小説「僕が、剣道ですか? 6」

二十四

 離れから、きくが離れたところで時を止めた。

 奥座敷に行き、あやめを呼んだ。

「風車様のことですよね」とあやめは言った。

「そうだ。うなされているようだが、何を思い浮かべているのか、あやめには分かるか」と訊いた。

「行ってみなければわかりませんが、強い想念ならわかると思います」と言った。

「だったら、頼む。少なくとも、どこの道場でやられたのかは知りたい」と僕はあやめに言った。

「わかりました。お待ちください」

 少しして、あやめは戻ってきた。

「凄い想念でした。はっきりと見えました」

「そうか」

「お見せしましょうか」

「できるのか」

「わたしが主様の頭に風車様の想念を送ります。それを見れば一目瞭然です」と言った。

「やってくれ」

「はい」

 クラクラと目眩のようなものがした。頭の中に映像が流れ込んできた。溢れる映像に慣れるまでに少し時間がかかった。

 そこは神田にほど近い道場だった。柳沢道場という看板がはっきり見えた。

 道場に入り「頼もう」と風車は声をかけた。門弟たちが集まってきた。

 師範代らしき男が「何用ですか」と訊いた。

 風車は「道場主に一手、お相手を願いたい」と言った。

  師範代らしき男は「そういうことはお断りしております」と言った。

「せっかく江戸に来たのです。何とぞ、ご教授願いたい」と風車も食い下がった。

 師範代らしき男は「そういうことでしたら、どうなっても知りませんよ」と言ってから、「松原、相手をしてやれ」と言った。

 風車は「拙者は道場主に一手ご教授を願いたいのです」と言ったが、 師範代らしき男は「それは松原と戦ってからにしてください」と言った。

「そういうことでしたら、仕方ありませんね」と風車は言い、道場内に入ると、本差を脇に置き、木刀を持って、松原という相手と相対した。

 少し離れて礼をし、近付いて木刀の切っ先を合わせると、「始めい」のかけ声がかかった。

 指名されただけあって、松原はなかなかの剣士だった。隙がなかった。それ以上に、風車も隙がなかった。僕とやったときとはまるで違っていた。本番ともなると、こうも違うものかと感心させられた。これなら、風車にも勝機があると思えた。実際に、風車は真剣そのものだった。相手の隙をつぶさに伺っていた。そして、チャンスが来た。相手が少し動いたのだ。そこに戦略はなかった。相手は、ただ、動いてしまったのだ。その瞬間に、風車の小手が決まった。相手は木刀を落とした。風車が勝った。

「これで道場主とやらせてもらえますね」と風車が言い終わらないうちに、五人に周りを囲まれた。

「どういうことです」

「無法をしているのは、そちらではないか。こちらはそれに対処するのみ」と言って、一斉に打ち掛かってきた。

 前の二人の木刀ははじき返せたが、後ろからの一人の木刀が背中を強く叩いた。それで前のめりになったところを、 前にいた師範代らしき男に強く胸を突かれた。その時に肋骨にひびが入った。

 風車は木刀を取り落とした。拾おうとしたが、一人がその木刀を足で遠くに蹴った。風車は、何も持たないまま五人、いや、小手を打たれた松原も入って六人に滅多打ちにされた。それでも歯を食いしばって立っていたが、ついに膝が崩れた。足を掬われ、床に倒れたところを、なおも六人は叩き続けた。

 一人が「こいつ泣いてますぜ」と言った。

「そうか、どれ」と風車の顔を見る奴もいた。

 風車はどれだけ悔しかったことだろう。

 それでもずだずたになるまで叩き続けられた。彼らは致命傷にならない程度に痛めつける方法をよく知っていた。その上で木刀で叩き続けたのだった。

 最後は、玄関から蹴り落とされた。

 そして、門にまで放り出されて、そのままにするかと思いきや、「誰か戸板を持ってこい」と師範代らしき男が言った。

 そして、門弟に「こいつの家まで運んでやれ。途中で倒れられても困るし、どこの誰かということをわかっておいた方が後々のためにもなるからな」と言った。

 四人の門弟が選ばれて、石原の鏡邸まで運ばれて来たのだった。意識を半ば失っていた風車は家に戻ることしか考えになかったのだった。

 家に着くと門の前に放り捨てられた。門弟の一人は表札を見ていったことだろう。

 そこまでが、風車の意識にあったことのすべてだった。これらのことが一瞬で頭に入ってきた。

 僕は怒りに震えた。

「主様のお怒りはわかります。そして、どうしようとしているかも」とあやめは言った。

「今日のところは、わたしの役目はこれで終わりですね」と言うと消えた。

 

 僕は離れに行って、時を動かした。桶の水を取り替えに行っていたきくがやってきて、「ここにいらしたんですか」と言った。

「ああ、どうにもいたたまれなくてね」と僕は言った。

「ひどいことをするもんですね」ときくは言った。

「そうだな」

 さっきの映像が生々しく蘇ってきた。眠れそうになかったが、英気を養っておく必要があった。

「もう、眠ることにするよ」と言って、離れから出た。

 ぼんやりとした月が浮かんでいた。

 

 よく眠れぬまま、朝が来た。

 布団の中にいたまま、すぐには起きなかった。目覚めたききょうが、これ幸いとばかりに僕のほっぺたを突っつこうとした。そのままにしておけば良かったが、その手を握ってしまった。ききょうは驚いた。どうしていいか分からず、泣き出した。

 きくが来た。その時は、僕はききょうをあやしていた。

「起きてらしたんですか」

「今、起きたところだ」

「そうですか」

「風車殿はどうだ」

「相変わらずですが、今は眠っています」

「そうか、一晩中、済まなかった。朝餉はいいから、眠るといい」

「ありがとうございます。でも、食べないと」

 僕は少し考えてから、「そうだな、朝餉だけ食べていこう」と言った。

「どこかに行くんですか」

「ああ。用事ができた」

「風車様の敵を討ちに行くんではないでしょうね」

 きくは鋭かった。

「そうだったら」

「お止めください」

「大丈夫だよ」

「でも、心配です。あなたまでが風車殿のようになったらと思うと……」

「そんなことにはならないよ。それよりも、ご飯を炊いてくれ」と言った。

「わかりました」

 きくは僕が言い出したことは、きかないことをよく知っていた。それならば、腹を空かせて、出かけさせたくはなかったのだ。

 

 僕は顔を洗った後、奥座敷に行き、床の間から、定国を手にした。そして鞘から抜いた。

 定国を手にしながら、「残念ながら、お前の出番は今日はないがな」と言った。

 その時、定国が唸った。

「どうしたんだ」と言った。

 敵が来たわけではなかった。

 定国は、またしても唸った。唸るだけでなく、その光が刀から手に伸びて来た。

「お前、私に移れるのか」

 定国は唸った。

「そうなのか。だとすれば」

 僕は鞘を持った。

「ここに移れるか」と言った。

 定国の光が鞘に移動した。鞘が光った。

「戻れ」と念ずると、鞘から光が躰に移った。そして、定国を持つとその光は定国に戻っていった。

「定国、今日はお前の力を借りることにしよう」と言った。

 どうしてこんなことができるようになったのかは、分からなかった。

 

小説「僕が、剣道ですか? 6」

二十三

 次の日も風車は帰ってこなかった。

 

 その翌日、朝餉の後に両国に向かった。約束したおむつを取りに行くためだった。代金を払って、おむつを受け取ると大きな風呂敷、二つに包んでくれた。大きな方を背負って、もう一つはぶら下げて店を出た。

 その後で、食料品を売っている店で、胡椒などの香辛料を手に入れた。結構な値段がした。そこで羊羹も買った。

 

 おむつを持って帰ると、きくが喜んだ。風呂敷を開けると、意外に沢山のおむつが出て来たからだった。これなら、当分、大丈夫という数だった。

 

 昼餉を食べ終えた頃に、風車は帰ってきた。風車は昼餉を食べて帰ってきたようだった。

 疲れているようなので、そのまま離れに行かせた。

 きくが「朝まで起きていたのでしょうか」と訊いたが、僕には答えようがなかった。そんな気もするが、帰らざるを得なかったことが口惜しかったのかも知れなかった。

 

 僕はききょうをおぶって、中庭の畑を見た。野菜が順調に成長していた。簡単じゃないかと安易に思ってしまった。

 水をやって、畑を後にした。

 

 おやつは買ってきた羊羹を食べた。風車にも声をかけたが、寝ているようなので、そのままにした。

 風呂は、ききょうをおぶって僕が焚いた。

 

 風呂が沸いた頃、風車に声をかけると、一緒に入ると答えたので、先に脱衣所に行った。すぐに風車も来た。

 風呂場では、風車がしんみりと「時間というものは、経つのが速いものですね」と言った。

「そうですね」

「あっという間に、二日経ってしまいました」と呟くように言った。

 心からの声だろう。風車の心は、今も吉原にあるような気がした。

「でも、金がなくなれば帰らなければならない」

 そこで、風車は大きく溜息をついた。

 

 夕餉は、風車には粗末な物に見えただろう。吉原で何を食べていたのかは知らないが、今、卓袱台に並んでいる物よりは、良い物に違いなかった。

 でも、それを風車は美味しそうに食べた。お代わりもした。僕は、正直、ホッとした。

 

 きくとききょうが眠ったので、時を止めて、奥座敷に行くと女が待っていて、「風車様が帰ってきましたね」と言った。

「ああ」

「でも、心はここにはありませんね」

「そうだな」

「遊女に惹かれています」

「男はそういうもんだ。特に風車のような男はな」と僕は言った。

「私は吉原に行かなくたって」と僕が言うと、すぐにあやめは「わたしがいますものね」と続けた。

 僕はあやめを抱いて、寝室に戻った。そして、時を動かした。

 

 次の日、風車は普通に朝餉を食べた。

 僕が朝の素振りをした後、中庭の畑を見せようと風車を探した時には、もういなかった。

「きく、風車殿はどこにいるのかな」

「離れにいるんじゃありませんか」

「いや、いないんだ」

「だったら、どこかに出かけたんでしょう」

「どこに行くと言うんだ」と言いながら、また道場破りに行ったのではないか、という悪い予感がした。

「吉原っていうことはありませんよね。もう、お金はないんだし」ときくは言った。

「そうだな」

 

 昼餉になっても、風車は帰ってこなかった。

 おやつの時間になって、トウモロコシを焼いたのを食べていると、門を叩く音がした。出て行くと、門のところに風車が横たわっていた。

 ひどい怪我を負っていた。

 通りを見ると、遠くに戸板を持って走って逃げていく門弟らしき者何人かの姿が見えた。追いたかったが、今は風車の方が心配だった。

 門を開けて、引きずって家の中に入れた。着物はひどく汚れていた。このまま家に上げることはできなかった。きくに風車の着物を取ってこさせて、土間の上がり口で着替えさせた。そうして、肩を支えながら、立ち上がらせると、何とか、離れまで運んだ。

 布団を敷いて、そこに風車を横たえた。

 きくに後の面倒は見させて、僕は隣の家に行き、医者のいる所を教えてもらい、医者の所に走った。

 老齢の医者を引きずるように連れてきて、風車の容態を見させた。

「肋骨にひびが入っている。後は、打撲だな。相当、腫れているから、湿布薬を塗っておいた。この壺に湿布薬が入っているから、時々、塗り替えるように。幸い、頭は叩かれていないようだから、命に別状はない。それにしてもひどくやられたもんだな」と言った。

「肋骨のひびが治るには、一月はかかるだろう。腫れはそれよりも前に引くだろう。今日は熱が出るから、額を冷やすといい。湿布薬がなくなったら、取りに来なさい」と続けた。

 この時代のことだから、医者の見立てや湿布薬にどれだけの効果があるのかは分からなかったが、するだけのことはしないではいられなかった。

 医者に礼を言い、代金を払って帰ってもらった。

 

「どうでしたの」ときくが訊いた。

「肋骨にひびが入っているそうだ。頭は叩かれていないようだ。後は、打撲の腫れだな。湿布薬を塗っていった」と答えた。

「そうですか」

「熱が出たら、額を冷やすように、と言われた」

「わかりました。今夜は起きて、風車様の看病をします」ときくは言った。

「そうか」と言った後、明日は私が看病しよう、と言おうとしたが、それよりもすることがあることに気がついた。それが心に広がると、そっちに心が奪われた。それは、風車の敵討ちをすることだった。ここまで、風車を袋叩きにした道場は許しておけなかった。

 明日はその道場に出向くつもりだった。

 だが、肝心の道場が分からなかった。ただ、一つだけ心づもりがあった。

 

 考え事があるからと言って、ききょうとは入らず、一人で風呂に入った。

 風車の躰の怪我は、僕も見た。あれは、一人で付けられるものではなかった。何人かに寄ってたかって、木刀で殴られれたものに違いなかった。

 肋骨にひびが入ったところで、叩き出せばいいのに、その後も嬲りものにしたのに違いなかった。

 許せなかった。

 風呂の湯で顔を拭った。

 

 夕餉はお通夜のようだった。ききょうだけがいつも通りだった。ききょうに救われている気がした。

「どうなんだ」と訊くと、「うなされています」ときくが言った。

「そうか。食べ終えたら、様子を見てくる」と言った。

 

 夕餉の後に、離れに向かった。きくもききょうを連れてやってきた。

 襖を開けると、顔を腫らした風車がいた。

 きくが桶の水で額の手拭いをすすいで絞り、また当てた。

 風車は何か言っているようだったが、意味は分からなかった。

小説「僕が、剣道ですか? 6」

二十二

 翌日、風車は早速、吉原に行った。

 十両持っているとしたら、明日も帰ってこないだろう。

 きくが「風車様はどうされたのでしょう」と訊いたが、僕は答えられなかった。

 畑では、キュウリの芽が苗になり、大きくなっていた。添え木を埋め込んだ。それで午前中は終わった。

 昼餉をとり、水撒きをしてから、ききょうと遊んだ。

 ききょうは、嬉しがった。自分で鞠を持ち出してきた。

 おやつに、きくは「小豆を煮たのですが、どうですか」と煮豆になっている小豆を持ってきた。砂糖の加減は良かった。僕は豆を潰したものを、ききょうに食べさせた。ききょうは美味しそうに食べた。僕が豆を潰す前に食べようとしたほどだった。

「待て待て、ききょう。すぐ潰してやるから」と言って、潰した物を食べさせた。

「明日はこれでおはぎを作りますね」と言った。きくは、水に浸した小豆を見せた。

「今日の分は、今日食べましょう」とも言った。

 僕は煮豆の小豆を沢山食べた。ききょうもだった。

 

 おやつの後は定国を使って素振りをした。自分の剣も鈍っている気がしたからだった。

 ききょうをおぶっての風呂焚きは何度目だろう。段々、ききょうも火に慣れてきたが、それがかえって心配だった。居間の囲炉裏の火を気にするようになったからだ。いつ、火傷を負うとも限らなかった。そのうち、火の恐ろしさを教える必要がありそうだった。

 でも、僕はまだ高校二年生だぞ。その高二生が子どものしつけを考えるなんて、この世は何て不条理なのだろう。そもそも江戸時代にいること自体が不条理か。

 

 ききょうと一緒に風呂に入った。その後はききょうと遊びながら、夕餉を待つだけだった。この生活が永遠に続いたらどうなるのだろう。僕は首を振った。大目付の二宮権左衛門を討ち果たすのだ。そうでなければ、彼の命で死んでいった無数の公儀隠密の魂が浮かばれない。

 でも、大目付の二宮権左衛門に近付く方法すらも思い浮かばなかった。第一、相手の顔も知らないのだ。だが、大目付の二宮権左衛門は、僕がこの江戸に来ていることを知れば、気にせずにはいられなくなるだろう。何らかの手を打ってくるのに違いなかった。

 そのためには、どんな餌を撒けばいいのだろう。考えても仕方のないことは、ひとまずおくことにしようと思った。

 

 夕餉は焼き茄子と茄子の味噌汁だった。茄子は今、畑で育てているところなので、上手く行けば、そのうち毎日、茄子料理になるかも知れなかった。

 ききょうには、茄子の柔らかいところを食べさせた。ききょうは好き嫌いがないところが良かった。僕は子どもの頃は、茄子が駄目だったのだ。もともと嫌いだったということはなかったが、母の田舎から、茄子が大量に送られてきて、毎日、茄子を食べていたからかも知れなかった。

 畑の茄子が取れ始めれば、田舎から送られてくるどころではないだろう。ききょうが茄子嫌いにならなければいいが、と思う。

 

 きくとききょうが眠った後に、時間を止めて、奥座敷に行った。

 女が待っていた。

「風車様がいないと寂しいのでしょう」と女は言った。

「そんなことはない」と言ったが、女の言うとおりだった。

「明日も帰ってこないのですね」

「私の心を読むなと言ったろう」

「でも、そう思っていることは、心を読まなくてもわかりますわ」と言った。

 女の言葉はどこまで信用できるのだろう。

 僕は女を抱くと、寝室に戻り、時を動かした。

 

 次の朝、ききょうに起こされた僕は井戸場で顔を洗った。

 昨夜、洗ったタオル類を見ると、かなりボロボロになっていた。ききょうのおむつも何とかしなければならないな、と思った。また、新しく生まれてくる子もいるのだ。おむつは何とかしようと思った。

 朝餉を済ますと、両国に行った。まず、仕立屋に入り、おむつに適した生地を教えてもらい、布屋に入って木綿を沢山購入すると、仕立屋に行って、できるだけ多くのおむつを作ってくれ、と頼んだ。女将は僕のことを、赤ん坊がいる男やもめだと思ったのに違いなかった。二日後の昼前には来ると伝えて店を出た。

 昼餉までには、家に戻った。おむつを買ったことをきくに伝えた。きくもタオルが少なくなってきていたので、どうしようか迷っていたそうだ。自分が裁縫が得意でないことを恥じていた。それは恥じることではない、ときくに言った。誰でも不得意なことはあるものだ。きくは、その年でよくやっていると僕は思っていた。

 

 昼餉は、油で素揚げした茄子を醤油で食べた。その時、両国まで行ったのだから、胡椒を買ってくるんだった、と思った。

 昼餉の後は、ききょうがまとわりついてきたが、定国を使って素振りをする方を優先した。風車が道場破りをしたことが気にかかっていたのだ。江戸には、田舎と違い、幾つもの道場がある。道場破りで、一時は凌げるだろう。しかし、それが続けられるとは思えなかった。剣術の腕を磨くための道場破りならともかく、吉原に行くための資金作りとなると、行き詰まるのは目に見えていた。

 素振りをしているうちに、勘が戻ってきた。それと同時に定国が唸った。定国も退屈していたのだ。

 

 おやつは、昨日言っていたとおり、おはぎだった。初めて作ったにしては、上手くできていた。ききょうにも少しずつ食べさせた。ききょうは、小豆の餡が好きだった。もっとも小豆の餡は誰でも好きかも知れなかった。

 

 おやつの後も素振りをした。

 それから風呂焚きをした。ききょうも連れていた。焚き口に火をつけて、ききょうの手を近づけさせた。火が熱いことを教えたかったからだ。ききょうはすぐに手を引っ込めた。

「なっ、熱いだろう。火は怖いんだぞ」と僕は言ったが、ききょうが理解できるはずもなかった。経験しながら、学んでいくのだ。

 

 風呂は、今日もききょうと入った。明日も、多分、ききょうと入るだろう。

 五右衛門風呂にききょうと一緒に入った時、ふと、僕はききょうから手を離してしまった。ききょうは風呂に沈んだ。そして、必死な顔をして、風呂の縁に手をかけて、顔を上げた。そして、息をした。僕はホッとしたと同時に、これも火と同じことなんだな、と思った。

 でも意図してやったことではないので「ごめんな」とききょうには謝った。赤ん坊の肌は、風呂の中では特にヌルヌルとしているのだった。

 

 きくとききょうが眠ったので、時を止めて、奥座敷に行った。

「風車はどうしているだろう」と呟くと、「京介様の頭の中は、おきく様とききょう様と風車様だけですのね」と言った。

「わたしのことなど、どこにも入り込めないんですね」と続けた。

「そんなことはないが、そう思わせたとしたら、済まなかった」と僕は言った。実際、あやめのことは、夜にならなければ思い出せないほどに、時に忘れていた。

 僕はあやめを優しく抱き、それから寝室に戻った。

 そして、時を動かした。

小説「僕が、剣道ですか? 6」

二十一

 六日間、風車は吉原から戻ってこなかった。

 僕はその間、畑仕事をした。いや、畑仕事らしきことをした。植えたキュウリの種からは、僅かに芽が出ていた。それが順調に育つのかどうかは分からなかった。茄子の苗は育ってきたので、添え木をした。

 風車がいない生活にも慣れてきた。僕が畑から戻ると、ききょうが寄ってきた。

 遊んでもらえると思ったのだろう。僕は、この前、きくとききょうとで両国に行って買ってきた鞠を取り出してきた。それだけで、ききょうは嬉しがった。

 ききょうを奥座敷に連れて行き、床の間の方に軽く投げた。すると、ききょうは、鞠を追いかけた。そして取ってくると、投げようとした。しかし、上手くは投げられなかった。僕はその鞠をまた投げた。ききょうは鞠を追いかけた。この繰り返しが、幾度となく続いた。そのうち、疲れてきたのだろう。ごろんと畳に寝転がった。

 そんなききょうを抱いて、寝室に向かった。そして、布団を出して、寝かせた。

 

 起きたききょうをおぶって、風呂の火をつけていたところに、風車が帰ってきた。

「どうしました」と訊くと、「先立つものがなくなって……」と風車は答えた。

 三十両ほど持っていたのだ。一日五両として六日が限界だったのだろう。

 風車の顔には、未練が残っていた。

 

「風呂が焚けたら、一緒にどうですか」と訊いたら、「いや、拙者は後で……」と答えた。躰に残ったキスマークを見られたくはなかったのだろう。

 今日も、ききょうと一緒に入ることになった。

 

 夕餉では、吉原の話はしなかった。

 きくは「どうしていたんですか」と何度か訊いたが、「いや、何……」と風車は答えるばかりだった。

 話題を変えるつもりで、僕は「夕餉の後に一局でもどうですか」と訊いたが、風車の頭は吉原のことでいっぱいだった。

「えっ、何て言われました」と訊き返された。

「いや、何でもありません」と僕は言った。

 

 次の日も風車は元気がなかった。

 昨夜、あやめに会った時も、「風車様はある女性に心を奪われていますね」と言った。多分、その通りなのだろう。こればかりは、どうにもならなかった。

 

 次の日になって、朝餉の後に、僕が畑仕事をしていたら、風車は中庭の隅で素振りをしていた。

「どうしたんですか」と僕が訊くと、「離れに籠もっていても、雑念だけが頭を過るので、それを吹っ切ろうと思いまして」と答えた。

「そうですか」

 少しは前向きになったんだ、とばかりに僕は思った。

「では、私も手が空きましたから、私と少しやりませんか」と言った。

「鏡殿とですか」と風車は言った。

「いや、ですか」

「いや、そうではなく、かなり躰が鈍っているものですから」と風車は言った。

「それはすぐに元に戻りますよ」と言った。

「でも、木刀は」と風車が訊いた。

「そのあたりの枝を切って、木刀代わりにしましょう」と僕が言った。そして、納屋から斧を持ってくると、小木を二つ切って、枝を払い、適当な長さに調整した。

 その一本を風車に放って渡すと、「いざ」と僕が言った。

 風車も「いざ」と言って、打ち掛かってきた。

 僕は風車に合わせて、打ち合った。風車は以前、対戦した時より随分と躰がなまっていた。

 僕は少し早く打ち、風車がそれに合わせられるようにした。風車はすぐに息が上がった。

「少し、躰がなまっているようですね」と風車が認めた。

「慣れれば元に戻りますよ」と僕は言った。

「そうだといいですけれどね」と風車は言った。

「また、昼餉の後にやりましょう」と言うと「ええ」と風車は応えた。

 

 昼餉は、風車はいつものようにお代わりをした。打ち合いをしたので、腹が空いていたのだろう。

 昼餉の後、ききょうがはいはいしてきた。遊んでもらえるものと思ってきたのだろう。それを無にすることもできないので、鞠でききょうと遊んだ。

 ききょうが疲れてきたところで、風車に声をかけた。

 僕らは、中庭で手製の木刀で打ち合いをした。

 やはり、風車の剣はなまっていた。僕は少しばかり激しく打ち込んだ。すると、風車の息が上がるのが分かった。その時は、手加減をした。

「元に戻るには、もう少し時間がかかりそうですね」と僕は正直に言った。

「そうですか」と風車は残念そうに言った。

 

 おやつは、ふかした饅頭だった。稽古後だったので、美味しかった。

 風呂は風車が沸かした。

 今日は、風車と一緒に入ることになった。だから、ききょうがぐずった。

 僕は風車の躰が見たかったのだ。やはり、少し痩せ衰えていた。僕の剣を受け損ねた傷も散見された。

 

 夕餉は、風車が帰ってきて、いつものように和やかに進んだ。ただ、風車は吉原のことは口にしなかった。

 きくは、今日の稽古の様子を風車に訊いていた。風車は「躰がなまっていて、もう少し練習しなければいけません」と答えた。

 

 きくが眠った後、時間を止めて、奥座敷に行った。女が待っていた。

 風車のことを訊いた。

「女に心が向いているようですよ」と答えた。

 やはり、そうか、と思った。しかし、お金がない風車はどうするのだろう。そのうち、借りに来るのではないかと思った。その時は、どうしようか、と考えたが、考えがまとまらなかった。

「男と女のことですから、なるようにしかなりませんよ」と女は言った。

 

 次の日も朝餉の後に、剣術の稽古をした。昨日よりはましだった。だが、僕が知っている風車には、まだ遠かった。

 

 剣術の稽古の間に、僕は畑の面倒を見た。キュウリの芽と茄子の苗が大きく育っていた。野菜の生長は早かった。そんな具合に、風車も元に戻ればいいのに、と思った。

 

 数日、稽古して、風車はかなり元に戻っていた。だが、まだ何か足りなかった。僕に向かってきた時に感じた気迫がなかった。剣に邪心が感じられた。

 

 その翌日、昼餉の後、風車はどこかに行った。おやつにも帰ってこなかった。

 風呂を焚く時間になって、にこやかな顔をした風車が帰ってきた。

「何かいいことでもあったのですか」と訊いたが、「いや、何」と答えるだけだった。

 

 風呂でも、いつもの風車と変わらなかった。しかし、何かいいことがあったのに違いなかった。それを話そうとしないのが不審だった。

 

 夕餉の時も、風車はいつもと同じだった。

 僕は特に風車には訊かなかった。後であやめに尋ねることにしたのだった。

 

 きくとききょうが眠ると、時間を止めて、奥座敷に向かった。

 女が座敷に座っていた。

「わたしに訊きたいことがあるのでしょう」と言った。

「どうして分かる。私の心は読まないと言ったのに」と言うと、「読まなくてもわかりますよ。風車様のことでしょう」と言った。

「そうだが」

「あの方は、今日は四谷に行ったようですよ」

「何しに」

「さぁ、何でしょう。でも、十両ほど持っていましたよ」

十両も持っていたのか」

「ええ」

「どうやって、手に入れたんだろう」

「さぁ、そこまではわかりません」

 そこまで聞いて、僕は風車が道場破りをしたんだと思い至った。

 このところの剣術の稽古はそのためだったのか、と思った。風車は元のように戻ったと思い込んでいるかも知れなかったが、僕から見ればまだまだだった。僕が手加減をしていることが分からないのか、と思った。

 分からないのだろう。今の風車の剣は曇っている。今日は、たまたま相手が弱かったのだろう。しかし、そのうち痛い目に遭うことは目に見えていた。

 僕はあやめを抱くことを忘れて、寝室に戻ってしまった。

 あやめを傷つけてしまった。

 

小説「僕が、剣道ですか? 6」

二十

 夕餉の後、一局碁を打った。二子局だった。しかし、心ここにあらずの風車は惨敗した。

 ハンディなしで打ったが、僕が中押し勝ちした。こんな風車と碁をしていても面白くはなかった。

 風車は早くに離れに行った。吉原の遊女の記憶に浸ろうとしているかのようだった。

「風車様はどうかされたのでしょうか」

「一種の熱病だ」と僕は言った。

「どこか悪いんですか」

「ここがな」と僕は胸=心を叩いた。

 きくは首を傾げたまま、居間に向かった。

 

 僕は寝室で、ききょうを寝かしつけていた。

 きくがやってきた。

 昨日と同じように躰を押しつけてきた。そのきくの躰を受け止めた。

 僕がきくの中に放出すると、きくは手拭いで拭いて、洗ってきてまた拭いた。

「風車様はあのままでしょうか」

「どうだろう。そのうち、治るだろう。一種の熱病のようなものだからね」

「熱病ですか」

「私たちには、うつらないよ」

「わかっていますよ」

 そのうち、きくも眠った。

 

 僕は時を止めて、奥座敷に行った。

 女がいた。悲しそうな顔をしていた。

「わかっているんですよ、わかっているんです。でも、心が苦しいんです」と女は言った。

 僕は黙って、女を抱き締めるしかなかった。

 

 次の日も、風車は元気がなかった。

 朝餉でもお代わりをしなかった。普段は何か話すのに、何もしゃべらなかった。

「眠れていますか」と僕が訊いても、「ええ、まあ」と返すぐらいだった。

 きくと顔を見合わせた。

 風車が居間から出て行くと、僕はきくに「重症だな」と言った。

「そんなに悪いんですか」ときくが訊くから、「たとえだよ」と答えた。

 囲碁はしなかった。居間を出た風車は、そのまま離れに行った。

 

 僕は中庭の畑に出た。鍬を持っていた。

「土作りが大事なんですよ」と八百屋の主人は言ったが、どう土作りをすればいいのか分からなかった。風車も一緒に聞いていたので、風車と一緒にやろうと思ったが、声をかけることができなかった。

 僕は茄子の苗を植えていない二つの畝を掘り起こして、作り直した。そして、水を撒いた。

 

 風車は昼餉は食べたが、「おやつはいりません」と言った。そして、離れに向かった。

 僕が話す言葉も耳には届いていなかったろう。心は、吉原に向いていたのに違いなかった。

 

 風呂も僕が焚き、一緒に入ろうと勧めたが、「後で入ります」と言ってきた。

 だから、僕はききょうと一緒に入った。

 ききょうは嬉しそうだった。

 僕が頭や躰を洗っているときは、隣に座らせた。

 髭を剃るときは、折たたみナイフに注意した。

 髭を剃った後に、風呂に浸かった。

 脱衣所では、ききょうをバスタオルで拭き、タオルをおむつ代わりにし、おむつカバーをした。そして夜用の着物を着せて、僕は浴衣を着て湯屋から出た。

 ききょうを寝室に連れて行くと、湯屋に戻り、おむつを井戸場で洗い、干し竿にかけた。その後で、ききょうと少し遊んだ。

 

 風車が風呂から出てくると、夕餉になった。

 風車はご飯を食べながら、溜息ばかりついていた。

「そんなに良かったんですか」と僕はつい訊いてしまった。

「おなごがあんな風だったとは思いませんでした」と答えた。

「良くしてくれたんですね」

「ええ。良くしてくれました」

 そう言って、食べ終わると、「ごちそうさまでした」と言って、離れに行った。

 そんな風車を見送りながら、「明日、吉原に行くな」と僕は呟いていた。

 

 夕餉の片付けが終わったきくが寝室にやってくると、「風車様は元気がありませんでしたね」と言った。

「しょうがないさ。吉原は楽しかったんだろう」と言った。

「あなたが行っては嫌ですよ」

「私は行かないよ。強いて言えば、お金を届けるだけだ」と言った。

 きくを抱いた後、眠った。

 

 夜中に起き、時を止めて、奥座敷に行くと、女が座っていた。

「待っていましたわ」と言った。

「そうか」

 風車の話をした。

「風車様はお寂しいのでしょう。わたしと同様に」と言った。

 

 次の日、朝から風車はそわそわとしていた。

 昼餉を食べると、すぐに離れに向かった。

 そして、着替えてきた。

「これから浅草に行ってきます。しばらく帰らないと思います」と言った。吉原ではなく、浅草と言ったのは、きくがいたからだった。

「そうですか。気の済むようにされればいいでしょう」と僕は言った。こういうことは理屈ではなかったからだ。

「では」と言って、風車は一番いい着物を着て出かけていった。

 後ろから「スリにはご用心を」と僕は言った。

 風車は振り向いて、「わかっています」と答えた。

 玄関の戸を閉めると、寂しくなった。

 

 することがなくなって、僕は作り直した畝にキュウリの種を撒いていった。土作りが十分ではないことは分かっていた。ちゃんとキュウリができる保証はなかった。

 種を植えた後、水を撒いた。

 何かしていなければ、時間が持たなかった。

 

 風車がいなくなって、ききょうと遊ぶ時間が増えた。ききょうは喜んだのに違いない。

 ききょうは、それまできくにまとわりついていたのに、僕にまとわりつくようになった。

 ききょうをおんぶして、風呂焚きの仕方を見せた。何を見ても面白がった。ききょうも火をつけたがったが、それはさせなかった。

 風呂が焚けたら、ききょうと入るつもりだった。

 風呂場では、水鉄砲のやり方を教えて欲しいとせがんだ。しかし、ききょうの手の平では上手くは水鉄砲はできなかった。僕が水鉄砲でききょうを打つと、風呂場をはいはいしながら逃げた。

 そんなききょうを捕まえて、躰を洗った。

 

 風呂から出ると、しばらくききょうと遊んだ。ききょうははいはいができるのだから、鞠のような物があるといいなぁ、と思った。明日、きくと買いに行こうと思った。

 

 寝室で、きくとききょうが寝付くと、時間を止めて、奥座敷に向かった。

「風車様は吉原に行かれたんですね」と言った。

「そうだよ」

「わたしも呉服屋の若旦那に見初められなければ、吉原に行っていたところでした」と言った。

「そうだったのか」

「ええ。お金のない所に育った年頃の女は、身請けされるか、吉原に行くかしかありませんもの。女中になれるのは、幸運な方です」と言った。暗にきくを皮肉っていた。

「でも、女に入れ込むと大変ですよ」とあやめは言った。

「そうだろうな」と僕は言った。

「お金があるうちはいいですけれど」

 風車が大してお金を持っていないことは分かっていた。

「深い仲になって、身請けするにしてもそれなりのお金が必要ですからね」と女は言った。

 女と交じり合って、僕は寝室に戻った。そして、時を動かした。

 

小説「僕が、剣道ですか? 6」

十九
 僕は久しぶりに定国を取り出して、中庭の畑ではないところで素振りをしていた。
 野菜売りがやってきて、きくが何やら買っていたようだった。
 僕は一汗をかくと、井戸から水を桶に汲んで、着物の上半身を脱ぐと手拭いで拭いた。
 その時に、昼餉ができたと、きくが呼びに来た。
 ジャガイモをたくさん買ったようで、ふかした芋に塩をふった物と味噌汁にもジャガイモが入っていた。その時、ふと、僕はポテトチップスが食べたくなった。
 ふかした芋はそれなりに美味しかった。バターで食べたいところだった。
 ききょうは潰したジャガイモを沢山食べた。美味しかったのだろう。

 おやつはトウモロコシを焼いた物が出たが、あまり食欲はなかった。
 そしてやはり、風車は帰ってこなかった。

 風呂を一人で焚き、一人で入った。
 夕餉も寂しかった。
 きくが風呂に入る時、ききょうを先に入れ、僕がききょうを抱き取り、寝室に連れて行った。

 夜になると、女と交わった。僅かな時間だった。
 その時、女は奇妙なことを言った。
「あなたは、今、この家に誰がいるかわかりますか」と訊いたのだ。
「分かるとも、きくとききょうだ」と答えた。
「そうではなく、霊として見えるのではないですか」と女は言った。
「そんな馬鹿な」と言おうとしたが、目を閉じると、寝室に二つの霊が見える。それがきくであり、ききょうであることも分かった。
「どういうことなのだ」
「わたしと交わることでわたしの力が主様にも伝わったのです」と女は言った。
「すると、あやめにも時間を止められるということか」
「そんなことはできませんよ。ただ、一方的にわたしの力の一部を主様が身につけたのです」と言った。

 僕はすぐに寝室に戻り眠った。奇妙な気分だった。目をつぶっても、白いきくとききょうの霊が浮かんできたのだ。もちろん、あやめの霊も見えた。
 あやめは蹲るように奥座敷の屋根裏に丸くなっていた。こんなにも小さくなっているのか、と思った。

 朝、僕を起こすのがききょうの仕事になっていた。
 段々、慣れてきたようで、僕のほっぺたを叩いて笑っていた。
「こいつ」と言って、僕はききょうを擽(くすぐ)った。ききょうは仰け反って笑った。

 朝餉は、海苔の味噌汁に青菜の浅漬けだった。
 青菜の浅漬けには鰹節がかかっていた。
 昨日、鰹節の削り方を教えたのだ。箱のような物の蓋を開けると、カンナを備え付けたような物が出てくる。そこで木を削るのと同じように、鰹節の方から刃の方に向かって削り、ある程度削れたら、箱の下の引出しを引くと、そこに削り節ができている。それだけのことである。
 そうして作った削り節を浅漬けにかけたのだ。庖厨に入れなかった女中は、こんなことも知らなかったのだ。

 朝餉の後は、定国で素振りをした。畑を見ながらしていたが、土をいじる気になれなかった。風車がいれば、一緒にやっていたことだろう。

 昼餉の後になって、風車が帰ってきた。
 照れながら、居間に入ってきた。
「まぁ、風車様。随分と会わなかった気がしますね」ときくが言った。
「いやぁ」と風車は頭をかいた。
「風車様がいないので、京介様が寂しがっていましたよ」ときくが言った。
 確かにそうだった。
「良かったですか」と僕が訊くと、風車はにやけて笑った。
「そうですか。良かったんですね」
 また、風車は頭をかいた。言葉にしようがなかったのだろう。
「離れに行きます」と言って、居間から出て行った。
 眠りに行ったのだろう。
「起きてくるまで、寝かせておいてやろう」と僕はきくに言った。
「はい。でも、朝まで起きていたんでしょうか」
「どうだろう。ただ、疲れているのは確かなようだ」
 僕らの会話はそれだけだった。
 風車が吉原でどう過ごしてきたのかは、風車は言わないだろうし、訊くのは野暮というものだ。
 今は寝かせておいてやるのが一番だった。

 おやつにも起きてこなかった。
 風呂焚きは、僕がした。僕もコツを掴んだので、上手く火がつけられるようになった。
 風呂が焚けた時に、離れの外から声をかけた。
「ええ。一緒に入ります」と風車は言った。
 僕が先に湯屋に行って、頭と躰を洗っている時に、風呂場に風車が入ってきた。
「吉原はどうでしたか」と僕は訊かずにはいられなかった。
「極楽ですよ」と風車は言った。
「ついてくれた遊女がとても優しかったものですから」と続けた。
「そうですか。それは良かった」
「本音を言えば、帰って来るのが、辛かったです」
「へぇー、そんなもんですか」
「そうですよ。でも、先立つ物がなくなったので仕方なく帰って来るしかなかったのです」
「なるほど」
 風車は今は三十両ほど持っている。本当は、五両、遊郭高木屋に支払い、その他に十両、風車に渡しているのだから、風車は十五両、僕に返さなければならない。すると、十五両しかなくなる。三日遊べばなくなるお金だった。だが、風車に貸した十五両は帰って来る気がしなかった。
 それはそれでいいと僕は思っていた。

小説「僕が、剣道ですか? 6」

十八
 船着場に行き、船賃を払い、他の客と一緒に舟に乗った。
 向う岸に着くと舟を降り、川岸に上がった。
 川の向こうは浅草だった。
 吉原は浅草寺の裏手にあった。粋な旦那衆に会った。
 僕は門を潜り、高木屋を探した。見付けると、中に入った。女将が出て来て、上がるように勧めたので、遊びに来たのではないことを告げた。
「どういうことなのです」と訊かれたので、「風車大五郎殿はおられますか」と訊き返した。
「ええ」と言うので、事の次第を話して、いくら借金があるのか訊いた。五両を少し欠ける額だった。その借金を払うと、女将は笑顔になり、風車の居所を教えてくれた。
 裏手で風呂焚きをしているようだった。
 僕は案内されて、風車に会った。
 風車はばつの悪そうな顔をしていた。しかし、「これはこれで楽しいですぞ」とも言った。
 風車に「財布は持っているのですか」と訊くと、懐から財布を出した。中は空だった。
 僕は風車に十両を渡した。
「面目もありません。これは後でお返しします」と風車は言った。
「そんなことは気にしないでいいですよ」と僕は言った。
「そうはいきませんよ」と言って、早速、借金を帰そうと店に向かおうとしたが、僕が止めた。
「借金は払っておきましたから」と言った。
「それじゃあ」と言いかけた風車に、僕は「こんな所で仕事していないで、今日も遊んできたらどうですか」と言った。
 そう言うと何とも言えない嬉しそうな顔をした。
「いいんですか」と言うから、「顔に書いてありますよ」と僕は応えた。
 風車は慌てて顔をこすった。
「きくには、今日も風車殿の分はいらないと伝えておきます」と言った。
「そうですか」と言う風車の腰は、もう浮いていた。
「くれぐれも、もうお金をすられないように」と言うと、「わかってます。こりごりです」と言った。

 風車と別れて、吉原を出ると、船着き場に向かった。
 家に帰ると、風呂を焚く時間を過ぎていた。
 きくが「風車殿はどうされてましたか」と訊かれたが、「夕餉の時に話す。風車殿の分はいらないよ」と言って、湯船に水を汲み、火をつけた。どうしたわけか、今回は上手く火をつけられた。やはり、コツがあったのだ。
 風呂に火をつけると、庖厨ではきくが夕餉の支度をしていたので、ききょうを捜した。ききょうは、寝室で掛け布団をはだけて、眠っていた。
 その隣に僕は横たわった。ききょうのほっぺたをつついたりしていた。そのうち、僕も眠ってしまった。

「夕餉ですよ」ときくに起こされた。ききょうも起きた。
 ききょうを抱いて、居間に向かった。
 きくがご飯をよそいながら、「風車殿はどうされたのですか」と訊いた。きくからご飯をもらうと、懐に風車の手紙をまだ持っていることに気付いて、それをきくに渡した。きくはそれをいったん受け取ったが、すぐに返して「済みません。わたしは文字は読めないんです」と言った。
「そうか」と言うと、手紙の内容を読んで聞かせた。猫小判のところでは、きくは笑い声を上げた。でも、すぐに笑うのを止めて、「それでは京介様は吉原に行ったのですか」と言った。
「行かなければ、風車殿にお金を渡せないだろう」と応えた。
「そうですけれど」ときくの言葉は歯切れが悪い。
「わたしは吉原には興味はないよ」と言った。仮に興味を持ったとしても、性病にはかかりたくはなかった。
 僕がそう言うと、きくは安心したような顔をした。
「手紙の内容はわかりました。それでどうされたのですか」と訊いた。僕は吉原に行って、どうしたのか、風車がどんな風だったのかを話した。
 きくは可笑しそうに聞いていた。
「風車殿らしゅうございますね」と言った。
「そうだな」

 夕餉が終わると、僕は風呂に入るのを忘れていたことを思い出した。風呂は焚きっぱなしだった。
 風呂は水を入れなければ入れないほど熱くなっていた。
「先に洗い物をすればいい」と僕は言った。
「そうですね」ときくは言い、盥を出してきて、風呂の湯を汲んで、洗い物をそこに入れた。水で冷まして何度も洗った。
 洗った物は僕が干し竿に干した。
 おむつは最後に洗った。それも干した。
「今日は久しぶりに一緒に入ろう」ときくに言った。
 きくは嬉しそうな顔を見せた。
 風呂では、僕が水鉄砲をして見せると、ききょうがとても喜んだ。きくも真似てみたが、僕のようには上手くできなかった。手の平が小さかったからだ。

 風呂から上がり、布団に転がった。ききょうを両手、両足で持ち上げた。
「ぶーん。飛行機だ」と言ったが、この時代にはなかったことを忘れていた。
 でも、ききょうは喜んだ。
 きくも甘えてきた。そんなきくを、ききょうを降ろして、抱き締めた。口づけをした。お腹は膨らんでいたが、足をこすりつけてきた。その足を絡めた。
 久しぶりに、きくの中に入った。
 きくは濡れた手拭いを持ってきて拭いた。手拭いを片付けると、抱きついてきた。
「きくはどこまでも一緒ですからね」と言った。

 夜半になった。きくはよく眠っていた。
 時を止めた。
 奥座敷に行くと女が畳に座っていた。
「どうしたんだ」と僕が言うと、「今日はおきく様とされたんですね」と言った。
「当然ではないか。それがどうしたと言うのだ」と僕は言い返した。
「霊には心がないとお思いなのですか」と女は言った。
「そんなことは……」と言いかけて、考えていなかった、とは言えなかった。
 女は僕に抱きついてきて、口づけをした。そして、僕の一物を頬張って立たせると、躰の中に入れた。
「こんなにも、あなたが恋しいのに」と女は言った。そして、僕の頬に涙が伝わった。
 女との交わりはそれだけだった。終わると、女は消えた。

 僕は寝室に戻ると、時を動かした。それほど疲れてはいなかった。しかし、眠気はすぐに襲ってきた。

 朝は、やはりききょうに起こされた。
 ききょうは僕に相手にして欲しかったのだ。
 顔を洗おうとして、少し目を離した時に、ききょうは縁側に出て来て、落ちてしまった。
 手拭いで顔を拭いている時に、ききょうの泣き声が聞こえてきた。
 縁側の下に、横になって泣いていた。
 躰を調べた。手足は骨折している様子はなかった。頭はよく見た。頭は大丈夫のようだった。きくも縁側にやってきた。
「ここから落ちたんだ」と言うと、ききょうを抱き取り、躰を調べた。
「良かった」と言うと、僕の方を向いて、「注意してくださいね」と言った。母親の顔だった。
 僕は頷いた。僕自身ひやりとしていたのだ。
 庭石に頭を打ち付けなくて、良かったと思った。
 タイムパラドックスのことが頭を過った。そんなことで、ききょうは絶対に失わないと思った。タイムパラドックスなんて、もうどうでも良かった。
 ききょうを失ったら、僕はどうにかなってしまう。そう思った。

 風車のいない朝餉が始まった。ききょうは、きくの膝元にいた。
 会話がなかった。
 今日、風車は帰ってくるのだろうか。五両で一日過ごせるのなら、もう一日泊まってくるかも知れなかった。