小説「僕が、剣道ですか? 7」

三十三
 僕はテーブルについた。きくはコーヒーと自分のお茶を入れにキッチンに向かった。
 母は顔を上げて、僕を見た。
 いつもの母だった。
 きくがコーヒーを母と僕の前に置き、自分のところにはお茶を置いた。きくは僕の隣に座った。
 母はコーヒーに口をつけた。ブラックで飲むのは珍しかった。
 コーヒーカップを置いて、僕を見た。
「この際だから、はっきりさせておくわ」と言った。
「おきくちゃんはどこから来たの」
「江戸時代の白鶴藩の家老、当時の島田源太郎の屋敷からだよ(「僕が、剣道ですか? 4」参照)」と僕は言った。
「それは前にも聞いたわ」と母が言った。
「おきくちゃんが現代の人でないことぐらいは、来た時のことや、これだけ一緒にいるんだから、所作から言葉遣いからわかるわよ」と続けた。
「で、京介はどうするつもりなの」と母は僕に訊いた。
「どうするって、このままこの家にいるしかないじゃないか」と答えた。
「この家の何処にいると言うの」と訊いた。
 僕はきくを見て「僕の部屋」と答えた。
「それが現代では非常識なのはわかっているわよね」と母は言った。
「分かっているさ。でも、それより他にしょうがないじゃないか」と僕は言った。
「しょうがないで、済む問題なの」と母は訊いた。
「だって、ほかにしょうがないじゃないか」と僕は繰り返した。
 きくは「お母様、わたしは京介様と一緒にいたいです。このままではいけないのでしょうか」と言った。
「おきくちゃん。あなたは黙って聞いていて。あなたが、京介と一緒にいたいのはわかっているから。わたしは京介に話しているの」と言った。
 母は強い口調で言った。今まで飲み込んできたものを全部吐き出すつもりなのだ。
「わたしもわからない親じゃないのよ。ききょうと京一郎もいることだから、京介とおきくちゃんが一緒に寝るのは、江戸時代に行った時からの慣習、おきくちゃんにすれば当然のこととして、認めるつもりよ」と言った。
 僕はホッとした。きくはお茶に口をつけた。喉が渇いていたのだ。きくもホッとしたのだろう。
「でも今のままでは、ずうーっとは続かないわよ」と母は言った。
「どういうこと」と僕は訊いた。
「第一に、おきくちゃんの戸籍をどうするかってこと。戸籍がないままではどうにもならないでしょう」と言った。
「それはそうだけれど、どうにもならないじゃないか」と僕は言った。
「そうよね。江戸時代から来たなんていうことを戸籍係が認めるわけがないものね」と母が言った。
「そうだろう。このまま行くしかないんじゃないの」と僕は言った。
「あなたたちはそれでいいかも知れないけれど、ききょうと京一郎はどうするつもりなの」と母は言った。
「このまま、戸籍のない子にするの」と続けた。
「それは……」と僕は言いかけたが、上手い方法が思いつかなかった。
「ききょうが小学校に行く年になったらどうするの。ききょうを小学校に行かせないつもり」と畳みかけるように訊いてきた。
「何とか、しなくちゃならないよな」と僕は言った。
「そう、何とかしなければなりません」と母は言った。
「どうすればいい」と僕は母に訊いた。
「あなたが考えることでしょう」と答えた。
「それはそうだけれど、どうしたらいいのか、分からないんだ」と言った。
「わたしにもわからないわ」と母は言った。
 きくは恐る恐る「このままでは駄目なんですか」と訊いた。
 母はきくの方を向いて、「おきくちゃんにはわからないことかも知れないけれど、現代では駄目なの」と答えた。
「そうなんですか」ときくは言った。
「そうなの。だから、京介に話しているの」と母は言った。
 母は僕に向かって「現代に住むには戸籍がいるの。おきくちゃんには、戸籍がない。このままでは戸籍なしで生きていかなければならない。おきくちゃんだけなら、それでいいかも知れないけれど、ききょうと京一郎がいる。ききょうと京一郎の戸籍は作らなければならない。それをどうするのか、京介に訊いているの」と言った。
「だから、分からないって答えているじゃないか」と僕は言った。本当にどうしたらいいのか分からなかったからだ。
「わたしにもわからないから、誰かに相談してみることね」と母は言った。
「誰かって誰」と僕は訊いた。
「例えば、区役所の人にとか、弁護士さんかな」と答えた。
「すぐにしなくちゃいけない」と母に訊いた。
「早い方がいいと思うけれど、もう少し考えればいいわ」と答えた。
「お母さんがやってくれない」と僕は言った。
「これはあなたの問題でしょう。あなたが行動すべきよ。どうしてそうすべきかは、もう少し話していけばわかるわよ」と母は言った。
「まだ何かあるんだ」と僕は訊いた。
「そう」と母は答えた。
「あなたはいつかは結婚するでしょう」と訊いた。
「それはそうだね」と答えた。
「誰とするの」と母は言った。
「おきくちゃんなの、沙由理ちゃんなの、それとも他の人」と続けた。
「まだ決めていない」と僕は言った。
「おきくちゃん以外の人と結婚するつもりがあるのね」と母は訊いた。
「そんなこと、今は分からないよ」と僕は答えた。
「おきくちゃんはどうなの」と母はきくに訊いた。
「わたしは京介様の言うとおりにします」と答えた。
「だったら、京介が他の人と結婚したら、あなたはどうするの」と母は訊いた。
「それでも京介様と一緒にいます」と答えた。
「現代ではそれは無理なのよ」と母は言った。
「新しい家には、自宅の他に別にアパートというところがあるんですよね」と突然、きくは言った。
「あるわよ」と母が言った。
「でしたら、その一室に住まわせてもらいます。そして、京介様のお世話をします」と言った。
 母は「それは駄目ね。妾になるって言うのならともかく、現代では認められないし、わたしが認めません」とはっきり言った。
「京介様が他の人と結婚したら、わたしは住む所がありませんね」ときくは言った。そうして、泣き出した。
「おきくちゃん、泣きたい気持ちはよくわかるけれど、泣いて済む問題じゃないわよ」と母は言った。こんなに泣いているきくにこうも強く言う母を僕は知らなかった。
「母親だったら、自覚しないと駄目ですよ。ききょうと京一郎が可哀想です」ときくに言った。そして僕に向かって、「あなたもよ。父親なんだから、責任を持たなくちゃ」と言った。
「沙由理ちゃんと付き合っているわよね」と母が言った。
「うん」
「沙由理ちゃんは、おきくちゃんのことを知っているの」と訊いた。
「きくとは会っている。そして従妹だと思っている」と答えた。
「だったら、ちゃんとしたことを話すのね」と母は言った。
「今のままじゃあ……」と僕が言いかけると、「駄目に決まっているでしょう」と母はきっぱりと言った。
「せめて高校を出るまで」と僕は言った。
「高校を出たら、話すのね」と母は言った。
「そうする。約束する」と僕は言った。
「いいわ、猶予期間をあげる。それはおきくちゃんやききょうや京一郎についても同じよ」と言った。
「高校を出たら、沙由理ちゃんに本当のことを話して別れなさい。そして、おきくちゃんの戸籍を取って、ききょうと京一郎の戸籍も取るのよ。一番良いのは、おきくちゃんと京介が結婚することよ。そうすれば、この先もおきくちゃんは京介と一緒に暮らしていける」と言った。
 きくはもの凄く喜んだ。さっき泣いていたのが嘘のようだった。
「もうこの歳で将来が決まっちゃうのか」と僕は呟いた。
 母は「おきくちゃんの戸籍を取るのは、簡単じゃないわよ」と言った。
「区役所に行って、書類を出せば取れるなんて思っちゃ駄目よ。長い時間がかかると思った方がいいわよ」と続けた。