小説「真理の微笑」

三十三-2 

 午前十時前に高木は来た。
「すまなかったね」
 私はつい、掠れた声で言ってしまった。病室に入ってきたばかりの高木には、掠れた声は届かなかったようだ。
「すまない」
 私は掠れた声で何とか言った。上手く聞き取れなかったようだが、言っている事は理解できたようだ。
「とんでもありません」
 私は躰を起こして、高木を手招きした。
「聞こえる所まで来てくれ」と言った。
 高木は私の頭の近くに椅子を運んで座った。
「ここなら聞き取れます。これ頼まれたものです」
 高木は頼まれたものをレジ袋に入れたままサイドテーブルに置いた。
「面倒をかけたね、ありがとう」
「はい」
「会社の引越しはどうなっている」
「再来週の土日に一気に新しい所に引っ越します」
「そうか」
「全部、業者に任せられると楽なんですが、パソコンやサーバーなどの精密機械だとなかなか全て業者任せというわけにもいきませんからね」
「そうだな」
「再来週は社員総出で引越しです。その前日と引越しの翌日の月曜日は臨時休業にします」
「わかった。やりやすいようにやってくれ」
「今回の『TS-Word』、凄いですよ。初回六千ロット用意していたんですが、瞬く間に売れて、追加の四千ロットでも足りなくて、今二万ロット随時出荷中です。この分ですと五万ロット行くかもしれません」
「そうか。それで『TS-Word』という名称なんだが、いっその事、次回からトミーワープロに変えたらどうだ」
「そうですね、それはいいですね。今『TS-Word』って言っても、何? っていう感じですものね。雑誌でもトミーワープロとして取り上げられてますしね」
「うん。それからバグの対策はどうなった」
「ユーザー登録している人には、修正フロッピーを送っています。そして来月発売の雑誌から、フロッピーディスクを付録につけているところでは、修正プログラムを載せてもらっています。そうでないところには、ユーザー登録を呼びかけるとともに修正プログラムの送り先を申し出るように告示しています。もちろん、新しく出荷している分は修正済みのプログラムです」
「そうか」
「でも、今回のバグは相当なヘビーユーザーでないと出ないと思いますけれどね」
「文章を書く専門家のために作っているんだ。みんな、ヘビーユーザーだと思わないといけないよ」
「そうですね、大変失礼しました」
 高木は軽く頭を下げた。
「私が事故前の記憶を失っている事は知っているよね」
「ええ、奥様から聞きましたから。でも本当に何もわからないんですか。バグを解決した事なんかからするとそうとは思えませんが。と言うより、あのバグの解決策を見つけた事の方が驚きます。なにしろ、うちのプログラマーでさえ頭を抱えていたものですから」
「たまたまだよ。だが、記憶喪失なのは本当だ。だから、君を呼んだ。金庫番の経理を任され、専務であるというのは、私に信頼されていたからだろう」
「どう答えていいのかわかりません。そう思っていただいているのなら嬉しいです」
「そこで、ざっくばらんに訊く。真理子の事、どう思う。会社ではどうなんだ」
「奥さんの事ですか」
「そうだ」
「よくやってくれていると思いますが」
「ざっくばらんに、って言っただろう」
「いや、本当によくやってくれていると思いますよ。突然の事で何もわからないのに、この二ヶ月間、それなりによくやってくれていたと思いますよ」
 二ヶ月間と聞いて、私は自分が意識を失っていた間の事を忘れていた事を思い出した。その間も、真理子は会社を守ってくれていたのだ。
「そうでなければ、トミーワープロも売り出せなかったかもしれませんから。一時、社内からどうするって意見があった時、こんな時だから、ちゃんと売り出しましょう、と言ったのは奥さんですから」
 そうだったのか。私は、大変な誤解をしていたのかも知れなかった。