小説「真理の微笑 真理子編」

三十二
 会社に寄ってから病院に行くことにした真理子は、午前九時には、会社にいた。昨日、富岡から託されたデバッグをやっている人を富岡の病室に連れていくためだった。
 社長室に入ると内線で開発部長の内山を呼んだ。
「今、TS-Wordのデバッグをやっている人は誰かしら」と訊いた。
「主に作業に従事しているのは、西野と遠藤ですが」
「だったら、西野さんと遠藤さんをお借りできないかしら」
「そう言われましても」
「富岡の頼みなのよ。デバッグをやっている人を連れてきて欲しいと昨日頼まれたの」
「社長の頼みなんですか」
「そうなの」
「わかりました」

 社長室に入ってきた西野と遠藤は大きな鞄を提げていた。その中には、数千頁に及ぶプログラムのデータが打ち出されたものが入っていた。
「さあ、行くわよ」
 真理子がそう言うと、社長室を出て駐車場に向かった。そして真っ赤なポルシェの後部座席に二人を乗せると、「これから病院に行くからね」と言った。二人は乗り慣れない高級外車に乗って、窮屈そうに縮こまっていた。

 朝の回診が終わるのと入れ替わるように、真理子は病室に入った。
「連れてきたわよ」と富岡に言うと、入口付近にいる西野と遠藤に「何してるの。さぁ、早く入って」と言った。
 二人は見慣れない特別個室に恐る恐る入ってきた。
 富岡はベッドを起こしていた。真理子は二人に富岡の側に座るように椅子を出した。二人が座ると、真理子は、富岡の枕元に座った。
「あ、あの~~」と西野が口を開いた。
「一度にコピー&ペーストを何度も繰り返すとフリーズするんです」
 遠藤が「どうしてそうなるのか、さっぱりわからないんですよ」と言い、西野が「続けて、コピー&ペーストをしなければ大丈夫なんですけれどね。それでバッファに問題があるかと思ったんですが……」と言った。
 富岡は『プログラムデータをプリントアウトして持ってきたか』と書いて真理子に渡した。真理子はそれを二人に見せた。
 西野が「はい」と言って鞄の中から、分厚いファイルを三冊取り出した。
 富岡はそれらを広げて見ていった。
 最初のファイルのある箇所で、富岡の目が留まった。そして、何か書くものをという仕草を見せた。真理子が周りを見廻していると、西野が三色ボールペンを差し出した。
 富岡はそれを受け取ると、赤のボールペンである箇所に丸印をつけた。そしてその余白に『これを削除してみろ』と書いた。
 二人は同時に「えっ」と声を上げた。真理子には理解できなかったが、おそらく二人が予想していなかった箇所を富岡が指摘したのだと思った。
 真理子に向かって富岡が何か言っているようなので、口元に耳を近づけると、「試してみろ」と言っているのがわかったので、それをそのまま二人に伝えた。
 二人は「わかりました」と言うと、ファイルを鞄にしまった。
 真理子は二人に近づくと、「わたしは残るので、帰りはタクシーでね。お願い」と言った。二人は「はい」と言うと病室を出ていった。
 二人が病室を出ていくのを見届けると、真理子は富岡に近づき、「凄いわね。なんだか、前より鋭くなった感じ」と言ってキスをした。
 だが、キスも長くは続かなかった。ドアがノックされて、「昼食です」と看護師が入ってきたからだった。
 見ると、流動食ではなかった。真理子も手を貸しながら、富岡は昼食を食べた。

 真理子はポルシェに乗り会社に向かう時、昼食が運ばれてくる僅かな時間だったが、富岡との濃厚なキスを思い出していた。今までの富岡のキスの仕方とは違っていた。
 それにプログラマー二人が、この何日間かかってもわからなかったバグを、いともあっさりと見つけてしまったのには驚いた。富岡が優秀な経営者だということはわかっていた。そして、かつては優秀なプログラマーだったかも知れなかった。しかし、今は一線から退いて久しい。それが、まるで初めからそこにバグがあることが分かっていたみたいに解いてしまった。真理子にはそう思えた。

 会社に戻ると、開発部に顔を出した。
 すると西野が「社長の指摘、どうやら正しかったようですよ」と言った。
「そうなの」
「ええ、指摘された部分を削除して、起動してみたら、バグが発生しなくなったんですよ」
「今、確認中ですけれど、コピー&ペーストで起こっていたバグはなくなりました」と高橋が言った。
「そう、良かったじゃない」
「でも、社長、プログラムデータを見ただけで、よくバグのあたりをつけたものだよね」と西野が高橋に向かって言うと、「本当にそうだよね。もう何年も現役のプログラマーから退いているのにね」と応えた。
 真理子は、そのやり取りをじっと聞いていた。

 土曜日だったので、真理子はすぐに会社を出て、病院に向かった。
 病室に入ると、富岡はベッドに躰を起こしていた。真理子は富岡に近づくと、「あなたの指摘、どうやらいけそうよ」と言った。しかし、「でも、不思議よね。ソフトのことだけ、どうして覚えていたのかしら。まして、あなたがあのプログラムをわかるとは思ってもいなかったわ」と続けた。
 疑問に思っていたことを、富岡にぶっつけての反応を見たのだった。しかし、富岡は何の反応も示さなかった。それならと思い、第二弾を放った。
「それにね。キスしたの、どれくらい前になるのかしら。この前はついそうしてしまったけれど……」と言って、富岡の顔を凝視した。
 富岡は困っている顔をした。そんな富岡を見ていると、自分の思い違いかと思えてきた。
「あなた、そんな顔をしないで」と言いながら、真理子は富岡の腕をとって言った。
「この前も今日も嬉しかったの。ほんとよ」
 富岡は何も言わなかった。
「出会った頃のあなたを思い出していた」
 そう真理子が言ったのは、本当だった。富岡の顔が若返ったせいもあるのかも知れなかったが、記憶を失っている富岡は、言ってみれば、初めて会った頃の富岡そのものだったのだ。真理子は富岡を抱き締めた。
 富岡も真理子を抱き締め、ゴロゴロする声で何か言った。真理子が、「『記憶を失ったことで、初めて出会った頃のような気がしている』と言っているの」と訊くと、富岡は頷いた。
「そうね。そうよね」と、真理子も言った。そして、キスをした。それも僅かな時間だった。すぐにドアがノックされ、夕食が運ばれてきたのだった。

 真理子はナースステーションに寄って、主治医の中川医師に会えないか訊いた。
「すみません。今日は土曜日なので、主治医はもう帰られたと思います。確認しますので、ちょっとお待ちください」と言われたので、真理子は近くのソファに座った。
 しばらくして「すみません。主治医は、やはりもう帰られました。朝の回診の時に主治医に同行した医師の話では、すでに主治医から本人に現状については説明があったそうです。ご本人に直接、お訊きになったらどうですか」と言った。
「いえ、それなら結構です」と言って、ナースステーションを離れた。
 プログラマー二人を病室に連れて行った時に、富岡の病室から医師達が出てきたのは知っていたが、あの中に中川医師もいたのか。急いでいたものだから、気付かなかった。
 看護師は、主治医が本人に、今の状態を説明したと言っているのだから、富岡はうまく話せないだけで、意識は完全に戻っているのだ、と真理子は思った。そして、主治医に尋ねようとしたことは、主治医でもわからないのかも知れないと思うようになった。主治医に訊きたかったのは、富岡の記憶のことだったからだ。