたからだった。

 それから一年半経った頃だろうか、最初の事務所を浅草橋近くの小さなマンションの一室に持った。狭いエレベータがついた七階建ての五階だった。秋葉原に近く、家賃も比較的安かった。株式会社の設立資金は二人の退職金だけではまかなえず、父から借りた。

 1DKの部屋に、電話とファックスを入れて、事務用デスクとパソコンデスク、ソファと小さなガラステーブルを入れたらいっぱいになった。最後に深緑の玄関ドアに会社名の入ったプレートを両面テープで貼った。

「(株)TKシステムズ」

「どうだ」

「いいね」

 私が言い、北村が答えた。

 Tは私の名字の高瀬から、Kはもちろん北村だった。

「TKって、鶴亀システムズの略としても読めるね」

 北村がそう言った時、「ホントだ。縁起がいいや」と笑ったのを覚えている。

 

 北村の他にもう一人システムエンジニアの中島とプログラマーの岡崎も誘い、四人でスタートした。二人には最初の六ヶ月はそれまでもらっていた給料の半分以下になる事を承知してもらっての事だった。紙切れになるかも知れない僅かな自社株を与えた。雑務は全員でこなして、私は営業に回った。

 取りあえず何らかの仕事を見つけてくる必要があった。最初の仕事はデータ入力だった。前の会社にいた時に、近くの専門学校の学生名簿の管理システムを作った事があった。古いタイプのIBMのコンピュータだった。職員が残業しながら打ち込んでいるのを知っていた。入力方法についての講習を二十人ほどに教えたのは私だった。取りあえずそのデータ入力を格安で請け負った。

 中島は画像処理に長けていて、手作業での入力ではなく、鉛筆か黒いペンで正確に書かれた数字やアルファベットであればスキャナから読み取れるプログラムを作っていた。それが役立った。スキャナは手製のバーコードリーダーのようなものから始めて、最後はコピー機のようにページ毎に読み取る形にまでした。アキバで買い求めた中古品を改造して作った。この技術は某メーカーに売り込み、共同開発という事になった。

 データ入力の仕事は割がいいとは言えないにしても、継続的に入ってきたので一年ほどもしたら収入は安定した。データ入力のオペレーターもパートで何人か雇った。この仕事は、名刺と葉書の読み取りに応用できた。そちらの方も、大手メーカーと組んだプロジェクトに進んだ。そして、会社は軌道に乗った。

 データ入力の傍ら、データの処理のために自前でデータベースソフトも作っていた。それも一部製品化したが、ヒット商品とはならなかった。DOSをベースにしたデータベースソフトは時期尚早だったかも知れない。しかし、これらの技術は次のステップに確実に繋がっていくと信じていた。

 しかし、当時、パソコンと競合していた事務機器はワードプロセッサーだった。パソコンも作っている各社から、それぞれ専用の製品が売り出されていた。パソコンでその専用ワープロに劣らないワープロソフトが作れれば、ヒットする事は間違いなかった。

 だから、(株)TKシステムズもワープロソフトを作る方向に舵を切ったのだった。当時のワープロソフトは戦国時代で、いくつかの有力なソフトが出回っていた。(株)TKシステムズも後発だったが、新しいGUIを使った画期的なワープロソフトを作る自信はあった。