小説「僕が、警察官ですか? 1」

 行方不明者届が出ている石井和義は、四日経ってもまだ見つかってはいなかった。その間、妻の繁子が交番を毎日訪ねてきては、その後の様子を訊いていった。交番としては五十三歳の年齢の男性の事故・事件報告がなかったので、「きっと無事でいますよ」と言うほかはなかった。ただ、石井が働いている高木工業株式会社では一億四千万円もの使途不明金が見つかっており、経理を担当していた石井には、会社にも行けずに家出をする動機があった。大人が四日も見つからないと言うのは、本人が承知の上での家出としか思えなかったのだ。

 

 そうしているうちに全国警察剣道選手権大会がある月曜日がやって来た。

 全国警察剣道選手権大会の場所は日本武道館、開会式は午前九時だった。僕は警視庁の選抜枠で出場することになっていた。仲間とは午前八時三十分に現地で集合することになっていた。昨年の準優勝者の西森幸司郎がまとめ役をやっていた。

 僕は日本武道館に着くと、携帯で出場する警視庁の仲間と落ち合った。その時、初めて西森幸司郎を見た。歳は三十歳ぐらいの精悍な顔つきをした男だった。いかにも刑事という男だった。今は北渋谷署にいるという。僕に対しても丁寧な語り口だった。それは僕がキャリアだったからかも知れなかった。

 僕は、剣道具の竹刀ケースの中には、いつものように定国を袋に詰めて入れてきた。

 開始前のセレモニーの後、八会場に分かれて、百六十余りの全国の警察から選抜されてきた者たちが時間無制限の一本勝負の試合をするのだ。

 トーナメント表を見ると、決勝まで七試合することになっていた。トーナメント表では八試合する者もいたが、僕は七試合だった。警視庁のグループはそれぞれに分けられていて、四回戦までは当たらないようになっていた。

 開会式が終わると、すぐに試合が始まった。

 

 僕は、試合前に竹刀ケースの中の袋に入っている定国に触れた。定国から力が伝わってくるのが分かった。

 初戦は、山梨県警の川北時雄だった。三十代後半のように見えた。試合慣れしている感じが伝わってきた。前回の成績では四回戦まで勝ち上がっている。侮れない相手だった。

 試合場に入って、礼をすると、開始線まで進み、蹲踞の姿勢を取った。そして、竹刀を交えた。

「始め」の声とともに立ち上がると、相手は一歩引き、竹刀を下段に落とした。そして、すぐに踏み込んできた。下から竹刀が突き上げられてきた。僕の竹刀がその竹刀に触れると、相手は手首が折れたかのように竹刀が弾かれ、小手が丸出しになった。僕は「えい」と言う掛け声とともにその小手を打った。旗が三本上がった。僕の一本勝ちだった。

 川北は僕を見た後、自分の手首を掴んだ。竹刀が弾かれたことが不思議だったのだろう。初めて、僕と対戦する者は皆、そう思うだろう。

 次の新潟県警の杉下隆史は二十代後半の伸び盛りの選手だった。去年は準々決勝まで進んでいた。強豪だった。ただし、向こうも僕が全日本学生剣道選手権大会で四連覇をしていることを知っているらしく、慎重だった。すぐには打ち込んで来なかった。僕が上段に構えた時に、小手を狙いに来た。それを待っていた。竹刀がすうっと伸びてきた。その竹刀に僕の竹刀を合わせた。相手の竹刀が弾かれて、向こうの体勢が崩れた。そのまま僕は竹刀を上段に構えて打ち下ろした。面が決まって勝ちになった。

 三回戦は、山口県警の大沢孝幸だった。僕は当たったことはなかったが、僕が全日本学生剣道選手権大会で四連覇をする二年前の優勝者だった。小手が上手いという話だった。

「始め」の声とともに、彼は踏み込んできて小手狙いで来た。竹刀がしなやかに伸びてきた。こういう者は強い。しかし、その竹刀に僕の竹刀を合わせると弾かれた。相手は竹刀が弾かれることを研究していたのだろう。すぐに一歩下がると、体勢を立て直した。さすがに全日本学生剣道選手権大会で優勝経験がある者だと思った。大沢は中段に構えた。竹刀を弾かれるのを警戒していた。それでも僕は一気に踏み込んで、竹刀を合わせた。その後にもう一度竹刀を叩いた。相手がバランスを崩したところで、胴を払った。僕の勝ちだった。

 午前の試合はここまでだった。午後から四回戦が始まる。トーナメント表を見ると、警視庁の者たちが結構勝ち進んでいる。このまま勝ち進めば、決勝で昨年の準優勝者の西森幸司郎と当たることになる。

 一時間の休憩時間があり、その間に僕は愛妻弁当を休憩室で食べた。

 

 四回戦は警視庁の村田定一だった。彼は小手から面への連続攻撃に定評があった。昨年も準々決勝まで進んでいた。

「始め」の声の後、村田は一歩下がった。正眼の構えは変えなかった。そこから、踏み込んできた。竹刀が小手に向かってきた。その竹刀を弾くと、僕は彼の得意とする連続攻撃で、小手から面へと打ち込んでいった。小手の時に竹刀を弾かれていたので、村田は面を防御することができなかった。僕の面が綺麗に決まった。

 次は準々決勝だった。昨年の優勝者、大阪府警の山脇真一と当たった。

 試合場内に入って、互いに礼をした。そして、開始線に進み蹲踞の姿勢を取った。

竹刀を交わすと、「始め」の声がかかった。

 山脇は竹刀の動きが読めなかった。もの凄く素早かった。こちらの間合いを計るようにさっと振り降ろしてきたかと思うと、次にはもう中段の構えを取っていた。その構えでいる竹刀に竹刀を重ねた。山脇は竹刀が弾かれることを予想していたように、後ろに跳んだ。弾かれた竹刀を引き戻される前に勝負をつけないといけない相手だった。僕は胴を狙いに行った。山脇は竹刀で防いだ。それが命取りだった。そこで、竹刀は強く弾かれた。こちらも踏み込んで打ち込んでいるだけに弾く力が倍増されたのだ。面が無防備になった。僕は、素早く竹刀を打ち下ろして、面を取った。

 戦っている時間は、一分ほどだったが、それ以上に時間を使っている気がした。

 準決勝は警視庁の鬼頭秀一だった。西新宿署で稽古相手をしてくれている人だった。ここまで勝ち進んでいるのだから、強い人だったんだと改めて思った。しかし、鬼頭には負ける気がしなかった。稽古で一度も負けたことがなかったからだ。鬼頭も僕の無反動は承知の上だったのだろう。

 鬼頭は「始め」の声がかかるとすぐに踏み込んできて、竹刀を弾かれて、小手を打たれて負けた。すれ違った時に「優勝しろよ」と言った。

 決勝は、警視庁の西森だった。去年の準優勝者だった。

「始め」の声がかかると、無反動を警戒して、すぐに打ち込んでは来なかった。しかし、僕が一歩進むと、下がってばかりはいられなかった。竹刀を振ってきた。しなやかないい腕をしていた。しかし、竹刀を弾かれると、小手ががら空きになった。その小手を打って勝った。

 彼は首を傾げた。西森にとって無反動は、理解の外だったのだろう。

 すれ違った時、「竹刀を見せてくれませんか」と言った。

「いいですよ」と言って、竹刀を渡した。西森は竹刀を二度三度振って、また首を捻った。「どうしたんですか」と僕が訊くと、「普通の竹刀ですね」と答えた。

「そうですよ」

「でも、真剣と戦っているようでした」と西森は言った。そして、「あの無反動はどうやるんですか。対抗できませんでした。評判通りの強さでした」と続けた。

 僕は答えず、西森とは別れた。

 

 その後、表彰式と閉会式が行われた。僕はトロフィーと楯と賞状をもらった。

 警視庁の仲間とは現地解散した。

 

 家に帰ると、きくとききょうと京一郎が出迎えてくれた。僕はトロフィーと楯をきくに見せた。

「優勝されたんですね」ときくは言った。

「ああ」

「向こうでは、あれほど活躍されていたんですから、当然ですよね」ときくは言った。

 僕は江戸時代に行っていた頃のことを思い出していた(「僕が、剣道ですか?」シリーズ参照)。あの時の方がヒリヒリするような感覚があった。しかし、防具を着けている試合では、それがなかった。

「お風呂にしますよね」ときくは言った。

「そうだな」

 僕は納戸に剣道の道具を置くと、竹刀ケースを開けて、定国の入った袋を取り出した。そして、本差の定国を取り出すと、鞘から抜いた。

「今日もありがとう」と言った。

 定国が唸った。

 

 僕が風呂場に行くと、ききょうと京一郎が待っていた。

 ききょうと京一郎を早く洗って、浴槽に浸からせると、脱衣所で待っていたきくに任せた。その後で髭を剃り、躰と頭を洗うと、ゆっくりと浴槽に浸かった。

 長い一日だった。