二十二
翌日、風車は早速、吉原に行った。
十両持っているとしたら、明日も帰ってこないだろう。
きくが「風車様はどうされたのでしょう」と訊いたが、僕は答えられなかった。
畑では、キュウリの芽が苗になり、大きくなっていた。添え木を埋め込んだ。それで午前中は終わった。
昼餉をとり、水撒きをしてから、ききょうと遊んだ。
ききょうは、嬉しがった。自分で鞠を持ち出してきた。
おやつに、きくは「小豆を煮たのですが、どうですか」と煮豆になっている小豆を持ってきた。砂糖の加減は良かった。僕は豆を潰したものを、ききょうに食べさせた。ききょうは美味しそうに食べた。僕が豆を潰す前に食べようとしたほどだった。
「待て待て、ききょう。すぐ潰してやるから」と言って、潰した物を食べさせた。
「明日はこれでおはぎを作りますね」と言った。きくは、水に浸した小豆を見せた。
「今日の分は、今日食べましょう」とも言った。
僕は煮豆の小豆を沢山食べた。ききょうもだった。
おやつの後は定国を使って素振りをした。自分の剣も鈍っている気がしたからだった。
ききょうをおぶっての風呂焚きは何度目だろう。段々、ききょうも火に慣れてきたが、それがかえって心配だった。居間の囲炉裏の火を気にするようになったからだ。いつ、火傷を負うとも限らなかった。そのうち、火の恐ろしさを教える必要がありそうだった。
でも、僕はまだ高校二年生だぞ。その高二生が子どものしつけを考えるなんて、この世は何て不条理なのだろう。そもそも江戸時代にいること自体が不条理か。
ききょうと一緒に風呂に入った。その後はききょうと遊びながら、夕餉を待つだけだった。この生活が永遠に続いたらどうなるのだろう。僕は首を振った。大目付の二宮権左衛門を討ち果たすのだ。そうでなければ、彼の命で死んでいった無数の公儀隠密の魂が浮かばれない。
でも、大目付の二宮権左衛門に近付く方法すらも思い浮かばなかった。第一、相手の顔も知らないのだ。だが、大目付の二宮権左衛門は、僕がこの江戸に来ていることを知れば、気にせずにはいられなくなるだろう。何らかの手を打ってくるのに違いなかった。
そのためには、どんな餌を撒けばいいのだろう。考えても仕方のないことは、ひとまずおくことにしようと思った。
夕餉は焼き茄子と茄子の味噌汁だった。茄子は今、畑で育てているところなので、上手く行けば、そのうち毎日、茄子料理になるかも知れなかった。
ききょうには、茄子の柔らかいところを食べさせた。ききょうは好き嫌いがないところが良かった。僕は子どもの頃は、茄子が駄目だったのだ。もともと嫌いだったということはなかったが、母の田舎から、茄子が大量に送られてきて、毎日、茄子を食べていたからかも知れなかった。
畑の茄子が取れ始めれば、田舎から送られてくるどころではないだろう。ききょうが茄子嫌いにならなければいいが、と思う。
きくとききょうが眠った後に、時間を止めて、奥座敷に行った。
女が待っていた。
「風車様がいないと寂しいのでしょう」と女は言った。
「そんなことはない」と言ったが、女の言うとおりだった。
「明日も帰ってこないのですね」
「私の心を読むなと言ったろう」
「でも、そう思っていることは、心を読まなくてもわかりますわ」と言った。
女の言葉はどこまで信用できるのだろう。
僕は女を抱くと、寝室に戻り、時を動かした。
次の朝、ききょうに起こされた僕は井戸場で顔を洗った。
昨夜、洗ったタオル類を見ると、かなりボロボロになっていた。ききょうのおむつも何とかしなければならないな、と思った。また、新しく生まれてくる子もいるのだ。おむつは何とかしようと思った。
朝餉を済ますと、両国に行った。まず、仕立屋に入り、おむつに適した生地を教えてもらい、布屋に入って木綿を沢山購入すると、仕立屋に行って、できるだけ多くのおむつを作ってくれ、と頼んだ。女将は僕のことを、赤ん坊がいる男やもめだと思ったのに違いなかった。二日後の昼前には来ると伝えて店を出た。
昼餉までには、家に戻った。おむつを買ったことをきくに伝えた。きくもタオルが少なくなってきていたので、どうしようか迷っていたそうだ。自分が裁縫が得意でないことを恥じていた。それは恥じることではない、ときくに言った。誰でも不得意なことはあるものだ。きくは、その年でよくやっていると僕は思っていた。
昼餉は、油で素揚げした茄子を醤油で食べた。その時、両国まで行ったのだから、胡椒を買ってくるんだった、と思った。
昼餉の後は、ききょうがまとわりついてきたが、定国を使って素振りをする方を優先した。風車が道場破りをしたことが気にかかっていたのだ。江戸には、田舎と違い、幾つもの道場がある。道場破りで、一時は凌げるだろう。しかし、それが続けられるとは思えなかった。剣術の腕を磨くための道場破りならともかく、吉原に行くための資金作りとなると、行き詰まるのは目に見えていた。
素振りをしているうちに、勘が戻ってきた。それと同時に定国が唸った。定国も退屈していたのだ。
おやつは、昨日言っていたとおり、おはぎだった。初めて作ったにしては、上手くできていた。ききょうにも少しずつ食べさせた。ききょうは、小豆の餡が好きだった。もっとも小豆の餡は誰でも好きかも知れなかった。
おやつの後も素振りをした。
それから風呂焚きをした。ききょうも連れていた。焚き口に火をつけて、ききょうの手を近づけさせた。火が熱いことを教えたかったからだ。ききょうはすぐに手を引っ込めた。
「なっ、熱いだろう。火は怖いんだぞ」と僕は言ったが、ききょうが理解できるはずもなかった。経験しながら、学んでいくのだ。
風呂は、今日もききょうと入った。明日も、多分、ききょうと入るだろう。
五右衛門風呂にききょうと一緒に入った時、ふと、僕はききょうから手を離してしまった。ききょうは風呂に沈んだ。そして、必死な顔をして、風呂の縁に手をかけて、顔を上げた。そして、息をした。僕はホッとしたと同時に、これも火と同じことなんだな、と思った。
でも意図してやったことではないので「ごめんな」とききょうには謝った。赤ん坊の肌は、風呂の中では特にヌルヌルとしているのだった。
きくとききょうが眠ったので、時を止めて、奥座敷に行った。
「風車はどうしているだろう」と呟くと、「京介様の頭の中は、おきく様とききょう様と風車様だけですのね」と言った。
「わたしのことなど、どこにも入り込めないんですね」と続けた。
「そんなことはないが、そう思わせたとしたら、済まなかった」と僕は言った。実際、あやめのことは、夜にならなければ思い出せないほどに、時に忘れていた。
僕はあやめを優しく抱き、それから寝室に戻った。
そして、時を動かした。