小説「僕が、剣道ですか? 3」

三十九-2

 次の日は午前七時に起きた。ききょうを抱いて下に下り、出勤前で忙しくしている親父に抱かせた。母は怪訝な顔をしていた。
 朝食を済ませた親父が家を出る時、きくが玄関で「いろいろとお世話になりました」と言った。父は何のことか分からないようだった。
「じゃあ、行ってくるよ」と言って家を出た。玄関の戸が閉まるまで、きくは頭を下げていた。
「何なの」と母は言った。
「後で説明するから」と僕は言って、西日比谷高校に電話した。
「一年四組の鏡京介です。済みませんが、風邪をひいて、熱があるので今日は休みます」と言った。
 母が「わけを話して」と言うので、一時間ばかり話をした。
 途中から、母は泣き出した。
「おきくちゃんとききょうちゃんは、今夜、元の時代に戻るのね」と言った。
 隣にきくも座って話を聞いていた。そして、母と同じく泣いていた。
「こっちに来て」と母はきくに言った。きくが側に寄ると、抱き締めて泣いた。
 僕は立ち上がると、「ちょっと行ってくる所があるから」と言ってリビングを出た。
 家から出ると、新宿に向かい、それから黒金町に入っていった。線路の下のコンクリート沿いを歩き、目的の金属棒を見付けた。
 それをオーバーコートの中に隠すと、家まで持って帰った。
 リビングに上がると、母はききょうを抱いていた。そして、子守歌を歌っていた。僕は涙をこぼしそうになった。
 金属棒をベッドの下に入れると、リビングに下りていき、「買い物に行こうと思っている」と母に言った。
「わたしも行くわ」と母が言った。
「いいよ」と僕は応えた。

 まずデパートで防水加工の大きなナップサックを買った。それからベビー用品売場に行き、向こうでも使えそうな物を買った。ミルクはできるだけ多く買った。紙おむつは嵩張るだけだからやめた。ガーゼや包帯は買った。はさみも買った。そして四十枚入りの中程度のビニール袋も買った。
 それらを買って家に帰ると、大きなナップサックに詰めてみた。少し余裕があったので、小さいナップサックに詰められなかったききょうの着る物や余分にバスタオルや白い新しいタオルを入れた。向こうに行ったら、僕の着物も必要になると思い、それも詰め込んでみた。そうしたら、いっぱいになった。
 午後二時になっていた。後、八時間だった。
 僕は自分の部屋に行き、穿き替え用のジーパンを詰め込んでいないことに気付いた。すぐにクローゼットからジーパンを取り出し、なるべく小さく畳んで、ショルダーバッグに何とか入れた。
 午後三時に、きくとききょうには現代で食べる最後のおやつを食べた。買い物の途中で買ってきた大福だった。ききょうにはすりつぶした果物を食べさせた。
 おやつを食べながら、きくが涙すると、母も泣き出した。
 おやつを食べ終わると、もう一度、持って行く物の点検をした。ききょうのミルク用のペットボトルは一本だけにした。嵩張るし、いずれ、向こうに行けば無くなる。いざとなれば、沸かした湯を冷まさせればいいだけのことだ。それよりもミルクの袋を沢山詰め込む方を選んだ。
 午後六時になった。
 きくとききょうには現代での最後のお風呂に入った。ききょうを先に洗って、外で待っていた母に渡し、僕はきくに背中を流してもらった。
 ゆっくりと湯船に浸かった。
 午後八時になると、父はまだ帰ってこなかったが夕食にした。
 すき焼きだった。今日は高い牛肉を買ってきていた。
 きくは初めて食べるすき焼きに「美味しいです」と何度も言った。母はこのきくの「美味しいです」を聞くのは、これが最後なのかと思ったのか、涙した。
 僕も泣かないように食べるのに苦労した。
 食べ終わったら、すぐに着替えをした。
 ぼくは肌着に長袖のシャツ、トランクスの上にジーパンを穿き、靴下を履いた。
 そして、革ジャンの内ポケットに折たたみナイフを入れ、リバーシブルのオーバーコートを着た。
 きくも着物を着て、抱っこ紐でききょうを抱いた。背中には小さめのナップサックを背負った。巾着はきくに持たせた。
 僕はベッドの下から、金属棒を取り出し、オーバーコートに隠した。
 それから、ショルダーバッグを肩から提げ、大きなナップサックを背負った。
 時計と財布と携帯は、西日比谷高校まで必要だから、持って行くことにした。
 準備ができたので、リビングに下りていった。
 父も帰ってきていた。きくは父に別れの挨拶をしたが、父は何のことか分からないようだった。
 午後九時になったので、母を急がせて、安全靴を履き、金属棒をオーバーコートに隠して、外に出た。
 母には西日比谷高校までついて来て欲しいと頼んでいた。
 僕の予想通りだとすれば、僕は校庭に倒れ、意識を失うはずだ。万が一、タイムスリップに失敗した時も母がいれば、きくやききょうが助かるかも知れない。
 そうでなくても、母は一緒に来るつもりだった。
 電車に乗り、西日比谷高校に着いたのは、午後十時十五分前だった。
 学校の正門は鉄柵で閉じられていた。
 僕はそれを乗り越えて、校内に入った。きくも母に肩車をされて、門の上まで来たので、僕がきくを掴んで、校内に入れた。ききょうも抱き上げて鉄柵を乗り越えさせた。金属棒は最初に鉄柵の間から校内に入れていた。
 きくとききょうは鉄柵を挟んで、母と最後の別れをした。
 僕は時計と財布と携帯を母に渡した。
「後は頼んだよ」と言うと、僕ときくとききょうは校庭に向かった。その時、急に空が暗くなり、乱雲が立ち込めてきた。
 僕ときくとききょうは校庭の中央に立った。
 そして金属棒を空に向かって突き上げた。
 その直後だった。激しい稲光が起こった。それは僕らの躰を貫いていった。
 僕は、光の中に包まれた。きくとききょうは側にいた。離れないように、きくを掴んだ。きくとききょうの魂が抜け出ようとしていた。それを僕の魂が、きくとききょうの躰の中に押し込んだ。
 だが、僕の躰は魂と離れた。
 その時、強い光の渦に巻き込まれた。
 僕は意識を失った。
                               了