小説「真理の微笑」

十四-2

 次の日、朝食を終えた頃に、主治医の回診があった。何人かの医者を従えていた。いつも説明に来る医者もその中に交じっていた。
「気分はどうです」
 看護師にカルテを渡されながら訊いた。
 私は「いいです」と言おうとした。ガラガラな声でも「いい」という言葉をなんとか発する事ができた。
「あなたがここに運ばれてきた時は、重度の上半身火傷で、普通はそれだけでも助からない場合があるのですよ。でも、最初に搬送された病院の処置が良かった。そして全身が打撲状態でした。手足の骨はもちろんの事、関節もほとんど砕けていました。何より、深刻だったのが内臓です。腎臓は一時は透析も考えたくらいでしたが、何とか助かりました。でも肝臓の損傷がひどく、一時は危篤状態にまで陥ったのですよ。でも、あなたは生命力の強い方だった。意識はなかったかも知れませんが、ちゃんと怪我に立ち向かったのです。そして、闘って勝った。顔は、ほとんど原形を留めていないくらい複雑に骨折していて、あなたの写真をもとに何とか前の顔に戻しましたが、顔の細かな神経を全部治す事はできませんでした。だから、思ったようには表情を作れないでしょうが、それが今の医学の限界です。それから、手は上手く皮膚移植できたので、手首から先はケロイド状にはなっていません。顔と手以外はケロイドが残るでしょう」
 私は、いかに自分が死の淵から脱して、今の状態にまで回復する事ができたのかという説明を黙って聞くしかなかった。
「言葉の方は、時間はかかりますが、そのうち話せるようになります。もうしばらくしたらその訓練が始まります。声帯は随分と損傷していましたが、なんとか声帯を取らずに済みました。しかし、おそらく全く元の声に戻るというわけにはいかないでしょう」
 私は、声についてはどういう事なのか分からなかったが、反射的に頷いた。
「まずは、体力をつけましょう。今日から流動食ではなく、ちゃんと食べられる食事が出ます。お昼から食べる練習をする事になります。来週には車椅子にも乗れますよ」
 そうなれば、看護師付きだが、トイレにも行けると告げた。慣れたら廊下を押してもらって散歩もできると話した。
「とにかく順調です。血圧も安定している。リハビリには時間がかかるでしょうが、少しなら松葉杖を使って歩けるようにもなりますよ」
 彼は回りの医者に何か言って、「では、これで」と言って去って行った。
 それと入れ替わるように、真理子が入ってきた。
「連れてきたわよ」
 見知らぬプログラマーが二人、真理子の後ろに立っていた。大きな鞄を提げていた。その中に、数千頁からひょっとしたら一万頁にも及ぶプログラムデータが打ち出されて入っているのだ。
 彼らはキョロキョロするように病室に入ってきた。真理子が椅子を勧めて、彼らは座った。真理子も私の隣に座った。
 私は半身を四十五度ぐらいに起こしていたから、座った真理子の顔が近かった。二人のプログラマーがいなければ、口づけするかも知れなかったほどにだった。
「あ、あの~」
 近くに座った方が口を開いた。そして、不器用な言い方で、どうバグっているのかを説明した。やはりコピー&ペーストを一度に何度も繰り返すとフリーズするようだった。
「どうしてそうなるのか、さっぱり分からないんですよ」
 もう一人が言った。
「続けて、コピー&ペーストをしなければ大丈夫なんですけれどね。それでバッファに問題があるかと思ったんですが……」
 年長らしい、近くに座っている方がその後を引き取って続けた。バッファとは、メモリ上にデータを一時的に蓄えておく場所の事を意味する。コピー&ペーストするには、コピーしたデータをメモリ上に置いておかなければならない。そこをクリップボードという。そうしてから別の場所にペーストする。通常のコピー&ペーストでは、次にコピーするとき、前のデータを消去して書き換えていたが、今はクリップボード拡張機能を使って前のデータを残したままでもコピー&ペーストをする事ができる。これが便利なのは、一度、コピーしたデータをもう一度使いたいとき、コピーしたデータの履歴の中からペーストしたいデータを選択する事ができる事だった。コピーを残すデータについては回数かデータ量を決めておけばいい。
 フリーズするのは、一度に連続してコピー&ペーストする事が原因なのだから、彼らはバッファのあたりに問題があると思ったのに違いなかった。当然、普通はそう思う。
 開いたプログラミング言語のデータファイルではそのあたりが一番手垢がついていた。
 だが、そこじゃないんだな、と私は思った。
 トミーソフト株式会社の製品のプログラムを知らないから、問題の箇所を探すのに苦労した。一時間ほどプログラム言語の渦の中にいた。そんな時でも(株)TKシステムズで慣れ親しんだ文字列に出会うとホッとした。やがて、何冊かに分冊されたファイルの中から、ついに該当箇所を見つけ出した。一人に赤のポールペンを出させて、ある一行を○で囲った。
『これを削除してみろ』と、その○で囲った隣の余白にそう書いた。
 二人は「えっ」と驚いた声を出した。それはソフトがメインメモリに読み込まれるその場所にあったからだ。
「試してみろ」と、私がゴロゴロする声で言ったのを、真理子が通訳した。
「分かりました」
 二人はファイルをしまうと帰っていった。
 その様子を見ていた真理子は、顔を近づけると「凄いわね。なんだか、前より鋭くなった感じ」と言って、今度も真理子の方から唇を重ねた。
 私はその柔らかい唇の感触を楽しんだ。そして、私は舌を真理子の口に入れた。その瞬間、真理子はちょっと驚いたようだったが、すぐに応じた。真理子が何に驚いたのかについては、深く考えなかった。とにかく、永遠にでも続けていたかった。
 だが、ドアがノックされて、「昼食です」と看護師が入ってきた。
 慌てて離れた真理子は、私のベッドの上に移動式のテーブルを持ってきた。運ばれてきたお膳はその上に載った。六種類の器があった。
 私はベッドの角度をさらに起こして、背中をベッドから離した。
 蓋を開けようとしたが、指が上手く動かなかった。文字は書けるのに……と思った。
「わたしがやるわ」
 真理子がそう言った。看護師は、お願いしますね、と言って出て行った。
 スプーンは何とか掴めた。それで「何にする」と、真理子が訊くので「煮物がいい」と答えたつもりだった。上手く話せなかったが、真理子には私の言いたい事が伝わった。
 真理子がおかずの入った皿を顔のすぐ下まで持ってきた。おかずは細かく砕いたものを成形したような感じだった。成形された煮物のようなものはスプーンで掬えた。口に入れるとすぐに崩れた。そして喉を滑り台のように通っていく。
 味噌汁は、とろみが付けられていた。意外な事にそれが番茶にもだった。
 お粥を半分食べたところで食欲がなくなった。
「もう少し食べなくちゃ」
「いや、もういい」と、しゃべりにくいところをなんとか言い、私はスプーンを置いた。
「わかったわ。でも、なるべく食べて力をつけてね」
 私は頷いた。