小説「僕が、剣道ですか? 5」


 僕は誰かに強く揺り動かされた。それで目が覚めた。
 目の前にきくがいた。
 僕はホッとして、また意識を失いそうになった。
「京介様、本当に京介様なのですね」と耳元できくが言って、濡れた僕の躰に強く抱きついてきた。きくは泣きじゃくっていた。
 しばらくそうしているうちに、薄闇に目が慣れてきた。見ると、側にききょうが床の上に直に眠っていた。僕はきくを引き離し、ナップサックの中からバスタオルを取り出すと、その上にききょうを寝かせた。
 僕は「これからここから出してやる」ときくに言うと、帯を腰に巻き簡易ゴルフバッグの中の定国の本差と脇差を取り出し、そこに差した。着ていたリバーシブルのオーバーコートをきくに着せると「寒くはありません」と言った。今は、晩春か初夏の頃なのだろう。でも、囚人用の着物を着ているきくが哀れで、「それを着ていろ」と僕は言った。きくは「わかりました」と応えた。
 僕は革ジャンからナックルダスターを取り出すと両手に嵌めた。そして、その上から皮手袋をはめた。
「きく、大声を出すんだ」と僕は言った。
 一刻も早く牢屋からきくとききょうを救い出したかった。
 きくが叫ぶと牢番がやってきた。蝋燭をかざして、中の様子と見ようとした。
 きくには隅にいるように言った。
 役人にはききょうがバスタオルに包まれて眠っている姿が目に飛び込んできたことだろう。二人いた牢番の一人が、鍵を開けた。その瞬間、僕は牢室の隅から飛び出して、その牢番の腹を強く殴った。蹲るように牢番は倒れた。彼をどけると僕は牢から飛び出して、もう一人の牢番の顔をしたたかに殴った。その牢番は気絶した。
 他の牢に入れられていた囚人が起きて騒ぎ出した。僕はきくとききょうを牢から出すと、やってきた他の牢番を定国で峰打ちにして、気絶させていった。
 牢屋を抜け出すと、僕はきくに「歩けるか」と訊いた。
 僕はナップサックから抱っこ紐を取り出すとそれでききょうをおぶった。全部を持つことができないので、大きいナップサックをきくに渡して背負うように言った。
 僕らは家老の屋敷に向かった。他に行く場所を知らなかったのだ。
 藩主の弟、綱秀が白鶴藩の藩主になった時、その当時の家老だった島田源之助も引退をして、家老の摘男、島田源太郎が首席家老になっていた。

 夜明け前に家老の屋敷に着いた。僕はききょうを降ろし他の荷物もすべて降ろすと、定国を横門の壁に立てかけ、定国の鍔に付いている紐を手にして、定国の上に乗った。横門の瓦に手が届いた。手がかりになるところを探して、掴むと躰を腕の力で持ち上げた。その時には、定国も手にしていた。横門の中に入ると、中から横棒を外した。そして、きくとききょうを中に入れた。
 僕はきくに「女中部屋に行って自分の荷物を持ってくるんだ。特に着物は着替えろ」と言った。きくはまだ捕まったばかりだった。拷問も受けてはいなかった。だから、きくの物はまだ残されていると思ったのだ。
 きくは躊躇していたが、僕は「これから屋敷を出て行くのにその格好ではおかしいだろう」と言った。きくにききょうを渡すと、きくはききょうを背負った。僕はナップサックの中から哺乳瓶のセットとキューブミルクを取り出して見せると、「時間があれば、これでききょうのミルクを作ってくれ」と言って渡した。
「ミルクはこのナップサックいっぱいに入っているから」とも付け加えた。
 きくが女中部屋の方に行くと、僕は屋敷の雨戸を定国を使って外して、障子戸を開け中に入った。
 家老の島田源太郎の寝室は見当がついていた。
 僕は他の者を起こさないように、廊下を歩き、島田源太郎の寝室の前まで来た。
そして、時間を止めた。島田源太郎は妻のあきと眠っていた。ショルダーバッグに入れていたガムテープを取り出し、その口を塞いだ。そして、寝間着の紐で後ろ手に縛った。あきも同じように口にガムテープを貼り、寝間着の紐をほどくのがはばかられたので、ビニール紐で後ろ手に縛った。
 そして、二人を並ばせると時間を動かした。
 二人は何事が起こったのか、分からず、いたずらに躰を動かそうとしていた。島田源太郎が立ち上がろうとしたので、僕は押さえつけた。
「そのままにしていてもらいましょう」と言った。
 島田源太郎の目が大きく開いた。
「鏡京介か」と言いたそうだったが、ガムテープが声を塞いでいた。
「そうです。鏡京介です」
 僕がそう言うと、少しは落ち着いたようだった。
「騒ぎ立てて欲しくないので、そのように縛りました。分かったら頷いてください」
 そう言うと島田源太郎は頷いた。
「あれほど、きくとききょうのことを頼んだのに、あなたはその約束を破りましたね。だから、私がやってきたのです」
 島田源太郎は何か言いたそうだった。
「言いたいことは分かっていますよ。幕府から私のことで何か伝えられたのでしょう。しかし、きくを責めても何にも聞き出せませんよ。幕府の中のある者が、この藩を潰そうとしている。私はその口実でしかないのです。分かりましたか」
 島田源太郎は頷いた。
「私の時代の文献を読むと、このまま放置しておくと、近々、この藩は改易される」
 島田源太郎は目を見開いた。
「本当ですよ。私は未来から来ているんだから、何が起こっているのか分かるんですよ。だから、こうして、きくとききょうが捕らえられたから、ここにやってきた。あなた方のやっていることは分かるんですよ」
 島田源太郎は信じられんというように首を振った。
「信じなくてもいいですよ。どうせ、このまま行けば白鶴藩は改易になるばかりですから。それを阻む方法が一つだけある。白鶴藩を改易にしようとしている首謀者を排除することです。口のガムテープを外しますから、大声を出さないように。ここは知っている人が沢山いますから、怪我をさせたり殺したくはないのです。いいですね」
 僕はそう言うと島田源太郎の口のガムテープを剥がした。
 島田源太郎は大きく息をついた。
「おぬしの言っていることは本当なのか」
「本当です。だから、ここに来たのです」
「これからどうするつもりなのだ」
「さっきも言ったでしょう。首謀者を排除するんです」
「そんなことが出来るのか」
「できなければこの藩が潰されるだけです」
「…………」
「言っておきますが、私はこの藩が潰れようと潰れまいと構わないのです。きくとききょうを連れて、元の世界に帰ればいいだけですから」
「この藩が潰れないようにしてくれるのか」
「あなたの答え次第です」
「何て答えればいいんだ」
「きくを自由にすること。そして、僕があなたに預けてある千五十二両を渡すこと。そして通行手形を出すこと。もう一つ、決して追ってこないこと。これを守ってくれれば、私はこれから江戸に向かいます。そして、江戸に着いたら、首謀者を見付けて排除します。そうすれば、白鶴藩は助かるでしょう」
「夢物語だな」
「そう、夢物語にしか聞こえないかもしれませんが、これしか方法がありません」
 島田源太郎は分かったというように頷いてから、「手を解いてくれ」と言った。
 僕は島田源太郎の手を縛っていた紐を解いた。
「きくはおぬしの好きなようにすればいい。金は蔵にしまってある。金蔵を起こしに行くから少し待っておれ」と言って、寝間着の紐で寝間着を縛り直しながら部屋から出て行った。
 僕はあきに近付いて「こんな形で会うことになって申し訳ありません」と言った。
 あきは顔を背けて、何も言わなかった。