六ー1
「どうなんです」
僕の母が医師に訊いた。
「脳のMRIを取ったが、どこにも異常が見られません。自発的に呼吸もしています。どうして意識が回復しないのか、わかりません」
医師はそう答えた。
僕は家老屋敷では、客人扱いを受けていた。することがないので、庭に出て木刀で剣道のまねごとをしていた。空中に向けて木刀を何度も打ち下ろしていた。
昨日の盗賊を追い払ったことでも誰かから聞いたのか、それを見ていた若い侍が「拙者にもお教え願えまいか」と訊いてきた。僕は「私の剣は教えられるものではありません」と断った。
「そこを何とか」
そう言っているうちに、次第に若手の侍が集まってきて「私も」「拙者も」と言い出した。
中庭がそれらの侍でいっぱいになった。
「何の騒ぎだ」と島田源太郎が現れた。
若い侍たちは口々に、僕の指南を受けたいと言った。
「お前たちの言っていることはわかった」と島田源太郎は言った。そして、僕の方を向いて「これらの者たちの願いを聞いてもらえまいか」と頭を下げた。
こういう状態が最悪なんだよな、と思いながら「分かりました」と言うしかなかった。
「そうか、ありがたい。後のことはこの者たちに任せておけばよい」
そう言うと、彼は部屋に戻った。
僕は仕方なく、「この屋敷には道場があるのか」と訊いた。その質問を待っていたように「あります」と多くの声が飛んだ。
僕は屋敷の東側にある道場に連れて行かれた。
板張りの十五メートル四方ばかりの道場だった。道場内には四本の太い丸柱が屋根を支えていた。思ったように防具は無かった。この時代、防具は直心影流剣術などの一部の流派では現在の原型のようなものは存在していたが、それ以外では無かったのである。そして稽古といえば、木刀による形稽古が中心だったのである。防具と竹刀が開発されて、より実践的な打ち込み稽古が始まったのはずっと後のことである。
僕はどうしようかと考えた。小野派一刀流の形稽古など、もう覚えていない。それに、形稽古などで、どうにかできるものではない。この者たちの何人かは、盗賊討伐に向かうことになるかも知れない。相手は実戦で力を付けている。道場の稽古とでは、迫力がまるで違う。相手に気圧された瞬間に勝負は決まる。
彼らに実際の戦いとは何かを教えるしかなかった。しかし、この道場でどう教えていいのか分からなかった。第一、人に剣道を教えた経験なんて僕にはなかった。
だが、若い武士たちは何が始まるのか、興味津々の目を僕に向けてくる。そんなに見ないでくれ、と思った。僕はできれば、この場から逃げ出したかった。しかし、周りをぐるりと囲まれている状態ではそれも叶わなかった。
木刀掛けには、埃にまみれた百本の木刀が掛けられていた。
僕は全員に木刀を取るように言った。
「では、順番に稽古をすることにしよう」
僕はそう言うしかなかった。
「これからする稽古は、今までしてきた稽古とはまるで違う。本気で立ち向かってくるんだ。実際に刀を持って戦うとは、どういうことなのかを覚えるのだ。分かったか」
「はい」
一斉に声がした。
「では戦う順番を決めてくれ。それは任せる」
彼らはそれぞれ順番が予め決められていたようで、最初に戦う者は僕の前に一列に並び、そうでない者は木刀を持って道場の壁際に座った。
「戦い方を言う。私が木刀で軽く手や胴や頭を打つから、そうしたら切られたものとして壁際に退くこと。それから、これからが肝心なところだから注意して聞いて欲しい。君たちは遠慮なく打ち込んで来てくれ。それも五人一組になって、一度に打ち込んで来て欲しい」
そう言ったら、一同は響めいた。
「そんなことしたら……」と誰かが言った。
「私には君たちの木刀は当たらないよ」と僕は言った。
「五人を相手にしてですか」
「そうだ。何なら七人でもいい。何人いても同じだ」
「そんな無茶な」
「無茶かどうか、やってみれば分かる」
この言葉が若い侍の自尊心に火をつけた。
「どうなっても知りませんよ」
「かかってきなさい」
僕は自分の言葉に酔っていた。
最初の五人が半円の輪になって、それぞれ木刀を振りかざしたり、中段に構えたり、突きの構えを見せたりしながら、広がった。
そして、やぁーと言うと一斉に僕に向かってきた。僕は右に跳んで、最初に突きを入れてきた者の手を軽く木刀で叩いた。そして、次の者の胴を払い、上段に構えていた男の額を軽く突いた。左側にいた者たちは、最初の太刀が外れたので体勢を立て直そうとしている間に、僕に小手を打たれた。
それは一瞬の出来事だった。五人の誰もが自分が打たれた瞬間には気付かなかったほどだった。
僕は素早く「次」と言った。今度の五人は円を描くように周りを囲み、全員、突きの姿勢を示した。相談してそうしたのだろう。僕は、前に踏み出して前の者の突きを外すと胴を叩き、左右の者の小手を叩いた。そして、振り向き、突きを入れてくる後ろの者たちには、その突きを外して両者の頭を軽く叩いた。
これも何が起こったのか分からなかったろう。
こうして全員が僕に立ち向かってきたが、誰一人僕に木刀を打ち据えることはできなかった。
これで準備ができた。彼らは木刀で打ちかかってきたに過ぎない。そして、打ち負かされた。これでは実戦を経験したとは言えない。
「もう一度だ。今度はさっきより強く打つ。痛いだろうが、それが実戦だ。本気でかかってこい。殺気というものの前に立ったときにいかに剣が出ないものか、教えてやる」
僕は完全に自分の力に酔っていた。自制できない何かに突き動かされていた。
「今度は七人ずつだ」
僕は一種の狂気の中にいた。昨日感じた恐怖の体験が忘れられなかったのだ。