小説「僕が、剣道ですか? 2」

十七-2

 次はいよいよ僕と竹田との戦いだった。
 僕も今日は袴を穿き、着物の袖をたすき掛けにしていた。
 小姓より木刀を受け取り、それを左脇に抱えて、前に進み、蹲踞の姿勢を取った。相手も同じ姿勢を取ると、立ち上がり、藩主に向かって一礼をすると、次に互いに一礼しあった。
 中島伊右衛門の「始めい」の声がかかった。
 僕は脇から木刀を右手に持ち、前に突き出し、そして左手で柄を掴んだ。
 相手も同じように木刀を突き出してきた。
 僕も竹田も同じ姿勢で、前に進んだ。
 お互い、そのまま少しずつ進んでいった。
 半ばまで進むと、止まった。
 相手は構えに入った。
 僕は、立ったままだった。そして、そのまま進んだ。
 竹田は腰を落として、木刀を右に引いた。僕は立ったまま、竹田に向かって歩いて行った。木刀は右手に持ち、だらりと垂らしていた。
 間合いが詰まった、竹田の木刀が小手を狙ってきた。僕は右手を振り上げ、それを払い、次に竹田は頭に打ち込んで来た。それは素早かった。
 僕はかわすのが精一杯だという演技をした。竹田は振り向きざまに、また頭に打ち込んで来た。木刀でそれを返して、僕は離れた。
 竹田も離れていた。
 竹田は突きの構えを見せた。
 僕は正眼に構えて前に進んだ。竹田は突いてきた。しかし、それがフェイントだということは分かった。すぐに上段に切り替えたからだった。その瞬間、竹田の胴はがら空きだった。僕がそのつもりなら、胴に軽く木刀を当てることは容易かったが、それをしなかった。それをすれば、あーあ、勝ってしまうではないか。
 竹田が振り下ろすのを待って、かわした。
 その途端に、竹田は激しく突きを入れてきた。その突きを木刀で弾き返しながら、僕は少しずつ後退していった。
 そして、躰を反転させて、突きをかわした。
 僕が躰を反転させるのを、見越していたかのように、またも頭に鋭く打ち込んで来た。その木刀使いは、寸止めしようとするものではなかった。木刀が頭のどこかに当たれば、頭蓋骨が割れそうな勢いだった。実際に、そうしようと思っていたのだろう。その分、大振りになっていた。
 かわすのは簡単だった。
 竹田は強かった。しかし、佐伯ほどでも、堤ほどでもなかった。
 何故、斉藤頼母が推挙してきたのか、分からなかった。何かあるのだろうか。
 離れた時に、また右を引いた。さっきのはフェイントだった。今度もフェイントなのだろうか。
 僕は、正眼に構えて前に出た。相手は右を引いたままだった。今度は、すぐに突きを入れてこなかった。ならばと、正眼のまま、また前に進んだ。今度は激しく突きを入れてきた。
 当然、かわした。その途端に、相手の木刀は頭上にあった。
 不思議だった。突きを入れてきた相手が、木刀を上段に移し替えるには、時間がかかるはずだった。しかし、その時間がまるでなく、木刀は頭上から振り下ろされた。
 誰しも、僕が頭を打たれたと思ったのに違いなかった。
 僕もそう思った、だけだった。もちろん、そのままなら、頭を打ち砕かれていただろう。しかし、左に避けたのだった。木刀は空を切っていった。
 竹田は何が起こったのか、分からない表情をしていた。
 竹田の木刀が僕の頭上にあったのは、突きを入れた時に、おそらく躰を反転させ、木刀を引くのではなく、振り上げたのだ。
 躰が反転し終わった時、木刀は、振り向いた僕の頭上に来るようにしてあったのだ。
 これは最初の突きが本物に見えなければ、できない芸当だった。それをかわされることを計算の上での、次の攻撃のための捨て石だったのだ。
 これは、初めて見るのであれば、佐伯も堤も受けきれないだろう。
 とすれば、最初からのぬるい打ち合いは演技だったのか。だが、それで負けては、元も子もなくなる。
 僕も竹田も離れた。
 竹田に動揺した気配はなかった。
 今度は僕が打って出た。相手の力量を見ようとしたのだ。激しく木刀を打ち下ろしていった。かわせるかかわせないかのギリギリを突いていった。それを竹田は何とかはね返していった。後ろに竹田を後退させ、躰を入れ替えると、また僕は激しく打ち込んでいった。
 門弟にやる稽古のようだった。これを十分も連続で続けると、門弟は根を上げた。
 竹田はそうはいかなかった。ことごとく打ち返してきた。
 僕はさらに速く打ち込んでいった。それを何とか竹田が返している内に、僕は、ある閃きがあった。
 竹田は侮れなかった。佐伯や堤ほどではないと思っていたが、どうやらそうではなさそうだった。斉藤頼母が推挙してきただけの腕は持っていたのだ。
 最初は様子見をしていたのだ。隙を作って見せたが、あれは敢えてそうしていたように思えてきた。
 竹田と十分ほど立て続けに、再び切り結んで、二人は離れた。
 そして、僕は後ろに下がると、木刀を投げ捨てた。
 その時、直ちに、審判である番頭の中島伊右衛門が、「鏡京介殿の負け」と宣言をした。