小説「僕が、剣道ですか? 7」

十八

 きくが握ってくれたおにぎりを食べていると、道着を着た知らない男が近付いて来た。

「強いね。無反動の鏡君」と言われた。

「誰」

「僕を知らないの」とそいつは言った。

「知らない」と答えた。

「去年のこの大会の優勝者なんだけれどな」と言った。

「そう」

「あれ、驚かないの」とそいつは言った。

「優勝者はもっと貫禄がある奴かと思ったが、違っていたようだ」と僕は言った。

「よく言われる。お前のような奴がよく勝てるなって」と言った。

「ところで、無反動ってどういう意味」と僕は訊いた。

「自分の稽古の時のビデオを見たことがないの」と訊き返してきた。

「ない。必要ないから」と答えた。

「凄い自信だな。でも、それだけの力があるってことか」と言った。

「さっきの質問に答えて欲しいんだけれど」と僕は言った。

「ああ、無反動の、っていうやつか。それはね、普通、竹刀を合わせただけで弾き飛ばすことなんてできないだろう。しかし、君はそれをしているんだよね。どうやってだかはわからないけれど」と言った。

「何だ、そんなことか」

「何だじゃないぞ。とてもじゃないが、普通じゃない」と言った。

「僕にとっては普通だよ」と言った。

「そうなのか」

「ああ」

「ますます普通じゃないな」とそいつは言った。

「ところで、君は何ていう名前なのかな」と僕は訊いた。

「葛城城介だ」と答えた。

「分かった。この後、戦うことになっているの」と訊いた。

「組み合わせ表も見てないのか」と葛城が言った。

「見てない」と答えた。

「今日は対戦しない。勝ち上がってくれば、明日、準決勝で戦うことになる」と言った。

「じゃあ、明日戦うことになるんだな」と僕が言うと「自信があるんだな」と葛城が言った。

「自信じゃない。確信だ」と応えた。

「同じことじゃないか」

「そうかも知れない」

「じゃあな」と言って、葛城は去って行った。

 富樫が近寄ってきて、「今の葛城城介じゃないか」と言った。

「そう言ってたな」と僕が言うと、富樫は「去年の覇者だぞ」と言った。

「そう言ってた」と僕は言った。

「何を話していたんだ」

「無反動がどうのこうのって言っていた」と僕が言うと「それじゃあ、何のことだかわからないじゃないか」と富樫が言った。

「俺も分からなかった」

 きくのおにぎりを食べ終わると、ペットボトルのお茶を飲んだ。

 

 午後の試合は、待ち時間が長かった。

 自分の試合になるまで、竹刀ケースの中の定国を触って、目を閉じていた。

 呼ばれると、試合場に出て、すぐに勝って戻ってきた。

 力量に差がありすぎた。まるで子ども相手に剣道をしているようなものだった。

「始め」の言葉と同時に、ほとんど小手が決まり、次は胴を取った。

 明日戦うことになる相手側のビデオカメラが僕を写していた。突然、現れた選手だから、その情報が欲しかったのだろう。

 四試合したが、手応えはまるでなかった。

 ベスト八に勝ち残った。明日が勝負だった。

 

 家に帰ると、きくが出迎え「どうでした」と訊いた。

「手応えがなかった」と答えた。

 でも「きくのおにぎりは美味しかった、明日も頼む」と言った。

 

 試合をしてきたので、すぐに風呂に入った。

 パジャマに着替えると、自分の部屋に行った。ちなみにパジャマはこの時期あたりまでかな。そのうち、Tシャツと半ズボンで寝るつもりだ。

 高校に入るまでは一人きりだったが、今や四人で使っている。六畳ちょっとの部屋だから、ベッドにパソコンデスクにベビーベッドとベビー籠があると、ほとんど隙間がない。前は書棚があったが、納戸に移した。そのベッドですら、きくと共用になっている。

 一人になれる場所が欲しかった。

 新しい家に期待するしかなかった。

 

 父と母はリビングで新しい家について、いろいろな図面や書類と首っ引きだった。

 こういう時が楽しいのだろう。

 僕は夕食まで、また部屋に戻ることにした。

 

 夕食時に「今日はどうだった」と父に訊かれた。

団体戦個人戦もベスト八に残ったよ」と答えた。

「凄いじゃないか」と父が言ったが、僕は「あまり実感は湧かない」と応えた。

「お前はクールだな。それじゃあ、周りも張合いがないだろう」と父は言った。

「そうかも知れない」と僕は言った。

 食べ終えると、三階に行った。

 自分の部屋のベッドに寝転がった。きくはいなかった。母と一緒に片付けものをしているのだろう。

 今日の試合を思い出していた。

 全体的に言えば物足りなかった。真剣でやり合う、ヒリヒリする感覚はなかった。

 その代わりに、相手は防具を着けているから、思い切り打ってくる。そこは真剣勝負との違いだった。真剣勝負では簡単には、打ち込んでは来ない。だから、時間がかかる。僕がまともな真剣勝負をしたのは数度だったが、それとは明らかに違っていた。

 それと竹刀と真剣とでも差があった。僕は定国に触って、言わば竹刀を真剣に変えて戦っていたのだが、それはこのような場でもなければ、勝負ができないからだ。

 定国の力を使うのは、卑怯かも知れないが、使える力を使わないで戦うのは、意味がなかった。それならば、僕は試合には出ていない。

 使える力は使って戦う。それがこの試合に出場するときの心構えだった。

 だから、葛城城介が言っていた無反動というのは、僕の力ではなく、定国の力だったが、それを使うことにためらいはなかった。むしろ、その力を知りたかった。まだ、定国には力があるような気がした。ただ、それを引き出す相手に出会えていないだけだったのだ。だから、こちらが十全に力を出すには、勝ち進むしかなかった。

 

 きくが片付けものをし終わり、部屋に入ってきた。これから風呂に入ると言う。ききょうと京一郎も入れると言うので、手伝うことになった。

 きくが裸になると、ききょうと京一郎の紙おむつを外し、ビニール袋に入れてゴミ箱に捨てた。

 きくとききょうと京一郎がバスルームに入ると、最初に京一郎が洗われて、バスルームの扉が開いた。京一郎を受け取ると、バスタオルで拭いて、紙おむつをした。それから、ベビー用の肌着を着せて、三階のベビー籠に大きめのタオルに包んで入れた。そして、バスルームに戻ると、ききょうが出て来た。ききょうは立っていたので、躰を拭くと紙おむつをして、二歳用のパジャマを着せた。そして、三階に上がっていった。ききょうをベビーベッドに入れようとしたら、遊びたがった。だけど、「今日は疲れているから、勘弁してくれよ」と言って、ききょうの躰を擽った。ききょうはベビーベッドの上で転がって笑った。