小説「僕が、剣道ですか? 6」

十七
 昼餉が済むと、明らかに風車はそわそわしていた。
「どうしたのかしら、風車殿はあまり食べませんでしたね」ときくが言った。いつもなら、大盛りのご飯をお代わりするのに、今日は普通に盛ってもらうように言い、お代わりをすることはなかった。
 吉原のことで胸がいっぱいなのだろう。そそくさと離れに行った。
「気もそぞろとはああいうことを言うのだな」と僕が呟くと、きくが「何のことですか」と訊くので、「いや、独り言だ」と答えた。
 風車が江戸に行きたいと言っていた理由の一つは、吉原に行くことだったのではないか、と思えてきた。でも、僕にはどうでも良いことだった。

 風車は風呂を早く焚きつけた。風呂に入って、吉原に行こうと思っているのだ。
 風呂が沸き上がると、「先に入ってもいいですか」と訊くので「どうぞ」と答えた。
 風車の風呂はいつもより長かった。出て来た時には、肌はつやつやとしていた。
 普段は三十歳よりも老けて見えるが、肌の張りを見ると、二十代だということが改めて感じられた。
 おやつの時間になったので、きくが饅頭を風車に勧めると、「いや、拙者は結構です」と言った。
 浴衣から、余所行きに着替えた風車はそれなりに見えた。
「お金はいくら持っていくんですか」と訊くと、風車は懐から財布を出して、「ここに十両入っています」と言った。
「そんなにかかるんですか」
「場合によるそうですが、結構かかるようですよ」と風車は言った。どこかから聞いてきた情報によるものだろう。吉原はピンからキリまであるから、金は使い方次第だった。十両もあれば、それなりに遊んで来られるだろうと思った。
「すられないように気をつけてくださいね」と言うと、「それは大丈夫です」と風車は言った。
「では」と言って、家から出て行った。
「風車様はどこかに行かれるのですか」ときくが訊いたが、まさか吉原に行くとは言えなかった。
「さぁ、どこだろう。でも、今夜は帰ってこないと思うよ」と言った。
「まぁ、じゃあ、どこかに泊まられるんですか」ときくが訊くから「そうだと思う」とだけ答えた。それにしても、きくは鈍感だなと思った。

 僕も風呂に入って、夕餉になり、風車がいないと急に寂しい食卓になった。風車がいるときは、騒々しいと思っていたが、そうではなかったのだ。
 親子三人の静かな夕餉をおくった。
 夕餉の後は、ききょうと遊んだ。ききょうを抱き上げると結構、重かった。このききょうをおぶっていたきくは、さぞや大変だったろう、と思った。きくも現代なら中学三年になったばかりの躰なのだ。それも江戸時代のことだから、大して大きな躰ではなかった。現代なら、小学六年生でもきくより大きな子は沢山いるだろう。
 それに比して、ききょうの成長は早かった。おそらく、今のきくの年になるより何年か早く、きくの背を追い越すだろう。
 ききょうは、はいはいをして追われるのが好きだった。僕が後ろから追っていくと、一生懸命に逃げる。それが意外に早いのだ。ききょうを捕まえると、抱きかかえて、畳を転がる。その間に僕の手をすり抜けて、また、はいはいをする。その繰り返しだった。
 きくが夕餉の洗い物を終えると、ききょうを迎えに来た。風呂に入るためだった。
 きくは風呂に入りながら、洗濯もする。洗いきれない物は翌朝、洗う。ききょうの汚れたおむつは風呂に入っているときに洗い、夜、掛け竿に干しておく。普段着が汚れたときもそうだった。

 きくが風呂に入っている時、僕はすることがなかった。いつもなら、風車がいて、碁でもしているところだろうが。今、風車はどうしているだろうか。気になったが、考えてもしようがなかった。

 夜になった。
 きくはききょうを寝かせると眠った。
 僕は、時を止めて、奥座敷に行くと、女がいた。
「今日は、風車様はどうされたのですか」と訊かれた。
「分かるのか」
「この家のことなら、わかります」
「風車は今夜は吉原で遊んでいるか、遊女と眠っている頃だろう」と言った。
「吉原に行かれたのですか」と女は訊いた。僕に訊いたものだと思った。
「私は行っていない」とすぐに答えた。
「それはわかっています」と女は言った。
「そうか」
 それから、女と交わり、ほどなく、寝室に戻った。

 朝が来た。昨日と同じように、ききょうに起こされた。ききょうは、その小さな手を僕の頬に置いていた。何が面白いのか、笑っていた。
「おはよう」とききょうに言った。言葉は通じなくても、そのうち分かるだろう。
 ききょうを抱っこして、居間に行くと、きくが朝餉の準備をしていた。
「おはよう」と言うと「おはようございます」と返ってきた。
 やはり、風車は昨日は吉原に泊まってきたのだ。分かっていたが、風車の席が空いているのが、寂しかった。
 きくは出汁の取り方も上手くなっていた。豆腐とネギの味噌汁だったが、昆布の出汁が効いていた。
「美味しい」と言うと、きくは「そうですか」と嬉しそうに応えた。
「今度は、鰹で出汁を取ってみてくれないか」と言った。僕は鰹出汁の方が好きだったのだ。
 きくは、棚から鰹節と小箱を出してきて、「これで鰹節を削るようなんですが、どうすれば良いのかわかりません」と言った。
「そんなことか。後で教えてやる」と僕は言った。乾物屋で鰹節とそれを削る道具を買ったものの、その使い方まで教わらなかったのだろう。乾物屋もきくが鰹節の削り方を知らないとは思わなかったのに違いない。
 出汁を取った昆布は、佃煮にしていた。

 朝餉が済むとすることがなかった。風車の不在は大きかった。
 結局、ききょうと遊ぶしかなかった。その方がきくには良かったのだろう。洗い物が進んだからだった。

 午前中は退屈だった。
 昼餉にも風車は返ってこなかった。
 しかたなく、ききょうと遊んだ。ききょうは喜んだ。
 そのうちに門を叩く音がし、僕の名字を呼んだので、出て行き、横の戸口を開くと小僧が、表書きに「鏡京介殿」と書かれた風車の文字の手紙を差し出した。小僧を待たせて、巾着を持ってくると、駄賃を与えて、手紙を受け取った。
 戸を閉めて、手紙を広げると、次のようなことが書かれていた。
『鏡京介殿へ
 突然の手紙に驚きのことと思います。
 面目次第もありません。財布をすられて、中身を猫小判に入れ替えられました。
 遊郭を出ようと支払を済ませようとした時に、猫が描かれた小判が出て来たのです。仕方なく、いまだ遊郭を出られずにいます。つきましては、支払をするべく金子がいります。後でお返ししますので、取りあえず五両、お貸しください。
 遊郭はわたしの故郷を思い出して、高木屋という所に入りました。今、そこにいます。
 よろしくお願いします。
 風車大五郎』
 僕は手紙を読んで、笑ってしまった。風車が支払をしようとして、猫小判を出した時が目の前に浮かんでくるようだった。さぞや、驚いたことだろう。
 僕はおやつの用意をしようとしていたきくに「おやつはいらない。浅草に行ってくる」と言った。
「これから、浅草にですか」ときくは訊いた。
「そうだ」と答えた。
 心配そうにしているきくに、「すぐ帰って来る」と言った。風車に誘われて、吉原に行くとでも思ったのだろう。
「本当に帰っていらっしゃるんですね」
「ああ」
 僕は着替えると、巾着を懐に入れて、家を出た。きくが戸締まりをした。

 

小説「僕が、剣道ですか? 6」

十六
 風呂に入る時間まで、僕は眠っていた。
 きくから渡された浴衣を見た。御札は貼ってなかった。きくはもう幽霊は切れられたものだと信じ切っていたようだった。
 風呂場では、風車は機嫌が良かった。躰を洗いながら、故郷の歌を歌っていた。
「故郷はどこですか」と尋ねたら、「高木藩(「僕が、剣道ですか? 4」参照)です」と答えた。若鷺藩から白鶴藩に戻る時に通過した藩だった。世の中は狭いものだと思った。
「明日、少し早めに風呂を焚いて良いですか」と風車が訊くので、「構いませんよ」と答えたついでに、「風車殿が先にお入りください」と言った。
「良いのですか」と言うので、「吉原に行くんでしょう」と答えたら、びっくりした顔になった。
「どうしてわかったんですか」と風車が言うので、「早めに風呂に入りたいと言えば、それしかないじゃあありませんか」と答えた。そして、「この間、浅草に行った折に何か聞いてきたのですね」と続けた。
「そういうわけでは……」と風車は言ったが、何か聞いてきたのに違いなかった。吉原への行き方や遊びの作法でも、教わってきたのだろう。刀を鍛えるのには時間がかかる。浅草にいて、何もすることがない風車が何をしていたかは、手に取るように分かった。
「明日の晩は、当然、吉原に泊まってくるんでしょうね」と僕が尋ねると、「そういうことになりますかな」と応えた。
「でも、今日のところは、おきくさんには内緒ですよ」と風車が言った。
「分かりました」と応えたが、明日になれば、分かることなのにと思うと可笑しくなった。

 夕餉をとり終えると、「一局どうですか」と風車が訊いてきた。
「いいですよ」と答えた。いつもの風車らしかった。
 奥座敷で打った。
 二子局で、終盤まで僕が良かった。最後の所で、寄せで損をした。その分負けた。二目差だった。
 もう一局することになった。どこかで、あやめが見ているかも知れないと思った。
 今度は僕が勝った。五目差だった。
 当然、風車は「もう一局」と言ってきた。僕は受けて立った。僕らの碁は早かった。相手が打てばすぐ打つといった感じだった。だがら、一局にそんなに時間はかからなかったのだ。
 その局に三目差で勝つと、きくが風呂から上がってきた。
 ききょうを抱いて、奥座敷に入ってきた。
「髪をとかすので抱いててくれますか」と言うので、ききょうを受け取った。ききょうは温かかった。
「拙者はこれで失礼します」と風車は言って、碁盤を床の間に置くと、離れに向かった。
 きくに「寝室に行こう」と言い、行灯の火を消した。

 寝室では、ききょうを真ん中にして布団に横たわった。
 しばらく、きくは僕の顔を見ていた。
「どうした」と訊くと、「わたしには京介様がすべてです。幽霊から京介様を取り戻せて良かったです」と答えた。それを聞いて、僕の胸はずきりと痛んだ。
 きくが行灯の火を消して、布団に横になった。
 しばらくして、きくが深い眠りに入った。
 僕は念のために時間を止めた。
 そして、廊下に出て、奥座敷に向かった。
 奥座敷の障子戸を開けても、あやめの姿は見えなかった。
 僕は「あやめ」と呼んだ。
 その時、座敷の中央がぼうと明るくなって、白い着物を着たあやめが姿を現した。そして、すぐに僕に抱きついてきた。
 その躰は震えていた。
「怖かったです」
 女はか細い声でそう言った。
「そうか」
「はい。わたしは刀から逃れて、座敷の奥に消えることができましたが、その時、あなた様を見たのですが、消えていくのです。どうされたんだろうと思いました」
「御札を背中に貼られたのだ」と僕は言った。
「そうでしたか」
「ああ。あの御札にそんな力があるとは思いもよらなかった」と言った。これは本音だった。
「でも、ようございました。こうして、またあなた様に会うことができたのですから」と女は言った。
「わたしはあなたに助けてもらいました。もうあなたなしでは生きてはいけません。あなたはわたしのあるじ様になられました。これからは、あなた様のことを主様(ぬしさま)とお呼びしても構いませんか」と続けた。
「それは構わないが、主様か。少し大仰だな」
「そんなことはありません。そのうち、慣れますわ」と女は言った。
「そういうものか」
 女は躰を寄せて来て、「わたしを抱いてください」と言った。
「それは構わないが、あまり時間をかけられないよ。今は時間を止めているからね」
「わかっております。主様が時を止められているときには、躰から精力がその分、減っていきますから」
「そうか。私の精力が減っていくのが分かるのか」
「わかりますとも」と女は言った。
「だったら、急ごう」
「はい」

 女との逢瀬は半刻ほどだった。
 女は最後に口づけをすると、座敷の奥に消えた。
 僕は寝室に戻り布団に入ると、時を動かした。
 疲労感は少なかったが、すぐに眠りについた。

 朝はききょうに起こされた。笑いながら、その躰を僕の上に押しつけてきた。
 僕はききょうのほっぺたを触りながら、布団から起き上がった。
 庖厨からは味噌汁の匂いが漂ってきた。
 僕は手ぬぐいを持つと井戸場に行った。風車が顔を洗っていた。
「おはようございます。いい天気ですね」と僕が言うと、顔を拭った風車が挨拶を返してきて、「本当に」と言った。
「決行には良い日ですね」と僕が言うと、風車は僕の浴衣の袖を引いて「それは内緒の話ですぞ」と言った。
「分かっていますとも」と僕は言ったが、今日、風車が帰ってこなければ、きくが気付かないはずがないだろう、と思うと笑いをかみ殺すのに苦労した。

 朝餉が済むと、風車はさっさと離れに向かった。
 吉原のことで、碁のことは頭になかったのだろう。どうせ、一番いい着物で行くのだから、着物を選ぶこともあるまいが、まだ、朝だというのに、夜のことに思いを馳せている。そんな風車が憎めなかった。

 僕は寝室でききょうをはいはいさせて遊んだ。ききょうのはいはいは素早かった。ちょっと目を離すと、そこにはいなかった。支えれば立てるようにもなった。こうして、子どもは大きくなっていくんだと、思った。
 哺乳瓶を取り出して、温度を確認して、白湯を飲ませた。その時、歯が生えていることに気付いた。前歯が白く小さく見えた。凄い勢いで、冷めた白湯を飲んでいた。

 

小説「僕が、剣道ですか? 6」

十五
 昼餉にききょうのお粥を作っているつもりだった。そのお粥に卵を落として、ききょうの分を取り分けた後で、醤油で味付けしたら美味しかったので、僕も食べた。ききょうも取り分けた分は沢山食べた。少しだけ、僕の分も混ぜて食べさせた。
 昼餉をとらせると、寝室に行き布団を敷いて、ききょうを寝かせ付けていたが、そのうち僕も眠ってしまった。
 浅草から戻ってきた、きくに起こされた。
「よく眠っていらしたわ」と言った。
 僕は起き上がると、「ききょうは」と訊いた。訊くまでもなかった。きくが「隣でよく眠っていますわ」と言うように、隣で眠っていた。
「浅草は賑やかだったろう」
「はい」
「風車殿はどうされたんだ」
「鍛冶屋に寄ってくるとかで、船着き場まで送ってもらい別れました」
「一人で舟に乗って怖くはなかったか」
「いいえ」
「そうか」
「後で、買ってきた饅頭を食べましょうね」
「そうしよう」
 風車は鍛冶屋で刀を鍛えてもらっているのだろう。江戸のことだ。仕事は早いだろう。そうすれば、今夜が山場だな、と思った。

 風呂を焚く時間にも風車は戻ってこなかった。僕が風呂に火をつけるしかなかったが、風車のように上手くつけられなかった。庖厨の竈から火のついた炭を持ってきて、ようやく風呂の釜に火をつけることができた。
 風呂が沸いた頃に、風車は戻ってきた。
「今、風呂が焚けたところです。一緒に入りましょう」と僕が言うと、「わかりました」と言った。
 風呂では、いつも饒舌な風車の言葉が少なかった。気を高めているのだろう。それは夕餉の時も同じだった。

 夕餉が終わると、風車はすぐに離れに行った。
「一局やりましょう」と言わなかったのは、珍しかった。
 僕はききょうを抱いて、寝室に向かい、布団を敷いた。布団の上で、ききょうにはいはいをさせて遊んだ。
 きくは洗い物をしているのだろう。
 妙に張り詰めた時間が流れていた。
 ききょうは何度もはいはいをして疲れてきたのだろう。座らせようとすると、目を閉じて転びそうになる。そのまま、布団に横にして、抱き上げて真ん中に寝かせた。
 僕もその隣に横になり、ききょうの寝顔を見ていた。
 そのうちに眠くなり、布団を掛けて眠った。
 いつ、きくが布団に入ったのかは知らなかった。冷気が漂ってきて、目覚めた時には、布団の中に僕はいた。
 きくはよく眠っているようだった。
 布団から出て、障子戸をそっと開け廊下に出ると、女がいた。すぐに手を引かれた。女に従って、そのまま奥座敷に入って行った。
 女が抱きついてきた。
 僕もその躰を抱き締めた。そして、そのまま畳に崩れるように横たわった。
 女の唇が僕の唇と重なった。
 女の舌が入ってきた。痺れるような感覚に囚われた。
 その時、奥座敷の障子戸が開いた。
 驚いて、そちらを見ると、きくと風車がいた。風車は鞘から刀を抜いていた。
 女は僕の後ろに隠れた。
 きくが叫んだ。
「京介様、幽霊からお離れください」
 僕はどうすることもできずにいた。
 きくは奥座敷に入ってこようとした。その時、よろめいた。転びそうになった。僕は咄嗟にきくに向かい、その躰を抱き取った。
 その瞬間、風車の刀は振り降ろされた。
 女の霊は、叫び声を上げて消えた。
 僕はきくを抱き取った時に、きくに背中に御札を貼られた。その瞬間に、金縛りにあったような感じになった。と同時に意識がなくなっていった。
 なくなる意識の中で「幽霊を切りましたぞ」と言う風車の声を聞いた。

 次の日、僕は遅くまで眠っていた。
「もう、お昼ですよ」ときくに言われて、僕は起きた。その躰をきくが抱き締めた。
「ようございました。京介様がご無事で」ときくは言った。
 僕は起き上がると、浴衣から着物に着替えた。そして、井戸場まで行き、顔を洗った。
 居間に入ると、昼餉の用意がされていた。
 僕が座ると、風車が上機嫌で「よく眠れましたか」と訊いた。僕は黙って頷いた。
「そうですか。それは良かった」と言った後、豪快に笑った。
「朝餉を食べていないのだから、お腹が空いたでしょう」と、きくが大盛りのお茶碗を僕に差し出した。
 僕はそれを受け取ると、箸を付けた。
「昨晩のことは、覚えていないのですか」と風車が訊いた。
「昨日、何かありましたか」と僕は訊き返した。すると、風車が昨日あった出来事を話そうとした。その時、きくが「風車殿」と言って止めた。
 僕はご飯を口に運んだ。
 ご飯を頬張りながら、昨日あったことを僕は思い出していた。

 奥座敷に、僕は女と横たわっていた。そして口づけをしていた。
 その時、奥座敷の障子戸が開いたのだった。僕が首を向けると、まずきくが見え、そのすぐ後ろに風車がいた。風車は抜き身の刀を手にしていた。左手に鞘を持っていた。
 女は驚き、僕の後ろに身を隠した。そんなことをしても隠しきれるものではなかった。
「京介様、幽霊からお離れください」と言うきくの声がした。風車は一歩、座敷内に入り込んでいた。僕がどけば女の霊を切るのは、明白だった。そのために、浅草寺に行き、刀を浄め、その帰りに刀を鍛え直してきたのだろう。風車の持っている刀なら、霊は切れる。
 僕は時間を止めた。考える時が欲しかった。
 女を見た。怯えていた。
「大丈夫だ。あやめを切らせることはしない」と僕は言った。そして、女に、風車が刀を振り上げるまで待てと言った。怖いだろうが、そうしろと言った。そして、振り下ろされる時、僕が時間を止めるから、その直前に叫び声を上げて、消えるんだと言った。そして、あやめが消えたことを確認したら、刀が振り下ろされる時に、時を動かす。
 そうすれば、風車は幽霊を切ったと思うに違いない。そして、きくもそう思うだろう。
 僕はその後で、女が切られていないか、確かめるつもりだった。しかし、誤算があった。きくを抱き取った時、僕は御札を背中に貼られてしまった。それで、時を止めることができなくなった。女が切られていないか、確認することができなくなったのだ。
 きくは奥座敷に入ってこようとした時、よろめき、転びそうになったのは、僕を女から引き離すためだけでなく、僕の背中に御札を貼るためだったのだ。
 風車の刀が振り下ろされた瞬間は、まだ御札は僕の背中に貼られていなかった。その僅かな間に、僕は時を止め、風車の刀から女を逃がした。その時、女は叫び声を上げて、闇に消えていった。
 時を動かすと、きくを抱き取った僕は、きくから背中に御札を貼られた。もう、僕はどうすることもできなくなっていた。全身の力が抜けていくのが分かった。と、同時に意識が薄らいでいった。その中で「幽霊を切りましたぞ」と言う風車の声を聞いたのだった。
 女が逃げた後だと知っていた僕は、そのまま意識を失った。

 昼餉を食べ終わると、僕はきくに「もう一眠りする」と言って、着物から浴衣に着替えた。

小説「僕が、剣道ですか? 6」

十四
「京介様」と呼ぶ声がした。きくだった。
「朝餉ですよ」と言った。
「今日はいらない。もう少し、眠らせてくれ」と言った。
「わかりました」
 きくは襖を開けて居間に入って行った。
「どうでした」と言う風車の声が聞こえてきた。きくの声が聞こえてこないので、首を左右に振っているのだろう。

 結局、お昼少し前まで眠っていた。
 起きると、風車が「どうしたんですか」と訊いた。
「いや、草刈りの疲れが今頃出て来たんでしょう」と言ったが、苦しい言い訳だということは分かっていた。
「どうです、一局」と風車は言った。
 碁を打つ気分ではなかったが、他にすることもないし、動かなくていいので、「いいですよ」と答えた。
 でも碁は散々だった。前には二子で勝っていたのに、三子でも負けた。碁が頭に入ってこなかったからだ。

 昼餉では、風車に「今日は調子が悪いんですか」と訊かれた。
「いいえ」と答えると、「碁に体調が表れていますよ」と言われた。
「そうなんですか」ときくが心配そうに訊いた。
「ええ。碁を打っていると、相手の調子がわかるんですよ」と風車は答えた。
「それで」ときくは促した。
「今日の鏡殿は、まるでやる気がないようです」と応えた。
「新居に住んで、疲れが出たんでしょう」と僕が言うと、きくは「霊のせいかも知れませんよ」と言った。
 僕は慌てて「そんなことはない」と言った後で、「後で一局打ちましょう。今度は負けませんよ」と風車に言った。霊から、話題を逸らすためだった。
「いいですよ。でも、今日は全部、勝たせてもらいますからね」と風車は言った。

 午後、碁を打っていると汲み取り屋がやってきた。
 この家には三箇所厠があった。
 一つは、居間と離れの間にあり、よく使うところだった。もう一つは湯屋の隣にあった。最後の一つは、奥座敷の奥にあった。来客用のものでめったに使わなかった。
 汲み取り屋が糞尿を汲み取ると、代金を払おうとするので、「いらないよ。それより、定期的に来て欲しい」と言った。汲み取り屋は「わかりました」と言って、頭を下げて行った。
 汲み取り屋が来ると、少し匂いが立ち残ったが、やがて風に流されていった。

 おやつは焼きトウモロコシだった。
 トウモロコシを三つに切って、七輪で焼いたのだった。
 食べてみると、現代の物より、甘くはなかったが、芳ばしくてこれはこれで美味しかった。お茶を飲みながら食べた。
 碁の方は、少し僕の方が形勢が良かった。また、下手な碁を打つと何を言われるか知れないので、慎重に考えて打っていたのだった。
 トウモロコシを食べ終えると、碁に戻った。僕は形勢を良いまま保ち、二子局を五目差で勝った。
 すぐに風車は「もう一局」と言ってきた。
 この碁も負けるわけにはいかなかった、時間はかかったが、何とか気力を持たせて、勝ちきった。
 風車は「もう一局」と言ったが、「風呂焚きをしましょう。今日は早く眠りたいのです」と言った。
「それじゃあ、しょうがありませんね」と風車は言って、僕と一緒に風呂に水を入れ、火をつけるのは、風車がした。
 風呂が沸くまでの間に、庖厨の瓶の水を取り替えた。それから、厠の手水も継ぎ足した。

 風呂では、頭と躰を洗って五右衛門風呂に入ったら、眠りそうになった。風車に声をかけられて、風呂から出て、そのまま脱衣所に行こうとしたので「今日は髭を剃らないんですか」と言われた。僕は慌てて、風呂場に戻り、髭を剃り、かけ湯を頭からかけて、脱衣所に向かった。

 夕餉は早めに済ませて、風車が「一局」と言ったが断って、寝室に向かった。そして布団を敷いて、すぐに眠った。変だと思われたかも知れなかったが、しょうがなかった。

 夜半になって、冷気が漂ってきたが、僕はそれには気付かなかったようだ。女は姿を消したまま、直接僕の顔に手を触れた。それで、僕は起きた。
 きくの方を見ると、深く眠っているようなので、そのまま布団から抜け出した。
 今は疲れているので、時を止めることが面倒だったのだ。
 奥座敷に入ると、抱き合った。そして、そのまま崩れるように畳に横たわった。
 女が唇を寄せて来た。僕はその口を吸った。

 その時だった。障子戸が開いた。きくがいた。
 女の姿も見られた。
「こんなことだと思いましたわ」ときくが言った。
「今日の京介様の様子があまりにも変でしたから」
 女は僕の後ろに隠れた。姿を消せばいいものを忘れていたのだ。
「あなたが幽霊ですね」ときくは女に向かって言った。
 女は答えなかった。その代わりに消えた。
「やはり幽霊がいたんですね。そして、京介様に取り憑いたんですね」ときくは言った。
「二度と京介様には近づけさせませんから」
 きくの言葉には、怒りが籠もっていた。
「ここでは何ですから、寝室に戻りましょう」ときくは言った。
 僕はきくの言うとおりにするしかなかった。

 寝室に戻ると、「明日、風車様と一緒に浅草寺に行って御札をもらってきます」と言った。
「京介様は忘れたと思いますが、妖刀の話(「僕が、剣道ですか? 2」参照)は、聞きました」と続けた。
 妖刀を清めた刀で切った話はしたが、そんなに簡単にあの霊を切れるものではないと思った。が、そう思わせておいた方が良いと考え、僕は何も言わなかった。
 僕は眠気に襲われた。
「眠るがいいか」と訊くと、「どうぞ」と言われたので、そのまま眠った。

 朝はすっきりと起きられた。昨日はあまり力を使わなかったためだろう。
 朝餉の後、風車が中庭で珍しく真剣で素振りをしていた。
「いやぁ、腕がなまっているのではと思い……」と言った。
「どうして、どうして。見事な素振りでしたよ」と僕は言った。
「この先の大川に、渡し場があるんですよ」
「ほう」
「その向こう岸は、浅草の近くです。今日、おきくさんと浅草寺に行くことになっていまして」と言った。
 幽霊を切るために、風車の刀を清めに行くことは分かった。それで僕に内緒にしていたのだ。しかし、そんなことは知らない風車はべらべらとしゃべった。
「幽霊が出たそうじゃないですか」
「そうらしいですね」
「鏡殿は見なかったのですか」
「私には見えませんでした」と嘘を言った。
「そうですか。昨日の鏡殿の様子が変だったので、おきくさんの話を聞いて納得したのです。それで、拙者が幽霊を切ることになりました」と風車は言った。
「幽霊って、切れるんですか」と僕が訊くと、「拙者も切ったことがないのでわかりませんが、鏡殿は切ったことがあるそうですね」と言った。
「あれは幽霊ではなく、妖刀でした。でも、似たようなものかも知れません」
「その時、どうされたのですか」
「刀を清めました。そして、その刀で切りました。その話をきくにしていたのですね」と僕は言った。
「それでですか、浅草寺に行きましょうと言ったのは」と風車は言った。
「私に隠して行くつもりだったのに、風車殿がしゃべってしまいましたね」と僕は言って笑った。
「これは不覚でした。そういうことでしたか。だったら、聞かなかったことにしておいてください」と風車は言った。
「分かりました」と僕は応えた。

 出かける時、「どうせ浅草に行くのだ。昼餉は美味い物を食べてくるんだぞ」と言って、巾着を渡した。
「京介様はどうされるつもりですか」ときくは訊いた。
「私は梅干しで茶漬けを食べるさ」と答えた。
「それではあまりではありませんか」ときくが言った。
「私は梅干しの茶漬けが好きなんだ」と言った。
「そうでしたの。知りませんでした」ときくが言った。
 でまかせも効かないのか、と思った。
「とにかく行っておいで。心配ないと思うが、舟だから、気をつけて」と僕は言った。
「わかっています」ときくは応えた。
「ききょうの面倒はちゃんと見る」と僕は言った。
「昼餉にお粥を食べさせてくださいね」
「ああ」
「じゃあ、行ってきます」と言って、きくは風車と一緒に家を出て行った。

 二人がいなくなった家の奥座敷に、ききょうを抱いて向かうと「あやめ」と呼んだ。しかし、返事はなかった。昼間は出てこられないのかも知れなかった。

小説「僕が、剣道ですか? 6」

十三
 風呂では、風車の機嫌が悪かった。僕に負けたのが悔しかったのだ。今日の風車は少し変だった。無理な手ばかり打ってくる。あれでは勝てない。僕も少しは碁に慣れてきたから、無理して生かすか、捨てて他で地を稼ぐか、ぐらいは分かってきていた。だから、一方的な攻めでは潰されなくなっていた。
 二子で戦ったが、どちらも僕が勝ってしまった。三目と五目差だったから、ハンディがなければ、僕が負けていたのは事実だった。しかし、風車との碁の棋力の差は確実に詰まっていた。
 碁をしていて感じるのは、布石の重要さだった。布石は、打たれたときには、その意味が分からないのに、十数手碁が進むと、そこに石がある意味が分かってくる。その石は必要なのだ。僕は手が分からなくなると、無闇に石を打っているが、風車はそうではなかった。石に意味を持たせるように打っているのだ。
 今日は調子が悪かったが、明日はまた別の風車がいることだろう。

 夕餉には、七輪で焼いた鰺の干物が出た。醤油を少し垂らして食べると、凄く美味しかった。ききょうにも骨をとったところを食べさせた。ききょうにもそのおいしさが分かったのだろう。もっともっとと言うように口を開けた。その口に、骨を除いた鰺を入れた。
 きくはご飯の炊き方には慣れてきたようだった。炊き具合が良かった。僕と風車が同時に空になった茶碗をきくに出すと、風車はそっと引っ込めた。居候している気分があったのだろう。僕は風車に分からないように笑った。
 きくは僕の茶碗にご飯をよそうと、風車の茶碗を受け取って、ご飯を盛った。
 煮売屋では、この前とは違う煮物を買ってきていた。その作り方も教えてもらってきたのだろう。近く同じメニューが出て来そうな気がした。
 海苔の佃煮は、現代では瓶に入っていた物しか食べていなかったが、瀬戸物の小鉢に盛られると、別の風格があった。味は濃いめだった。その分、ご飯が進んだ。

 寝る時間が来ると女の顔がちらついた。
 ききょうがなかなか寝付かなかった。きくは起きては、あやしていた。
 時が砂時計の砂のように落ちていく気がした。
 女は障子戸の向こうにいる。そこで静かに立っていた。今宵は新月だった。女は月明かりに身を焦がすこともないだろう。しかし、時の流れには、身を焦がしていたことだろう。
 やっと、ききょうが寝付き、きくが布団に躰を横たえた。
 すぐに起き出すわけにはいかなかった。きくはまだ眠ってはいなかった。きくはなかなか眠らなかった。何度も寝返りを打った。しかし、そのうちに眠りに落ちたので、僕は時を止めて、布団から抜け出した。
 障子戸を開けると、女が僕の手を取った。障子戸を閉めると、奥座敷に引っ張るように連れて行った。そして、女は僕に抱きついてきた。
 唇を重ねた。そのまま、ゆっくりと畳に崩れていった。
 僕は時を動かした。すると、「京介様」と言う声が聞こえた気がした。きくが寝言でも言っているのだろう。時を止めざるを得なかった。
「大丈夫ですか」と女が耳元で囁いた。
「ああ」
「そうですか」と言いながら、女は着物をはだけた。乳房が見えた。そして、僕の手をその乳房に誘った。
 柔らかかった。
 そして、女は口づけをしてきた。指は乳首を探り当てていた。乳首は立っていた。
畳に仰向けになると、女が覆い被さってきた。そして、足を絡めてきた。
 幽霊には足がないというのは、嘘だったんだな、と僕はどこかで思っていた。
 女の太腿も柔らかかった。足の甲と甲とが重なり合い、そして、離れた。
 その時、腰を押しつけてきた。僕は女のすることに身を任せた。
 女の中に入っていくのが分かった。
 女は声を立てた。細い絹糸を弾いていくかのような声だった。それはこれまで聞いたこともないようなものだった。
 僕が腰を動かすと、女は嬉しそうにしながら、唇を首筋に這わせた。
 そして、着ている物をすべて脱いだ。僕の浴衣も脱がせた。トランクスは足元に絡まっていた。
 くるりと反転して、僕が上になった。
 女の足を広げさせ、その間に腰を落とした。女の中に、より深く入っていった。
 女は顔をのけぞらせた。白い喉が露わになった。そこに唇を付けて吸った。その部分が赤くなった。女の喉を吸うと、甘い蜜でも吸っているような感じがした。
「もっと吸って」と女が掠れた声で言った。
 僕はそうした。
 女の腕が背中に巻き付いた。女の乳房が僕の胸で潰れた。
 女は腕だけでなく、足も巻き付けた。僕はより深く女の中に入っていった。
 女の躰が震えるのが分かった。その震えは、しばらく続いたが止まると、女が腰を動かしてきた。
 僕は我慢しきれなくなった。女の中に放出した。そして、ぐったりと女の躰に身を預けた。躰中が疲れていた。まるで精気を吸い取られたみたいだった。
 僕は一息つくと、「まさか僕の精気を吸い取っているんじゃないんだろうね」と言った。
 女は僕の目を見て「そんなことするはずがないじゃありませんか」と言った。その目に嘘は感じられなかった。
 では、どうして……と思った時、時間を止め続けていたことに気がついた。
 時を動かした。
 躰から緊張がほぐれていくのが分かった。
 女と抱き合っていたので、時間を止め続けていたことにすら、気付かなかったのだ。
 だが、それで僕はひどく疲れてしまった。
「時を止めるということは、それほど疲れるものなのですか」と女が訊いた。
「ああ」と答えるのが精一杯だった。
 立ち上がろうとして、尻餅をついてしまった。
 女が着物を着た。僕もトランクスを穿き直し、浴衣を着た。
 女の肩を借りて、立ち上がった。
 奥座敷を出て、廊下を歩き、寝室の前で女の肩から腕を外した。
 女は心配そうな顔をして、消えていった。
 僕は障子戸を開けると、寝室の中に入っていった。
 自分の布団に横たわると、疲れ切った躰はすぐに眠りに落ちていった。

 

小説「僕が、剣道ですか? 6」

十二
 表札を付けた後は、中庭の畑作りをした。土を掘り起こして、木の根や屑を拾い、たい肥を撒いて混ぜた。
 それから四つほど畝作りをして、二つの畝には、茄子の苗を植えた。残りの二つは二週間ほど放置し、キュウリの種を埋めるのだった。
 そのあたりで、風呂を沸かす時間になった。その時、風車が「あっ」と言った。
「どうしたんです」と訊くと「碁盤と碁石を買ってくるのを忘れていました」と言った。
「それなら、明日、買いに行きましょう」と僕が言った。
「そうですね」
 そう言いながら、風車は風呂に火をつけた。これは何度見ても真似ができなかった。

 風呂の後の夕餉は、昨日と変わらなかった。焼き魚がないなと思っていると、七輪がないことに気が付いた。干物を買ってくるにしても、七輪がなくては上手くは焼けない。明日は、碁盤の他に七輪と網を買ってこようと思った。

 寝る時刻になると、自分がそわそわしているのに、僕は気付いた。女を待っているのだ。それが女のまやかしだとしても、それならそれに乗ってみるのも悪くないと思った。
 きくと布団に入り、目を閉じた。すると、目蓋の裏に女の顔が浮かんでくる。
 女がしていることではないことは、分かっていた。
 ききょうが眠った。
 きくの眠りはまだ浅かった。しかし、待てなかった。時間を止めた。
 布団から抜け出すと廊下に出た。すると、そこに女が立っていた。
 すがりつくように僕に寄ってきて、「ここでお待ちしていました」と女は言った。
 僕は女の手を引いて奥座敷に入った。
 そこで時を動かした。
 畳に座ると、女は手を捕まれたまま、僕の胸に顔を埋めた。そして、下から見上げるように僕を見た。
 瞳が濡れていた。
 ゾクゾクするような気分だった。
 僕を見た後で、また胸に顔を埋めた。
 そして、空いている方の手を背中に回した。僕を抱くような形になった。
 女の躰が震えていた。
 僕も女の躰に手を回して、抱き取った。
 ますます、女の躰は震えた。
 どれだけそうしていただろうか。言葉は交わさなかった。こんなとき言葉は不要だった。
 時々、女の「あー」という溜息が漏れてきた。その度に、僕は女を強く抱き締めた。
 僕は畳に寝転がった。
 女は上に覆い被さっていた。
 女の顔がすぐ近くにあった。
 女の口に唇を当てた。女は口を開いた。舌を中に差し入れた。女の舌が絡まってきた。
 痺れるような感じだった。
 女の口を吸った。女も僕の口を吸った。
 どれだけの時間、そうしていただろうか。

「京介様」と呼ぶきくの声に、僕は我に返った。
 女はすぐには消えなかった。
「時を止めてください」と言った。僕は言われるままに時を止めた。
 女がまた口づけをしてきた。僕もそれに応じた。少しの間だった。
 女が口を離すと、「我が儘を申して、申し訳ありませんでした」と言った。
 そして、僕を見ながら消えていった。

 僕は廊下に出た。そして寝室に入り、布団を被った。何度も厠では、かえって怪しまれるだろうと思ったのだ。
 時を動かした。
「そこにいらしたんですか」ときくは言った。そして、横になった。
「京介様がいなくなった夢を見たんですわ、きっと」と言った。
 僕はきくに済まないと心の中で謝った。
 目を閉じると、女の顔が浮かんできたが、時を止めていたせいか、眠気が襲ってきた。その流れで眠った。

「京介様」と呼ぶきくの声に、僕は起きた。正面にきくの顔が見えた。左右を見た。女がいないか確かめたのだ。
「朝餉ができましたよ」ときくは言った。
「そうか、そんな時間だったか」
「ええ。京介様はよく眠っていらしゃいましたわ」
「草刈りの疲れが今頃出て来たのだろう」と僕は年寄りのようなことを言った。
「顔を洗ったら、居間に行く」ときくに言った。
「はい」ときくは応えた。

 井戸場で顔を洗い、居間の卓袱台の前に座った。
 風車はもう座っていた。
「後で、碁盤を買いに行きましょう」と言った。
 僕は「七輪と網も買おうと思っています」と応えた。
「なるほど」と風車が言った。
「干物を買ってきて、焼いて食べれば美味しいでしょう」と僕は言った。
「それはそうですね」と風車も応じた。
 きくは料理が上手く作れないと言われているようで悔しかったのだろう。すぐに「わたしは八百屋と煮売屋に行きます」と言った。

 両国に出ると、蕎麦屋の前に来て、正午にここで落ち合うことにして、きくと別れた。
 碁の店に入ると、風車は幾つもの碁盤を前に、実際に石を打ってみて、その音を確かめていた。僕にはどれも同じに聞こえるが、風車にとっては違っていたのだろう。結構、時間をとって確かめていた。結局、三つぐらいの碁盤に絞って、その間で悩んでいた。しかし、どれかにしなくてはならず、一番厚い碁盤を選んだ。畳の上に直に置いて打つので、その碁盤には台座が付いていた。
 碁盤が決まると、今度は石に迷った。僕には分からなかったが、風車にすれば、一長一短があるらしかった。石を選ぶのにも時間がかかった。
 やっと決まると、風車が代金を払うと言ったのを僕が断り、僕が代金を払い、風呂敷に包んでもらった。後は七輪と網を買うだけだった。これは道具屋に入り、適当な物を選んでもらった。僕に七輪の善し悪しが分かるはずもなかったからだ。網と鉄串も買って、風呂敷に包んでもらい、代金を払った。
 そして、蕎麦屋の前に行った。きくはまだ来ておらず、少し待たされた。
「遅れてすみません」と謝った。いろいろと教わることがあったのだろう。買ってきた物は風呂敷に包まれていた。
 蕎麦屋に入って、つけ蕎麦を三人前頼んだ。
 ききょうには、蕎麦を細かくちぎって食べさせた。ききょうがよく食べるので、もう一枚頼んだ。
 帰りがけに干物屋で鰺の開きを買った。また、菓子屋で羊羹も買った。

 家に帰り着くと、風車が表座敷で風呂敷包みを開けて碁盤を取り出し、僕に向かって「早速、一局やりましょう」と言った。
 これは受けて立つしかなかった。
 三子局だった。
 風車は右上の星の位置の石に攻めかかってきた。僕はこれをかわした。地は少し減らしたが、左上、星に打てたのが大きかった。
 この局は、僕が中押し勝ちになった。
 当然、風車は「もう一局」と言ってきた。
 きくがお茶と羊羹を運んできた。
 風車は羊羹を食べながら、天元に打った。僕は冷静に左上、星に打った。これで四子局で後手が天元に打ったのと同じになった。
 左下隅、三三に打ってきたが、これは小さく生かした。その代わり、左の辺を大きく稼いだ。この局も大差がついた。十五目、僕が勝った。
「今度は二子でいきましょう」と風車は言った。
 またハンディが少なくなった。

小剣「僕が、剣道ですか? 6」

十一
 布団に入っていた。疲れていたが、眠くはなかった。
 ききょうは眠ったが、きくの眠りはまだ浅かった。きくが深い眠りについたところで、奥座敷に行こうと思っていた。
 その時だった。冷気が漂ってきた。女が来たのだ。きくが眠りから覚めるのを止めるには、時を止めるしかなかった。
 僕は時を止めた。その時、女の驚く表情が分かった。時を止めても、霊には関係なかった。それよりも女は僕が時を止められることに驚いたのに違いなかった。
 僕は起き上がると、女の手を掴んで、奥座敷に向かった。
 奥座敷に入って、女の手を離すと、女は座り込んで肩で息をしていた。
 僕は時を動かした。そして、「どうしたんだ」と女に訊くと、「稲妻が躰を駆け抜けていくようでした。わたしの躰は完全に痺れました」と女は答えた。
「そうじゃあなく、どうしてあんな早い時間に来たんだ」と言うと「あなた様を待てなかったのです」と女は言った。
「もう少しすれば、きくは完全に眠ったのに」と言うと、女は「申し訳ありませんでした」と謝った。
「それにしても、あなた様は凄い力をお持ちなのですね」と女は言った。
「時を止めることか」
「はい」
「あの力で、何度も窮地を脱してきた」と僕は言った。
「そうでしょうね。あんな力を持った方を見るのは、初めてでした。だから、驚きました」
「そうだな。これを知ったらみんな驚くだろうな」
「ええ。それにあなた様はこの世の人ではありませんね」と言った。
「と言って、霊でもない。あなた様は何者なのですか」と続けた。
「私は私だ。鏡京介だ」と言った。
「それはわかっています。でも、あなたに触れられた時に、この世の人の肉体を感じなかったのです。あなたはどこか別の場所にいる、そんな感じがしたのです」
「気の迷いだ。現にこうして、お前の前にいるではないか」
「そうなのです。それでわからなくなりました」
「分からないことは、この世の中にいくらもあるさ。これもその一つだ。私にもよくは分からないんだから」
「あなたにもわからないんですか」
「そうだ」
「あなたは、今日は草刈りをしていましたね」
「外に出られないのに、どうして分かるんだ」
「あなたの霊はわたしには見えます。何処にいてもわたしにはわかります」と女は言った。
「そして、何をしているかも」と続けた。
「あーあ、ついに、きくだけじゃなく、霊にも見張られることになったか」と僕はぼやいた。
「本音ではないくせに……」と女は言った。そして、「そんなにわたしは美しいですか」と続けた。
「勝手に人の心の中に入ってくるな」と僕が言うと、「わたしはあなたの心の中には入りません。かまをかけただけです」と言った。
「あーあ、霊のかまにも引っ掛かるようじゃあ、私は駄目だな」と僕は言った。
「あっ、じゃあ、本当に美しく見えるんですね」と女は嬉しそうに言った。
 僕は仕方なく頷いた。
「あなたの精気は、とてもいい香りと味がするんですね」
「私の精気を吸ったのか」
「いいえ、そんなことはとても。でも、手を触れられた時に、感じたのです」
「触っただけで分かるものなのか」
「わかりますとも、霊ですから」と女は得意そうに言った。
 そして「手を繋いでくれますか」と言った。
「いいとも」と僕は言って、女の手を握った。女は目を閉じた。うっとりするような顔になった。そして、時間が過ぎていった。

「京介様」と言うきくの呼ぶ声がした。
 女は慌てて消え、僕は時間を止めて、厠に入った。そして時間を動かし「私はここだ」と言った。
 厠を出ると、桶の水で手を洗い、手ぬぐいで拭って寝室に戻った。
「京介様の姿が見えないと心配になります」ときくは言った。
「そうか。慣れない家なので、目が覚めてしまう。夜の月を見て、帰りに厠に寄ってくる。それだけだ」
「幽霊にたぶらかされているのではないかと思ってしまいました」ときくは言った。
「そんなことはないよ」
「そうだといいんですけれどね」
「もう、寝よう」
 布団に入った。きくには、妙に鋭いところがある。いつまで、だませるのか、自信がなかった。

 次の日も晴れていた。今日の午前中には草刈りは完了するはずだ。
 朝餉を食べると、草刈りの準備をして中庭に出た。昨日刈り残したところから始めた。一時間ほどですべて刈り終わり、後は裏庭だけになった。裏庭は狭かったから、刈る作業はしにくかったが、刈り取る範囲が狭いので、昼前には作業は終わった。
 刈り取った草や薄や小木は、裏庭に全部集めた。
 中庭には広い空き地ができた。ここに畑を作るつもりだった。
 僕と風車は井戸場で手を洗い、僕は長袖のシャツを脱いだ。寝室に行って、着物を取ってくると、脱衣所でジーパンを脱いで手ぬぐいで躰を拭った後、着物を着た。安全靴は草履に履き替えた。
 昼餉を食べ終えると、風車と両国に向かった。まずは表札を作るために、墨と硯と筆と表札自体が必要だった。釘と金槌も買わなければならなかった。
 その後で、畑に植える苗や種を買うことにした。
 道具屋に入って、表札を選んだ。風車は大きい方が良いと言うので、縦長の桐の物を選んだ。その時に、「隣にもわたしのを……」と言って、竹の小ぶりの表札も買うことにした。
 墨や硯、筆はすべて風車に任せた。
 そして、釘と金槌を買うと店を出た。
「野菜の苗や種はどこで手に入れればいいんでしょうね」と僕が訊くと、「八百屋に行けばあるでしょう」と風車が答えた。
 なるほどと思った。実際に、八百屋で野菜の苗や種を手に入れることができた。
 畝の作り方やツタが生えてきたときの添え木の仕方までも教えてくれた。素人でも作りやすい野菜として、キュウリや茄子を勧められた。キュウリはツタが出て来たら、支柱があるとすくすくと育つと言われた。種をまく間隔から、支柱の作り方まで教わった。茄子は今からなら苗の方がいいと言われたので、苗を買った。茄子にも支柱が必要だった。
 キュウリは種を植える二週間前に土を作ることも教わった。たい肥を混ぜるとよく育つと言われ、たい肥も購入した。
 土を掘り起こすのに、踏み鋤があると便利だと教えられ、道具屋に戻って、購入した。
 饅頭屋を見付けたので、饅頭を七つ買った。
「七つもですか」と風車が言うので、「私たちは二つずつ、一つはききょう用です」と言った。
「ききょうちゃんは一つも食べられるんですか」
「残ったら二人で食べましょう」と僕は言った。

 家に戻ったら、道具などは前庭の横にある納屋にしまい、表札や墨、硯などは風車が持ち、僕は饅頭を持って、家の中に入っていった。
 居間に行くと、きくがお茶の用意をしていた。
「そろそろ帰って来る頃だと思っていました」と言った。
 僕は饅頭を出して、出された皿に二つずつ載せた。
「もう一つ皿がいるよ」と言うと、きくは「えっ」と言った。
「ききょうのだよ。ききょうの分も買ってきたんだ」と言った。
「そうですか」ときくは慌てて、もう一枚皿を出した。そこにちょこんと饅頭を一つ載せた。
「さあ、食べよう」

 ききょうは、饅頭を半分ほど食べた。残りは風車が食べた。おやつが終わると、表札作りに取りかかった。
 卓袱台の上を片付けて、硯に水を垂らして墨を擦った。濃い墨が擦れると、懐紙に試し書きし、濃さが決まると、表札に「鏡京介」と一気に書いた。見事な字だった。そして、竹製の小ぶりの表札に「風車大五郎」と書いた。
「さすがにうまいですね」と僕が言うと、「まあまあです」と答えた。
 その表札を持って、門のところに行き、金槌を使って釘で、表札を打ち付けた。
「鏡京介」の隣に、小さく「風車大五郎」という表札が並んで付けられた。
 こうして表札を付けると、ますます自分の家だという実感が湧いてきた。