小説「真理の微笑」

六十八
 次の日は、昨日の新年会の興奮がまだ社内に残っていた。あの後、飲み会に行った者も多かったに違いない。カラオケをやり過ぎて私のようにガラガラの声で挨拶する者もいた。
 社長室に入ると、真理子は「また迎えに来るからね」と言って帰っていった。
 その直後に、高木が来て昨日の出席者名簿を置いた。
「招待状を出したところは、ほとんど来ています」
「そうか」
「『週刊ピーシー』と『月刊ソフトウェア』には、昨日の新年会の記事が載るそうです」
「分かった。ところで由香里の事だが、もうすぐ出産だな」
「そうですね」
「出産したら会社を抜け出すつもりだが、その時は頼む」
「承知しています」
「出産したら、毎月三十万円、彼女の銀行口座に振り込むように手配してくれ。子どもの養育費だ」
「わかりました」と言うと高木は社長室から出て行った。

 十三日が来た。真理子が帰っていくと、さっそく由香里に電話した。
 しばらくして由香里が出た。
「どうなんだ」
 私は気が急いていた。
「まだ、陣痛が来ないの。十分置きぐらいになったら病院に行くつもりだけれど」
「そうか」
「初産だから遅れる事もあるって先生は言っていたわ」
「そういうものなのか」
 それで会話は終わった。
 十四日、十五日は家から電話したが、まだだった。
 私は、自分の子ではないのに心配している私がおかしくなった。何やってるんだろう、と呟いていた。

 十六日も由香里は同じだった。ただ、違っていたのは、迎えにきた時から真理子がそわそわしていた事だった。このところ、何となく落ち着きがないように思っていたのは気のせいだったのか、と思った。私が由香里の事を考えているので、そう思って見えるのかもしれないと思った。
 だが、家に着いても真理子はそわそわしたままだった。
 私は、背中に汗が流れるのを感じた。
「まだ、こないの。遅れているのよ」と言う真理子の声が、いっそう私を凍り付かせた。由香里の陣痛の事を言っているものと思い込んだ。知っていたのか、そう思った。
 車椅子に座りながら私はうなだれた。
「もうきてもいいのに」
 次の言葉が怖かった。
「あれがないの」と真理子が言った。
 私は一瞬、何の事だか分からなかった。
「明日、クリニックに行ってみようかしら」と言った。
 それでも、真理子が何を言っているのか分からなかった。ぼおっと顔を上げている私に、真理子が「あれがこないの」と再び言った。
「なに」と私が言った。
 真理子は「もお」とじれったそうにしながら「生理がないのよ」と言った。
「えっ」
 私は驚いた。そして混乱している頭に少しずつ、真理子の言いたい事が伝わってきた。
「生理がきていないのか」
「そう言っているでしょ」
「それって……」
「わからないわ。今までだって遅れた事はあるから。でも、今度のは……」
 真理子は今までとは違うと言いたかったに違いなかった。

 十七日も由香里に陣痛は来なかった。
 それとはうって変わって、二時間も早く会社に迎えに来た真理子の顔が輝いていた。
 社長室に入ってくるなり、私に抱き付き、「五週目ですって」と言った。
「それって」
「できたのよ、赤ちゃんが」と言うと、真理子は泣き出した。
 さぞ苦しかったんだろうな、と私は思った。不妊治療を続けてまで欲しかった、赤ちゃんをやっと授かったのだ。どれだけ真理子がその瞬間を喜んだか、想像に難くはなかった。
「よかったな」と言うと真理子は泣きながら「うん」と答えた。
「今日は、お祝いしなくちゃ」と言うと、真理子はまたしても「うん」と答えた。
 私は高木を呼んで「今日は早く帰らせてもらう」と言った。高木は泣いた顔の真理子を見て「大丈夫ですか」と声をかけた。
 真理子の代わりに私が「大丈夫だ。心配はいらない。後は任せたよ」と言った。

 家に着くと、再び真理子は抱き付いてきた。
「ああ、嬉しい~。こんなにも、嬉しいものなのね」
 そして、私の顔を起こして、髪を撫でつけながら、「あなたの子よ。あなたの子が産めるの」と言って、また涙を流した。
 私は「ありがとう」と言って、真理子にキスをした。そして、キスをしながら、そうか私の子なんだと改めて思った。真理子が妊娠したのは私の子なのだ。
 その時、祐一を妊娠した時の夏美の顔が浮かんできた。今の真理子と同じように喜んでいた。細い目からいっぱい涙を流していた。私はそんな夏美を抱きしめたのを今でも覚えている。夏美は体育会系の体つきをしていた。筋肉質が堅かった。
 でも、今抱きしめているのは夏美ではなく真理子だった。真理子は女に求め得る最高のボディラインをしていた。豊かな胸、くびれた腰、ちょうどいい大きさのヒップ……。
 私は真理子と濃厚なキスをした。そして、それは長く続いた。

 食卓には、真理子が腕によりをかけた手料理が並んでいた。心持ちサラダ系が多いように感じた。
 早々に食事を済ませると私は入浴して、真理子を待った。
 真理子が浴室から出てきてベッドサイドに来ると、バスローブを開いてお腹を見つめた。
「まだ、大きくはなっていないわよ」
「そりゃ、そうだけど」と言いながら、私は真理子のお腹に耳を当てた。
 真理子のお腹の音が聞こえたが、それが胎児の音であるかのように思えた。
 真理子がベッドに上がると「いいんだろう」と訊いた。
「大丈夫だけれど無茶はしないで」と言った。
「いつ、俺が無茶をした」と言うと、真理子は「いつもでしょ」と言った後、含み笑いをした。真理子がベッドの電気を消した。

 

小説「真理の微笑」

六十七
 新年会は午前十時に始まる。
 私と真理子はその一時間前にホテルの控え室に入った。控え室の中はごった返したようだった。出し物をするグループが隅の方で、最後のチェックを行っていた。
 広報の中山がやってきて、「今日は一生懸命、司会を務めさせていただきます」と言った。私は「頑張ってくれ」と言った。このような新年会は初めてだったから、隣にいる真理子の腕を思わず掴んだ。
「毎年、こうなのか」
「そうよ。もっともわたしは、この慌ただしい控え室ではなくロビーにいたけれど」
「俺もロビーに行きたくなったな」
「あなたが緊張するなんて珍しい」
「珍しいか」
「珍しいわよ。あなた、こういう会を催すの、好きだったでしょ」
 こういうときに、私は富岡じゃないんだ、と叫び出したくなる。私は(株)TKシステムズでは会社経営をしていたが、もともとは社長という柄ではなかった。ソフトを作るのが好きだったのだ。だから、こうした会は極力出なかったし、出たとしても隅の方に座っていた。ましてや、主催する事など想像外だった。しかし、今日は主役だった。

 いよいよ新年会が始まった。私は車椅子を営業の田中に押されながら、壇上に上がった。隣には、真理子と高木がいた。司会の中山は、向こう側のスタンドマイクの前にいた。
「ではこれよりトミーソフト株式会社の新年会を開催します。まずは、代表取締役社長、富岡修より皆様にご挨拶を申し上げます」
 私はマイクを握った。
「明けましておめでとうございます。富岡修です。皆様におきましては、新年早々、お忙しい中、トミーソフト株式会社の新年会に足を運んでいただきありがたく存じます。皆様もお気づきとは思いますが、昨年、私は自動車事故を起こしまして、このように車椅子に座っております事を、また、喉を損傷しましたのでこのような話し方をしております事を、お聞き苦しいかと存じますが、共々ご容赦願いたいと思います。私は一時的に命の危機に陥り、言わば一度失った命を拾ったようなものです。この事故は私にいろいろな事を考えさせてくれました。その結果、大げさに言えば人生観が変わったと言ってもいいと思っています。これまでの私はある意味で自分本位でありましたが、これからは他者に対する気遣いがもっとできればいいと考えております。これからの私をどうぞ見ていて下さい。さて、事故は不運な事でありましたが幸いな事に、トミーソフトは昨年発売したワープロソフトが、皆様のおかげをもちまして五万本を超えるセールスとなりました。ここに御礼を申し上げます。今年は、グラフィックソフトとカード型データベースソフトの発売も予定しています。またユーティリティソフトとしては、文書変換ソフトも発売する予定ですので、よろしくお願い申し上げます。長々と話をしていては、後に余興も控えているようなので、私の挨拶はこれまでとさせていただきます。ご清聴、誠にありがとうございました」
 挨拶の途中でも拍手はあったが、最後は割れるような拍手が起こった。私は、田中に車椅子を押されて壇上から降りた。
「あなた、よかったわよ」と真理子が言った。
 「そうか」と答える間もなく、誰彼とやってきて、挨拶をした。私は挨拶を返しながら、真理子や田中に「誰」と訊いた。真理子は答えられなかったが、営業の田中は耳元で彼らの名前や会社名・役職などを素早く耳打ちした。
 壇上では、広報室と秘書室合同の寸劇が始まっていた。
 それにしても、次から次へとひっきりなしに挨拶に来る者が続いた。営業の田中に車椅子を押させていたのはこのためだった。本来なら、専務の高木も詳しいだろうが彼も挨拶を受ける側の一人だった。だから、顔の広い田中を選んだのだった。
 挨拶者が一通り来て、余興も半ば頃になると私も疲れた。田中に控え室に連れて行ってもらい、田中を会場に返し、真理子と二人だけになった。
「誰と会ったか、覚えているか」
「無理よ、いったい何人と挨拶、交わしたと思っているの」
「そうだよな。俺も誰と挨拶したのか、まるで覚えていない」
「それでいいのよ」
「そうだな。会場に戻って何か食べるか」
「あんなの、食べられる」
「それもそうだな。今日は昼食抜きで、夕食に真理子の心のこもった手料理が食べたいよ」
「まぁ、だんだん、あなた、口も上手になってきたわね」
「口も、って、ほかにどこが上手なんだよ」
 真理子は笑って答えなかった。その代わり「帰りにどこかに寄って、買物しましょう」と言った。

 新年会は盛況のうちに終わった。ビンゴの一等はどこかの出版社の社員が取り、二等はとあるプリンタ会社の営業部長が取った。最後に再び、私が壇上に上がり、今日のお礼を言って幕引きとなった。

 

小説「真理の微笑」

六十六
 真理子に送られて会社に入ると、新年会の準備で騒々しかった。何人かと挨拶を交わして社長室に入った。秘書室の滝川が「会社に届いている年賀状です」と言って持ってきた。ほとんどが出版社や会社関係からだった。
 私は受話器を取ると由香里に電話した。しばらく待つと由香里が「もしもし」と言った。
「由香里か」
「ええ、あなたね」
「そうだ」と答えた後、電話で年始の挨拶を交わし、「躰の調子はどうだ」と訊いた。
「元気よ。お腹の子も」
「そうか。予定日は十三日だったよな」
「そうです」
「後、一週間か」
「そうね」
「生まれたらなるべく早いうちに会いに行く」
「出産には立ち会えないの」
「済まないがそうもしていられない」
「わかったわ」
 もう少し由香里は話していたそうだったが、私は電話を切った。外線から電話が入っていた。
「新年、おめでとうございます」
 知らない声だった。私も「明けましておめでとうございます」と言った。すると相手は「あれ、富岡社長じゃないんですか」と言った。私の声に違和感を持ったのだろう。
 私は慌てる事なく、事故に遭い、声帯を損傷したのでこんな声で話をしていると伝えた。そして記憶をなくしているので、相手の声だけでは誰だか分からないと言うと、富士島製作所の海津良平だと名乗った。
「とにかく、大変でしたね。君がゴルフコンペに現れないものだから、心配していたんですよ」と言った。私が現在、車椅子である事を告げ、今後ゴルフはできない旨を伝えると、「あんなに好きだったゴルフができないのは残念ですね。お躰にお気をつけて」と言って電話は切れた。
 すぐに秘書室に電話をした。富士島製作所の海津良平がどういう人なのかを訊いた。滝川が、彼は富士島製作所の社長で、富岡とは年に数回ゴルフに出かけていると答えた。
 広報室の中山が入ってきて新年会の段取りを説明した。まず私が冒頭の挨拶をして高木専務が乾杯の音頭を取る。そして、歓談に入ったら余興が始まるという具合になっていた。
 私はその段取り表を手にして「分かった。よろしく頼む」と言った。

 

小説「真理の微笑」

六十五
 除夜の鐘はテレビをつけたまま、ベッドの中で聞いた。
 私も真理子も汗まみれだった。私は絹のように滑る真理子の肌を何度撫でただろうか。
 そして、その度に真理子も何度声を上げた事だろう。
 私たちは躰を重ねたまま朝を迎えた。

 昼間、私たちはダイニングにいた。テーブルの上には、昨日、年越し蕎麦を食べた後、真理子が詰めたおせちの重箱がのっていた。
 私は蓋を取ると少しずつ皿に取り、箸を付けた。それを嬉しそうに真理子は眺めていた。

 服を着た真理子が年賀状を取りに行った。
 沢山の年賀状が届いていた。(株)TKシステムズの頃の何倍だろう。
 親類、友人、知人関係は全く知らない人たちだった。会社関係では、何社か知っているところもあった。出版社からのものはほとんどが知っていた。(株)TKシステムズの時も出していたからだった。親類、友人、知人関係については、真理子に尋ねた。真理子が知っている人も知らない人もいた。
 ちゃっかり、あけみからも年賀状が来ていた。
『今年もよろしくお願いします』と書かれていた。
 由香里からは来ていなかった。

 年が明けて、真理子と二人だけで過ごせたのは、二日目までだった。三日目からは社員たちが年始挨拶に来た。
「明けましておめでとうございます」と言う社員たちを追い返すわけにもいかず、私より真理子の方が料理を作ったり酒を買ってきたりして大変だった。
 彼らが帰っていった後、「毎年、こうなのか」と真理子に訊くと、「ううん」と首を左右に振った。
「だって、正月休みはあなたゴルフに行きっぱなしだったから、それを知っていて誰も来なかったわよ」
「今年が初めてって事か」と訊くと、「そうよ」と答えた。「参ったな」と言うと、真理子は「明日も来るかも知れないから、わたし、食べ物やお酒買ってくるわね」と言って、スーパーに出かけていった。
 私は書斎に上がりパソコンをつけた。メールボックスを開くと夏美から新年の挨拶が届いていた。私も予め時間指定してメールを送っておいたから、それに答えてのものだった。
『隆一様 新年、おめでとうございます。このメールをあなたがどこかで読んでいると思うだけで心がいっぱいになります。あの焼き捨てた手紙の事が、頭から離れません。今度、郵便で送るときには、手紙は入れないでください。
 いいえ、嘘です。あなたの手紙が欲しい。あなたが書いたのだと思うと抱き締めて寝ます。でも、その手紙を焼くのは辛い。辛くて仕方がないの。
 あなたに会えないのには、それなりの理由がある事はわかっているつもりです。でも、あなたに会いたい。今年こそ、それが叶いますように……。わたしは諦めずに祈っています。  夏美』
 私はこのメールを読んで、なかなか返事が書けなかった。私の手紙を抱いて眠る夏美が哀れでしようがなかった。次にお金を送るときには、手紙を入れるのはやめようと思った。メールだけにするんだ。そう思った。いや、メールだって本当はやり取りしなければいいのだ。それが一番良いのだ。そう、分かっていてもやめられなかった。
『夏美、祐一 お前たちが元気でありさえすればいい。 隆一』
 メールはこれだけしか書けなかった。書きたい事はいっぱいあった。何度、本当の事を書こうと思った事か。しかし、書けなかった。思いを伝える事ができない事がこんなにも苦しい事なのか、私はしみじみと思い知ったのだった。

 

小説「真理の微笑」

六十四
 大晦日、起きたのは昼を過ぎていた。昨夜というより、朝まで私は真理子を抱いていた。
 腕が痺れていた。何度、真理子の中に気をやった事だろう。何度してもしきれないくらい、真理子は魅力的だった。
 真理子の上げる、あの切ないような声がまだ耳の底に残っていた。
 真理子は私が起きると、恥ずかしそうに寄ってきてキスをした。
 疲れていなければ、また真理子を抱き寄せたかも知れなかった。
「お昼はどうする」
 そう真理子が訊いたので、「いいよ、真理子でお腹はいっぱいだ」と言った。
「嫌な、人ね」と真理子は媚びを含んだ笑いを返してきた。
「もう少ししたら、お蕎麦を買いに行くわね」
「うん」
「大きなエビ天も買ってくるわ」
「期待している」
「他に欲しいものある」
「いいや」
「そう」
「いや、真理子が欲しい」
 そう冗談を言うと、「また後でね」と真理子は言った。
「今日は眠らせないから」
「今日もでしょ」
「そうか」
「一緒に除夜の鐘を聞きましょう」
「そうしよう」

 真理子が出かけると、納戸に入った。そこは書庫にもなっていて、ここから真理子は一昨日はアルバムを取り出してきたのだった。幾つもの本棚があった。そして、一昨日の何倍ものアルバムもあった。これから全部、富岡の指紋を拭き取るのは不可能だと思った。だが、自分のこれからの人生をかけてそれをしなければならないのだ、とも思った。
 納戸の隅にゴルフバッグがあった。開けてみると、何本ものクラブが入っていた。グローブを嵌めていたとしても、そのクラブには富岡の指紋が至るところについている事だろう。私はタオルを取りに寝室に戻り、ゴルフクラブを取り出しては磨いた。
 真理子が帰ってきた。私は真理子が帰ってきた事に気付かなかった。
「何してるの」
 そう訊かれて、驚いた。
「シャフトを拭いていたんだ」と答えた。
「そう、そうよね」
「…………」
「あなた、去年まで、正月になると必ずゴルフに行っていたものね」
「そうだったのか」
「そう。新年の挨拶だとか言って、業界主催のゴルフ大会や友人に誘われたら、毎日出かけていったわ」
「今年は誘われないのか」
「友人、知人はあなたの躰の事は知っているから、ゴルフに誘ったりはしないわよ。業界からの招待状は、わたしが不参加に○をして出しておいたわ」
「そうなのか」
「でも、こういう事は覚えているのね」
「別に覚えているというわけではないが……」
 私はクラブを磨くのをやめて、ゴルフバッグの中にしまった。

 リビングのソファに座って、真理子を横抱きにしていた。
「あなた、変わったわね」
 真理子がドキッとする事を言った。
「死にかけたんだ。人生観も変わるさ」
「人生観ね」
「…………」
「人が変わったよう」
 また、ドキッとするような事を言った。
「俺は俺だ」
「それはそうね。でも、良い方に変わったと思うわ」
「そうか」
「まず、わたしに対して優しくなった」
「前から優しかったじゃないか」
「前の優しさは、偽りのような気がする」
「そんな」
「わたし、知っているのよ。あなたがいろんな女と付き合っていた事を」
「…………」
「いいのよ、子どもができない女なんて女じゃないものね」
「そんな事言うなよ」
 私は真理子の口を閉じようとしてキスをしようとした。真理子は、それを避けて、「でも、今はあなたは他の誰よりもわたしを愛してくれている。それはわかるの」と言ってから、私のキスを受け入れた。
 私は真理子の心の傷を思った。真理子は子どもができない事を自分のせいだと思っている。不妊治療のためのクリニック通いはさぞや辛かっただろう。そして、それを誰よりも深く悲しんでいる。
 その時、由香里の顔が浮かんだ。由香里には子どもができている。それを知ったら真理子はどう思うだろう。自分の全てを否定されたと思うに違いない。私は今以上に慎重にならなければならないと思った。由香里の事は絶対に真理子に知られてはならないのだ。

 夜八時過ぎに、真理子が茹でて水でしめた年越し蕎麦を食べた。
 本当に大きなエビ天だった。蕎麦のつけ汁に浸して食べるのに苦労した。

 

小説「真理の微笑」

六十三
 次の日、真理子の提案で、千葉の房総にある富岡の母の施設を訪ねた。
 富岡の母はベッドに寝ていたが、私が来ると起こされて、車椅子に座った。
 私と富岡の母とは車椅子で庭に出た。
 その施設の庭からは、雄大な海が水平線まで見えた。風が強かった。
「母さん、寒くないですか」と私が言うと、真理子が「いつもは、お袋って言っているわよ」と言った。
 真理子には何気ない言葉だろうけれど、こういう発言が一つ一つぎくりと胸を刺す。
「子どもの頃に戻ったからだろう」と言うと「子どもの頃を思い出したの」と訊いた。
「いいや、ただ、そう思っただけだ」
 風が強くなってきたので、中に入った。
「修、元気にしていたか」と、急に富岡の母が私の手を握ってきた。
「ええ、こうして何とか」
 私が車椅子に座っているのが、わからないのだろうか。私はちょっと驚きながら答えた。
 真理子は「あなたの事はわかるようね」と言った。
「どうだろう。本当に分かっているのかな」と言った後、富岡の母の手を解きながら、「お袋も元気にしていてくれよ」と言った。

「お義母さん、元気だったわね」
 施設の帰りだった。真理子が運転しながら言った。
「そうだったね」
 私は自分の両親にも会う事ができなかった。元気にしているのだろうか。
 普段、仕事が忙しくて、実家に帰る事はほとんどなかった。農家をしていた両親は、毎月、玄米とその時とれた野菜を送ってくれた。そのため、家には小型の精米機があった。
 十二月になると、干し柿と一緒にお餅を送ってくれた。干し柿は、私より夏美が好きだった。祐一もよく食べた。お餅は、夏美はラップに包んでタッパーに入れ冷凍保存していた。元日には、必ず雑煮を作って食べた。もう、それは永遠にできなかった。
 目をつぶった私は、自然に涙を流していた。
 それに気付いた真理子が「どうしたの」と訊いた。
 私は「お袋を見ていて、昔を思い出したような気がしたんだ」と言った。
「思い出したの」
「いや、思い出したわけじゃない。ただ、お袋を見ていて、このお袋と一緒に過ごしていた時があったんだな、と思ったのだ」
 私は嘘を語っていた。だが、そう話しながら、実家にいる母を思い浮かべていた。母はどうしているのだろう。干し椎茸を水で戻して、おせち料理を作っているのだろうか。

 帰りにデパートに寄った。
 私も行こうとしたが、あまりの人混みで車椅子ではどうにもならなかった。真理子は「ごめんね。いったん、家に戻って出直してくるわ」と言ったが、私は「車の中で待っている」と答えた。すると、「それじゃあ、ゆっくり買えないもの」と言う真理子に「気にするな」と、私はシートを倒して目を閉じて、「こうして眠っているよ」と言った。
 真理子はそんな私の頬にキスをして、「待っててね」と言って買物に行った。
 私は本当に微睡んだ。
 掘った穴の中に富岡が横たわっていた。私は固く大きな石を持って、富岡の顔を何度も殴り、そして潰した。特に歯の部分は入念に砕いた。仮に死体が発見されても身元が分からないようにするためだった。歯型は歯医者のカルテがあれば照合できる。顔を潰したのは、復顔されるのを恐れたためだった。そして、その潰れた富岡の顔を私は見下ろしていた。まだ、私にはする事があった。富岡の手を焼く事だった。指紋、掌紋は個人によって異なっている。顔を潰しても手が残っていれば、指紋、掌紋から個人が特定されてしまう。だから、私は掘った穴の中に横たわる富岡の手に灯油をかけた。そして火をつけた。本来なら、全身燃やしてしまう方が手っ取り早いには違いなかったが、人間が燃えるのには時間がかかる。その後で、埋めるのでは時間がかかりすぎるのだ。だから、掌だけを焼いてしまおうと思ったのだった。そして実行した。最初は灯油の匂いが強かったが、火が着くと肉の焼ける嫌な匂いが漂った。それは決して忘れる事のできる臭いではなかった。
 真理子に起こされた。真理子はハンカチを出して、私の首筋の汗を拭いてくれていた。
「何か怖い夢でも見ていたの」
「そうかも知れない。買物は済んだの」
 真理子は後ろの座席を指さした。私が振り向くと、沢山の紙袋が積まれていた。
「カートを戻してくるわね」
 真理子は駐車場にあるカート置き場までカートを運んだ。戻ってくると車を発進させた。

 道は渋滞していた。田舎に帰る車が多いのだろう。幹線道路を抜けると道は空いてきた。
 家に着いた時は、陽も落ちていた。
 真理子は冷蔵庫に買ってきた食品をしまうと、私の隣に座った。
「こうして年末年始を二人だけで過ごすのは、いつ以来かしら」
「いつまでだったろう」と私が言うと、真理子は「覚えていないくせに」と言った。
「そうだね、ちょっと言ってみたくなっただけだよ」

 その日は、近くの中華店に行く事にした。
 私たちは、フカヒレスープに、蟹焼売、春巻き、小籠包、水餃子、麻婆豆腐を頼んだ。そして、ごま団子の後にデザートとして杏仁豆腐を食べて店を出た。
 自宅に戻ると、私は真理子にアルバムを持ってこさせた。
「どうしたの、急に」
「昔のアルバムを見れば、記憶が戻るかと思ってね」
 そう言ったが、目的は違っていた。アルバムを見て、富岡という男の過去を知る事、そして……。
 真理子が運んできたアルバムは埃で汚れていた。真理子にタオルを持ってこさせて、私はアルバムを拭きながら中の写真を見た。一見、それは埃を拭っているように見えるが、実際には、私はアルバムを見たであろう富岡の指紋を消していたのだ。そして、新たに自分の指紋を付けたのだった。
 真理子もアルバムを見ながら記憶を呼び起こしていたようだった。
 富岡と真理子は、実に多くの場所を観光していた。海外では、グァムを初めとして、ハワイ、オーストラリア、アメリカ・ニューヨーク、西ドイツ・西ベルリン、デンマークコペンハーゲン……。それぞれの写真を指さしながら、真理子は説明した。
 私はそれを記憶した。記憶しながら、アルバムの各ページを丁寧にタオルで拭いていた。

 シャワーを浴びてベッドに入ると、間もなく真理子もベッドに入ってきた。
 明るいまま布団を剥ぎ、真理子を裸にした。エアコンが効いていたので寒くはなかった。
 唇にキスをして、次に喉を、そして胸に唇を這わせ、乳首を吸った。私の唇はだんだん下がっていき、お腹を通り、へそを通過すると、股の間に顔を沈めた。
 真理子が電気を消そうとするので、私は止めた。真理子の躰や顔を見ていたかったのだ。
 そして、真理子の割れ目を嘗めた。それからクリトリスを剥き上げて吸った。
 真理子は身をよじった。私はますます強く吸った。そして、舌でクリトリスを転がした。
 真理子は声を上げた。
 私は真理子の股を大きく手で広げ、唇を這わせて、最後にまたクリトリスを吸った。そして指で強く擦りあげた。真理子は広げていた足をピンと伸ばして、躰を反らせながら痙攣させた。そして、また一際大きな声を上げた。

 

小説「真理の微笑」

六十二
 十二月二十八日は朝から会社は騒々しかった。夜には忘年会があるし、年明け早々に新年会がある。その新年会に向けての準備にも余念がなかった。
 私が「仕事納めなんだから、ちゃんと気を引き締めてやれよ」と言っても効き目はなかったようだ。
 真理子も会社に残っていた。清楚な出で立ちをしていた。もちろん、あのネックレスはつけてはいなかった。
 私と真理子は社長室に入った。
「毎年、こうなのか」
 私は真理子に訊いた。
「知らないわ。朝から来るのは、今年が初めてだもの」
 私はそうなのか、と思った。多分、例年、真理子は夕方来て、忘年会にちょっと顔を出すぐらいだったのだろう。富岡が二次会に流れていくのを見送ったら、家に戻っていたのに違いない。
「今日は、最初に挨拶して、乾杯をしたらすぐに帰るから」と私が言うと、「去年までのあなたの言葉なら信じなかったけれど、今年は信じるわ」と言った。
 そういう言葉一つ一つが胸にぐさりとくる。私は富岡らしく振る舞わなければならないんだぞ、と思わずにはいられなくなるのだ。

 あっという間に夕方の五時になった。五時半過ぎに、高木が社長室に顔を出した。
「六時から開始ですからね。挨拶の方、お願いしますね」
「分かっている」
 私は真理子と二人で社員がいなくなったオフィスを見て回った。
「随分と大きくなったものだな」
 私はかつての(株)TKシステムズと比べていた。
「ほんとね」
「来年はもっと飛躍する年にするからな」
「期待している」
 そうしているうちに警備員が来た。
「閉めますので、お出になってください」
 会社を出ると、私は真理子に車椅子を押されながら、駐車場に向かった。
 車に乗って、忘年会をする居酒屋に向かった。車で十分ほどの所だった。
 エレベーターで二階に上がった。座敷だった。廊下から壇上までは僅かな距離だった。壇上には椅子が置かれていた。段差があるところで私は車椅子から降り、真理子と男性社員に支えられて、壇上の椅子まで歩いて行った。壇上にはマイクが置かれていた。
 私が椅子に座ると、盛大な拍手が起こった。私はマイクを取り、「座ったままでの挨拶をご容赦願いたい」と言った。
「いいですよ、座ったままで」と誰かが言った。
「ありがとう」
 私は一拍おいて話し始めた。
「今年はいろいろな事があった。見ての通り私は自動車事故に遭い、下半身はまだ痺れたままだ。しかし、その間にも会社は成長していった。トミーワープロの発売、会社の移転と大きな事が続いた。そして、みんなの努力でここまでやってくる事ができた。社長として、みんなに感謝する。ありがとう。今夜は会社のおごりだから、ゆっくりと楽しんで欲しい。長い挨拶は退屈だろうから、これで挨拶を終わりにする。乾杯の音頭は……」と近くにいる高木を見ると「田中です」と答えたので「田中君にお願いする」と言った。
 営業部の田中が立ち上がると、「皆さん、乾杯の準備はよろしいでしょうか。いいですね。それでは、トミーソフトのますますの発展と富岡社長と令夫人のご健康を祈って、乾杯」とビールの入ったコップをかざして飲み干した。
 私と真理子はウーロン茶の入ったコップを口にした。
 男性社員が駆け寄ってくるから、私が椅子から立ち上がろうとすると、「いやいや、社長。一曲、歌っていきましょうよ」と彼は言った。
 そして、私の隣にマイクを持った秘書室の滝川節子が来て、すでにスタンバイしていた。
 それからすぐに「銀座の恋の物語」(歌:石原裕次郎&牧村旬子。作詞:大高ひさを、作曲:鏑木創。発売:テイチク:1961年)のイントロが流れ出した。それに合わせて、滝川節子が歌い出し、次にマイクを渡された私は歌わないわけにもいかず、何とか歌い終わると、盛大な拍手が起こった。私は真理子の方を見て「勘弁して欲しいよ」と言った。すると、真理子は「渋い声だったわよ」と言って、くすくす笑っていた。