小説「僕が、剣道ですか? 7」

三十二
 沙由理とは、二日後に、新宿のカフェで会った。通りを歩いている時は、人にじろじろ見られる。沙由理はそれを楽しむかのように腕を絡ませ、肩に頭を預けてきた。
「すっかり有名人ね」と沙由理は言った。
「楽しそうに言うね」
「それはそうよ。彼氏が、剣道のインターハイの優勝者なんて、わたしだけだもの」
「こっちは、取材やなんかで大変だったんだぞ」と僕が言うと、「テレビで見たわよ」と沙由理が言った。
「で、本当はどうなの」と訊いてきた。
「取材陣に言ったことはまるで嘘」と僕は答えた。
「そうなの。どんなふうに」
「例えば、部活には一度も出ていません」と言ったら、沙由理は笑った。
「マジ」と訊くので「マジ」と答えた。すると、また笑った。
「でも、監督は凄い練習をしていたようなことを言っていたじゃないの」と言うので、「あれもでたらめ」と答えた。
「ほんとに」と言うので、「本当」と答えた。
「じゃあ、あの会見で言ったことはみんな嘘なの」と言うので「そう」と答えた。
「腰の使い方はわたしが教えたんじゃない」と沙由理が言ったから、「だね」と応えたら、飲みかけていた紅茶をこぼしそうになって笑った。
「じゃあ、優勝してどんな気分」と訊いてきた。
「みんなそう訊くね」と言うと、「訊きたいでしょ」と沙由理は言った。
「普通」と答えた。
「普通なの」と訊くから「ああ、いつもと変わらない」と答えた。
「へぇー、普通なんだ」
「そう。でもそう答えると嫌味に聞こえるだろ」と言うと、沙由理は頷いた。
「だから、嬉しかった、と答えた」と言った。
「そうなんだ」
「たかが、インターハイだよ。勝って当然でしょう」と言うと「言うわね」と沙由理は言った。
 本当の修羅場を抜けてきた者にとっては、インターハイは遊戯大会のようなものだった。
「最後に対戦した倉持喜一郎はどうだったの。絶対王者だって言われていたじゃない。連覇もしているし」と沙由理は言った。
「倉持喜一郎か。きっと今まで彼と対戦してきた奴は、蛇に睨まれた蛙のような気分だったんだろうな」
「どういうこと」
「だから、躰が硬直して、一瞬動かなくなるんだ」と僕は言った。彼に時を止める能力があるとは言えなかったからだ。
「でも、あなたは大丈夫だったんだ」
「そう」
「最後の一撃は凄かったわね。面っていうのね。あれで、相手は気絶しちゃったもんね」
 その前に勝負はついていたが、あれはおまけかな。
「気持ちよかったでしょう」
「普通」
「そればっかり」
 沙由理は紅茶を飲み干すと「今日はラブホに行けないわね」と言った。
「今日は駄目だよ」と僕は慌てて言った。
「今日、行く気はないわよ。わたしは病み上がりだし、そっちは疲れてもいるでしょうから」と沙由理が言ったのでホッとした。
「今度からシティーホテルを取りましょう。休憩サービスをやっているところがあるのよ」と言った。
「名前を書かなきゃいけないんだろ」と言うと「一人だけでいいの。わたしが取っておくから心配しないで」と言った。
 そして「支払だけ任せるわ」と付け加えた。
 沙由理とカフェを出て、しばらく歩いて駅で別れた。僕は電車に乗らずに歩いて帰った。

 地鎮祭と棟上げ式には行ったが、それ以外は新しい家には行かなかった。父や母ほど興味がなかったからだ。
 だが、自分の部屋は大きく取るようにレイアウトしてもらった。将来的に誰かと結婚することになったら、そこが主寝室になるからだった。ダブルベッドも置かなければならないし、僕の大きなパソコンデスクも置きたい。そして書棚も必要だった。その部屋には二畳大のWICもついていた。その他に六畳の洋間がクローゼット付きで二部屋と三畳ほどの納戸が五階にある。五階と四階で二世帯住宅になっていた。五階はバスルームがなく、その代わり、トイレの横に半畳ほどのシャワールームが付いていた。このシャワールームはミストサウナにもなっていた。後は、小さめのキッチンにダイニングルームだった。
 エレベーターがあるから、どうしてもエレベーターホールは必要で、その先に玄関を付けなければならない。そのためにレイアウトは限られていて、四、五階にもあまり余裕はなかった。四、五階を繋ぐ階段もつけなければならなかった。
 四階は一LDKだった。バスルームは広かった。
 食事は主に四階ですることになるだろう。
 今のは見取り図からの想像で、まだ完成には程遠かった。

「きく、新しい家ではきくは別の部屋に眠るんだよな」と訊いた。
「いいえ、今と同じで京介様と一緒に寝ます」と答えた。
「母は何て言っていた」と訊くと、「それじゃあ、ダブルベッドにしないとね、と言われました」と答えた。
「反対されなかったのか」
「どうして反対されるんですか」
「現代には、道徳というものがあるんだよ。道徳的にどうかと思うんだけれどな」
「ききょうと京一郎がいてもですか」ときくは言った。
 痛いところを突いてくる。そうなんだよな。今更、道徳も何もあったものじゃあない。ということは母も承認しているということか。
「近藤さんの話をしたときは、お母様は笑っていましたよ」と突然、きくが言った。
「えっ、コンドームの話までしたの」
「コンドームって近藤さんのことですか。それならしました」
 あちゃあ。僕はうな垂れた。
「どんなダブルベッドにしたいか訊かれました」
「どう答えたの」
「京介様にくっついて寝られるベッドなら何でもいいです、と答えました」
「母は何て言っていた」
「笑っておられました」
 そうだよな。笑うしかないよな。
「結局、ダブルベッドになるのか」
「よくわかりませんが、二人で寝られるベッドがいいのねって、訊かれたので、そうです、と答えました」
 ということはダブルベッドになるんじゃないか。
 僕は自分の部屋の見取り図を出して、ダブルベッドの置かれそうな位置を書き込んだ。そして、自分のパソコンデスクの位置を書き、書棚を書いた。後は、京一郎のベビーベッドを置けばいっぱいじゃないか。
 ききょうはどうするんだ。一緒に寝るのか。
 多分、それしかないだろう。

 僕はコーヒーを入れにリビングに下りていった。きくもついてきた。
 ダイニングテーブルには母が座って、カタログを見ていた。
「あら、帰っていたの」と母が訊いた。
「うん、結構前だけれど」と答えた。
「そう。沙由理ちゃんと会ってきたんじゃないの」
「会ってきたよ」
「それにしては早かったわね」
「どういう意味」
「いろいろと話すことがあったんじゃないかと思って」と母は言ったが、それ以外のことを思っているのかも知れなかった。
「話すことは話した」と言った。
「そう、それならいいわ」
「わたしはコーヒー入れますね」ときくが言った。僕のためだった。
「わたしにも入れてちょうだい」と母が言った。母がコーヒーをきくに頼むのは珍しかった。
「おきくちゃんは、お茶を入れて。丁度いい機会だから、話しましょう」と母が言った。