小説「真理の微笑」

十七
 真理子がいなくなると考える事しかできなかった。
 松葉杖をついてある程度歩けるようになっても、ほとんどは車椅子の生活になる。そうなれば、真理子が側に付いてくるか、介護士が付き添う事になるだろう。とすれば、夏美と祐一の事が気にかかっても、こっそり会いに行く事はできそうになかった。
 第一、どうやって連絡を取ればいいのか、いい方法がまだ思いつかなかった。
 殺人者の夫や父を持つよりも、このまま失踪者のままでいた方が良いのだろうか。昨日まで考えていた事がまたしても頭をもたげてくる。だが、私の心は高瀬のままだった。夏美と祐一を放っておく事などできやしなかった。
 自由に動く事ができれば何とかなるが、このままではどうにもならなかった。真理子に分からないように、夏美に連絡をとる方法を真剣に考え出さなければならなかった。

 看護師が、車椅子を運んで入ってきた。体温と脈拍を測った後、「これから眼科に行きます」と言った。前もって伝えられていなかったので、私は途惑った。
「視力と視野の検査をするそうです」
 先程は、二人の看護師が手伝って車椅子に乗ったが、今回は一人だった。私は看護師からベッドから一人で車椅子に乗る方法を教わった。最初は上手くできなかったので、看護師に手伝ってもらったが、何度か試しているうちにできるようになった。それほど時間はかからなかった。
 車椅子で三階に向かった。
 眼科の検査室に入ると、両眼で顕微鏡を覗き込むような器械に両目を押し当てて、cのマーク(ランドルト環)の方向を右指で示した。それが済むと、同じような別の器械に移動し、今度は右手に押しボタンのスイッチを持たせられた。
「中心のマークを見つめていてください。そしてどこか光ったらスイッチを押してください。わかりましたか」
 私はゴロゴロする声で「はい」と答えた。
「では、左から始めますね」
 検査は十分ほどで終わっただろうか。
「視野には異常はありませんね。視力は両眼とも1.5です。非常にいいですね。よく見えていますよ。お疲れ様でした」
 検査技師はそう言った。私は得意げに微笑した。目だけは両眼とも良かったのだ。小・中学校の視力検査の時も、2.0のところまでは楽に見えていたからだった。
 私は車椅子で病室に戻った。
「また、後で来ますからね」と言って出て行った。午後二時からは採血とレントゲンがあった事を思い出した。
 車椅子で廊下を移動する間に、自分でも分かるほど、顔色が変わっていった。私は重大なミスをしたかも知れなかったのだ。
 私は今日の眼科検査に真理子が立ち会っていなかった事に感謝した。
 富岡は眼鏡はしていなかった。だから、目はそれほど悪くないはずだった。コンタクトレンズを入れているふうでもなかった。もし、そうなら今までにその話が出ていてもおかしくはなかっただろう。
 しかし、視力については知らなかった。考えてもみなかった。ともあれ、1.5っていう事はないかも知れない。1.2、1.0、0.8、それぐらいまでなら眼鏡はかけないだろう。富岡の視力は、一体どれくらいなのだろう。当然の事だが、そんな事、分かるはずもなかった。つい調子に乗って、さっきは本当の視力を告げてしまっていた。
 何て馬鹿な事を!
 できる事なら、もう一度やり直したかった。しかし、もう、やり直す事はできなかった。仮に富岡の視力が良かったとしても、事故に遭ったのだから、視力が落ちていてもおかしくはなかったのだ。だが、その逆はない。
 もし、富岡の普段の視力よりも今日の検査結果が良かったら、おかしな事になる。だから、さっきの検査の時に、見えていても「分からない」と答えれば済む話だったのだ。
 簡単な事だった。そんな事もできないのか。私は自分自身が腹立たしくなった。
 うっかりでは済まないのだ。今は細心の注意を払わなければならない立場にいるのだ。