九
西沢奈津子は、激しく抵抗した。顔を左右に振って、声を出そうとした。しかし、その口は黒い革手袋で塞がれていた。
そのうち、首にロープが巻かれた。男は手慣れていた。
西沢はハンドバッグを投げ捨て、そのロープをはずそうと両手でロープを掴もうとした。しかし、凄い力でロープは引き締められた。
もう、声を出すどころではなかった。息をするのも苦しかった。
そのまま、木陰に引きずられていった。足をバタバタとした。黒いローヒールが脱げた。
西沢は男の顔を見ようとした。男は黒い目出し帽を被っていた。その目玉がガラスのように見えた。
苦しかった。涙が、出てきた。昌ちゃーん、と心の中で呼んでいた。部屋の前で待っているのは、前田昌一だったのだ。
意識が薄れていった。男のヘアリキッドの匂いが微かにした。
西沢奈津子は死んだ。
映像はそこで止まった。
僕はしゃがみ込んでいた。それから立ち上がった。
周りを見た。やはり、人気はなかった。この位置では、公園の道を歩いてくる人がいても見えなかっただろう。西沢奈津子は木々の間に連れ込まれていたのだ。そして、そこで殺害された。
発見されたのは、ここを通りがかったカップルによってだった。
木々の陰に隠れて、キスでもしようとしたのだろう。その時、西沢奈津子の遺体を発見したのだ。驚いたのに違いなかった。
通報はすぐにされた。それが午後十一時頃だったのだ。
僕は男のヘアリキッドの匂いに覚えがあった。どこのメーカーのものかすぐには思い出せなかった。明日、ドラッグストアにでも行って、確認しようと思った。
「役に立ちましたか」とあやめが訊いた。
「ああ、立った」と答えた。
「だったら、ご褒美、お願いできますね」と言って、ひょうたんの中に自分から入っていった。僕はひょうたんの栓をすると、ベルトから吊した。
公園には監視カメラは設置されていなかった。通りにもそれらしきものは見当たらなかった。
僕は首に手をやった。男の力強さが印象に残った。犯人はがっしりした男に違いなかった。そして、あのガラスのような目が、まだ僕を見ている気がした。
男からは、微かにヘアリキッドの匂いが漂ってきた。どこかで嗅いだことがある匂いだった。よくある製品だろうから、これは決め手にはならない。だが、参考にはなる。
通りの角にコンビニがあった。そこには、監視カメラがついていた。犯人がここを通ったとしたら、それは午後九時二十分から四十分頃だろう。それ以上、この現場にいる理由がない。
しかし、このコンビニの前を通るだろうか。通りは四方に広がっている。その一つがここというだけだ。
残りの通りも歩いて見た。いずれの通りもかなり先に行けば、コンビニはあった。だが、これらのコンビニの前を通る可能性は少なかった。いや、そうじゃない。どれかのコンビニの前を通っていたとしても、どうやって犯人と見分けることができるのだろうか。
それは不可能に思えた。
家に帰ったのは、午後十時半頃だった。あちらこちら歩いているうちにそんな時間になっていた。子どもたちは眠っていた。
僕はダイニングテーブルに座った。
「何か飲みます」ときくが訊いた。
「そうだな。ビールを頼む」と言った。
きくは冷蔵庫からビール瓶を取り出して、コップに注いだ。
つまみに柿の種を出した。
「すぐにタコを切りますね」と言った。
いや、いい、と言おうとしたが、止めた。それもいいかな、と思ったのだ。
ビールが西沢奈津子の映像を洗い流していくようだった。
しかし、頭に浮かんだ考えまで、洗い流してはくれなかった。
今日見た映像ではっきりしたことがある。あのロープの使い方だった。あれは、秋野恵子の時と同じだった。犯行の方法も同じだった。まず口を塞いで、それから首にロープを巻いた。その手際が良かった。慣れている感じがした。
西新宿公園で起きた絞殺事件と北園公園で起きた絞殺事件は同一犯人だ。これは確信があった。というより、それを見たのだ。
だが、それは僕が見たのであり、これを他者に伝えるのは難しかった。
きくがタコの刺身を作ってきた。僕はそれを箸でつまんで、醤油にちょっとつけて食べた。美味しかった。きくが僕の隣に座った。その腰に手を回した。きくが肩に頭を乗せてきた。
「きくの作るものは何でも美味しいな」と言うと「それはお義母様に習っているからです」と言った。
「そうか」と言った。
きくが眠ると、僕は時を止めた。それから、ベッドを起き出して、ひょうたんを机から出し、ダイニングルームの長ソファに行った。
ひょうたんの栓を抜くと、あやめが飛び出してきた。
すぐに抱きついてきたので、「昨日の映像を私に送れるか」と訊いた。
「できますよ」とあやめは言った。
「だったら送ってくれ」と僕は言った。
昨日の僕は、圧倒的な映像を前にして、視覚だけに囚われていた。西新宿公園で起きた絞殺事件は去年の五月九日だ。男が目出し帽を被っていたとしても、今日の映像よりは薄着のはずだった。ヘアリキッドの匂いぐらい分かったはずだ。しかし、見落としていたのだ。
映像が流れた。
秋野は、突然、口を皮手袋にハンカチを持った手で塞がれた。そして林に連れ込まれると、すぐに首にロープのようなものが巻き付けられた。秋野はロープを掴もうとするのが、やっとだった。その時、微かだが男の匂いが漂ってきた。一つは、あのヘアリキッドの匂いだった。もう一つは、脇の下の汗を止める制汗美容スプレーの匂いだった。
「もういい」と言うと、あやめは抱きついてきた。