十四
自宅に戻ったのは、午後十一時半を過ぎていた。
きくは起きて待っていた。
「寝ていればいいのに。躰にさわるよ」と言うと、きくは「病気じゃないんだから、大丈夫です」と応えた。
椅子から立ち上がろうとすると、きくが「ウィスキーを飲みたいんでしょ」と訊いた。
「ああ」と答えると、「だったら、座っていてください。わたしが作りますから」と言って、食器棚からグラスを取り、冷蔵庫から氷をグラスに入れると、水の入ったポットも取り出した。
「おいおい、俺はオンザロックが好きなんだ」と言うと、「それは躰に悪いと聞きました。水割りにしましょうね」と言って、ウイスキーのボトルを取り出すと、人差し指を横にしてボトルの酒の量を量り、一指分だけ注いで、水を入れ、マドラーでかき混ぜて、僕に渡してくれた。それから、ピーナッツの袋を開け、小鉢に少し入れて、差し出した。
「どうぞ」と言った。
「こんなこと、どこで覚えたんだ」と訊くと「テレビで知ったんです」と答えた。
「テレビか。よく見ているのか」
「ええ。よく見ています。だって、わたしの知らないことをいろいろ教えてくれますから」と言った。
「いろいろと考え事があるから、先に休んでいてくれ」と言うと、「わたしも一緒にいますよ。妻ですから」と言った。
僕は笑った。妻か、と思った。僕の世話係をしていた頃には、考えもつかなかったことだろう(「僕が、剣道ですか?」シリーズ参照)。
それから三十分ほど飲んで、寝室に向かった。着替えをしてベッドに入った。きくはすぐに眠った。
僕は時間を止めて、ひょうたんを持ってリビングルームに戻った。
ひょうたんの栓を抜くとあやめが現れた。
「今日は疲れたんじゃあ、ありませんか」
「まぁね」
「わたしが癒して差し上げますね」とあやめは言った。
「それは……」と言っているうちに、あやめは僕に巻き付いてきた。
「大丈夫です。優しくして差し上げますから」とあやめは言った。
僕は結局あやめと交わった。
終わった後、「もう今日になってしまったが、今日も黒金署に連れて行くのでよろしくな」と言った。
「まぁ、嬉しい」とあやめは言った。
僕はシャワーを浴びて、躰を拭いた後、脱いだ寝間着を着て、ベッドに入った。そして、時間を動かした。
次の日、黒金署に行くと、大騒ぎだった。昨日の放火のことが記事になっているだけでなく、犯人の犯行声明文が掲載されていたからだった。犯行声明文は、各マスコミのパソコンに直接届いたようだった。
犯行声明文は、次のようなものだった。
『今回の放火は、二月二十六日、三月二十八日、四月二十九日の放火を起こしたのと同一人物がやったものである。それはわたしだ。わたしは捕まらない。そんなヘマはしていないからだ』
それだけだった。だが、これで十分だった。マスコミだけでなく、黒金署も大変だった。犯行声明が本当ならば、今、勾留している山田は白ということになる。それは大失態を意味していた。それは避けねばならなかった。今回の放火は単独事件として、捜査一課三係が担当することになった。
午前十時から三階の大会議場で、捜査一課二係と三係の合同捜査会議が開かれることになった。黒金署の内部的には、今回の放火事件を単独事件として扱うとしても、この犯行声明文が出ている以上、前の連続放火事件を無視して会議を開くことはできなかった。
午前十時になると、僕は鞄からひょうたんを出して、ズボンのポケットに入れ、緑川に「ちょっと席を外す」と言って安全防犯対策課を出た。そして屋上に行った。隅のベンチに座ると、ズボンのポケットのひょうたんを叩いた。
「はーい」と言うあやめの声が聞こえた。
「ここから、三階の会議室に行けるか」と訊いた。
「日当たりが強いので無理です」とあやめが言った。
「そうか、じゃあ、四階に行ってみる」と言った。
ここは庶務課や会計課や各種相談窓口などがある場所だった。待合席もあった。そこの隅に座った。
この下に会議室がある。ズボンのポケットのひょうたんを叩いた。
「ここならどうだ」と訊いた。
「行けます」と答えが返って来た。
「じゃあ、会議室の映像を取ってきてくれ」
「はーい」と言うあやめの声がした。
すると「そこでお待ちの方、どうぞ」と言われた。
僕は警察手帳を出して見せて、「少し休んでいるだけなんで気にしないでくれ」と言った。
「失礼しました。わかりました」と声をかけてくれた女性は言った。
そのうちお昼になった。ズボンのポケットのひょうたんが振動した。
「お昼になったので、会議は一旦中断しました。また、午後一時から会議をするそうです」とあやめが言った。
「分かった。取りあえず、今までの映像を送ってくれ」と言った。目眩とともに映像が送られてきた。そして、終わった。
「ありがとう。また、午後も頼むな」とあやめに言うと、僕は安全防犯対策課に向かった。
安全防犯対策課に入ると、鞄から愛妻弁当と水筒を取り出し、屋上に向かった。隅のベンチに座ると、愛妻弁当を開けた。エビの唐揚げ二匹を使って、その反っている部分でハートマークを作っていた。段々、手が込んできていると思った。
弁当を食べながら、あやめからの映像を再生した。
本部席には、署長、管理官、捜査一課長、捜査一課二係長と三係長の五人が並んでいた。係長が本部席に並んでいるのは異例だが、事件の特殊性からそうなったのだろう。
まず、捜査一課長がマイクを持って話した。
「第五回目の捜査会議を開く。これは合同捜査ではないが、事案に鑑みて、一緒に捜査会議をした方がいいと思って、この形式になった。そのことを重々、承知して欲しい。まず三係から説明をお願いする」と言った。これが五回目だとすると、もう四回も捜査会議が開かれていたのか。僕は迂闊にもそれに気付かなかった。
三係長の熱田宗広が澤北刑事に目配せした。
「はい」と言って手を挙げて、澤北が立った。
「三係の澤北です」と言ってから、「今、三係では捜査方針を二手に分けて捜査しています。わたしは、今回の放火は単独犯行だと思っています。それは放火の仕方が違うからです。前の三件は、灯油を撒いてマッチで火をつけています。しかし、今回の犯行は、ゴミ袋に直接火がつけられています。マッチの燃えかすもいまだに見つかっていません。したがって、これまでの連続放火事件と切り離して考えるべきだと思います」と言った。
「はい」と手を挙げたのは、三係の福地刑事だった。
福地は立つと、「三係の福地です。わたしもこれまでの連続放火事件と切り離して考えるべきだと思っています。今までの放火はどちらかというと内向的な感じがします。しかし、今回の犯人はそうではありません。自分の犯行を堂々と明かしています。何より、問題なのは、犯行声明です。これは誰にでも書けます。そこが問題なのではなくて、送りつけ方です。警察署だけでなく、各マスコミにも送っています。それも、コンピューターを使って送っています。今、捜査中ですが、海外のいくつものサーバーを経由しているために、どこから送られてきたかわからないそうじゃありませんか。と、すれば、コンピューターについて深い知識と技術を持っている者が犯人だということになります。それは、今までの連続放火事件の犯人像にはなかったものです。そして、コンピューターについて深い知識と技術を持っている者が犯人だとすれば、二十代から三十代の者が犯人だと思われます」と言って座った。
次に「はい」と手を挙げたのは、三係の高木刑事だった。
高木は立って、「三係の高木です」と言った。
「わたしも、実は今回の放火は単独犯行だと思っていますが、犯行声明があるので、連続放火事件として考えてみる立場に立ちました。そこで、気になるのは、犯行現場です。この四箇所の犯行現場に共通しているのは、人に見られにくいということです。つまり、土地勘があるということです。犯人はこの黒金町に住んでいる者だと思われます。そして、この四箇所を点で結んでみると、どこも、十五分と離れていないことがわかります。犯人は、放火現場近くに住んでいると思われます」と言って座った。
この後も次々と三係の意見が述べられた。それを要約すれば、内心では今回の犯行は単独犯行だと思っているが、犯行声明が出されている以上、連続放火事件としても扱わなければならないという、相反する心情が読み取れた。
午後は二係の意見を聞くということで散会した。
僕は食べかけていた愛妻弁当をかき込むように食べると、水筒のお茶を飲んだ。