小説「僕が、剣道ですか? 1」

「どうなんです」

 僕の母が医師に訊いた。

「脳のMRIを取ったが、どこにも異常が見られません。自発的に呼吸もしています。どうして意識が回復しないのか、わかりません」

 医師はそう答えた。

 

 僕は家老屋敷では、客人扱いを受けていた。することがないので、庭に出て木刀で剣道のまねごとをしていた。空中に向けて木刀を何度も打ち下ろしていた。

 昨日の盗賊を追い払ったことでも誰かから聞いたのか、それを見ていた若い侍が「拙者にもお教え願えまいか」と訊いてきた。僕は「私の剣は教えられるものではありません」と断った。

「そこを何とか」

 そう言っているうちに、次第に若手の侍が集まってきて「私も」「拙者も」と言い出した。

 中庭がそれらの侍でいっぱいになった。

「何の騒ぎだ」と島田源太郎が現れた。

 若い侍たちは口々に、僕の指南を受けたいと言った。

「お前たちの言っていることはわかった」と島田源太郎は言った。そして、僕の方を向いて「これらの者たちの願いを聞いてもらえまいか」と頭を下げた。

 こういう状態が最悪なんだよな、と思いながら「分かりました」と言うしかなかった。

「そうか、ありがたい。後のことはこの者たちに任せておけばよい」

 そう言うと、彼は部屋に戻った。

 僕は仕方なく、「この屋敷には道場があるのか」と訊いた。その質問を待っていたように「あります」と多くの声が飛んだ。

 僕は屋敷の東側にある道場に連れて行かれた。

 板張りの十五メートル四方ばかりの道場だった。道場内には四本の太い丸柱が屋根を支えていた。思ったように防具は無かった。この時代、防具は直心影流剣術などの一部の流派では現在の原型のようなものは存在していたが、それ以外では無かったのである。そして稽古といえば、木刀による形稽古が中心だったのである。防具と竹刀が開発されて、より実践的な打ち込み稽古が始まったのはずっと後のことである。

 僕はどうしようかと考えた。小野派一刀流の形稽古など、もう覚えていない。それに、形稽古などで、どうにかできるものではない。この者たちの何人かは、盗賊討伐に向かうことになるかも知れない。相手は実戦で力を付けている。道場の稽古とでは、迫力がまるで違う。相手に気圧された瞬間に勝負は決まる。

 彼らに実際の戦いとは何かを教えるしかなかった。しかし、この道場でどう教えていいのか分からなかった。第一、人に剣道を教えた経験なんて僕にはなかった。

 だが、若い武士たちは何が始まるのか、興味津々の目を僕に向けてくる。そんなに見ないでくれ、と思った。僕はできれば、この場から逃げ出したかった。しかし、周りをぐるりと囲まれている状態ではそれも叶わなかった。

 木刀掛けには、埃にまみれた百本の木刀が掛けられていた。

 僕は全員に木刀を取るように言った。

「では、順番に稽古をすることにしよう」

 僕はそう言うしかなかった。

「これからする稽古は、今までしてきた稽古とはまるで違う。本気で立ち向かってくるんだ。実際に刀を持って戦うとは、どういうことなのかを覚えるのだ。分かったか」

「はい」

 一斉に声がした。

「では戦う順番を決めてくれ。それは任せる」

 彼らはそれぞれ順番が予め決められていたようで、最初に戦う者は僕の前に一列に並び、そうでない者は木刀を持って道場の壁際に座った。

「戦い方を言う。私が木刀で軽く手や胴や頭を打つから、そうしたら切られたものとして壁際に退くこと。それから、これからが肝心なところだから注意して聞いて欲しい。君たちは遠慮なく打ち込んで来てくれ。それも五人一組になって、一度に打ち込んで来て欲しい」

 そう言ったら、一同は響めいた。

「そんなことしたら……」と誰かが言った。

「私には君たちの木刀は当たらないよ」と僕は言った。

「五人を相手にしてですか」

「そうだ。何なら七人でもいい。何人いても同じだ」

「そんな無茶な」

「無茶かどうか、やってみれば分かる」

 この言葉が若い侍の自尊心に火をつけた。

「どうなっても知りませんよ」

「かかってきなさい」

 僕は自分の言葉に酔っていた。

 最初の五人が半円の輪になって、それぞれ木刀を振りかざしたり、中段に構えたり、突きの構えを見せたりしながら、広がった。

 そして、やぁーと言うと一斉に僕に向かってきた。僕は右に跳んで、最初に突きを入れてきた者の手を軽く木刀で叩いた。そして、次の者の胴を払い、上段に構えていた男の額を軽く突いた。左側にいた者たちは、最初の太刀が外れたので体勢を立て直そうとしている間に、僕に小手を打たれた。

 それは一瞬の出来事だった。五人の誰もが自分が打たれた瞬間を気付かなかったほどだった。

 僕は素早く「次」と言った。今度の五人は円を描くように周りを囲み、全員、突きの姿勢を示した。相談してそうしたのだろう。僕は、前に踏み出して前の者の突きを外すと胴を叩き、左右の者の小手を叩いた。そして、振り向き、突きを入れてくる後ろの者たちには、その突きを外して両者の頭を軽く叩いた。

 これも何が起こったのか分からなかったろう。

 こうして全員が僕に立ち向かってきたが、誰一人僕に木刀を打ち据えることはできなかった。

 これで準備ができた。彼らは木刀で打ちかかってきたに過ぎない。そして、打ち負かされた。これでは実戦を経験したとは言えない。

「もう一度だ。今度はさっきより強く打つ。痛いだろうが、それが実戦だ。本気でかかってこい。殺気というものの前に立ったときにいかに剣が出ないものか、教えてやる」

 僕は完全に自分の力に酔っていた。自制できない何かに突き動かされていた。

「今度は七人ずつだ」

 僕は一種の狂気の中にいた。昨日感じた恐怖の体験が忘れられなかったのだ。

 一度、僕に倒されているから、彼らは警戒してなかなか間合いを縮めて来なかった。今度はこちらから間合いを詰めにいった。いくら間合いを詰めようと時間がスローに感じるから、相手の間合いに入ったとしても、僕には届かなかった。七人は瞬く間に倒された。さっきよりも少しだけ強く打ったつもりだったが、彼らにはこたえたようだった。

 次の七人は明らかに怖じ気づいていた。これでは盗賊たちには勝てない。僕は木刀を投げ捨て、「かかってこい」と言った。彼らは一斉に木刀を振り下ろした。僕は、手刀で手首を叩いたり、拳で腹を打ったりした。数分後には、七人とも板の床に倒れ込んでいた。

「次」

 次の者たちが、かかってきたが、僕には、木刀をかすらせることもできなかった。これも数分でみんな板の床に倒れ込んだ。

「次」と言った数分後に、僕はまた「次」と言っていた。

 そして三十分も経った頃には「次」と言っても誰もかかってこなかった。もう全員と戦っていたのだ。

「みんな、立て」と僕は言った。

 全員が立つと「礼」と僕が言って、彼らに向かって頭を下げ、それから振り向いて神棚の方を向いて、一礼をした。これは道場に通っていた時の習慣だった。

 年長の者が「先生」と呼びかけた。

「何だ」

「これでは練習になりません」

「いや、これが練習だ。今日は戦うときの恐怖を教えた。それで十分だ」

「戦うときの恐怖ですか」

「そうだ。今日、私が真剣を持っていたら、全員切られた。それを知ってもらいたかった。何人で、かかっていっても、勝つことができなかった。そのことを知ってもらいたかった。人数が多いとそれだけで、どこか安心してしまう。しかし、実際に戦うときはそんなのは関係がない。一人一人が命がけで相手に向かっていかなければ、相手を倒すことはできない」

「先生の言っていることはわかりますが、私たちと先生とでは力量の差があまりにありすぎます。これでは私たちはどうすればいいのかわかりません」

「今日は、どうすればいいのか分からないほどの力の差を見せることに、私は集中した。それが君たちに必要だったからだ。力の差がある者に勝つにはどうすればいいのかについては、明日から教える。今日はこれで終わりにする」

 若者たちは一斉に「ありがとうございました」と頭を下げた。

 

 私は井戸のある場所を教えてもらい、女中から手ぬぐいを借り、彼女の前で裸になると、井戸から水を汲み、頭から水をかぶった。それを何度かして、手ぬぐいで躰を拭いて、着物を着た。

「濡らしてしまって済まない」と言って、濡れた手ぬぐいを女中に渡すと、一部始終を見ていた彼女は、腰を抜かしたように座り込んで、手ぬぐいを受け取ると「とんでもございません」と言った。

 

 風呂は昨日と同じだった。風呂の後は、夕餉になった。

 夕餉は昨日と同じだった。主である嫡男が上席に座り、対面になるように僕が座った。今日はカボチャの煮付けたものが出た。現代のカボチャの煮物とは全然違っていて、ほとんど甘くはなかった。砂糖を使っていなかったからだ。

「今日は、若い衆に稽古を付けてくれたそうですな」

「ええ。ぜひにと頼まれたので断れなくなって」と答えた。

「そなたは凄腕だと言うではないか」

「私なんかはそれほどでもありません」

「そんな謙遜を。話は若い者から聞いているから、知っている。最後は、何と七人がかりを素手で倒したそうだな」

「たまたまです」

「いやいや。三十人余りの者を相手に全員、素手で倒したと聞いている。一人じゃなく、聞いた者全員が興奮してそう言っているんだから、大したものだ」

 僕は答えようがなかった。

 お茶漬けの椀を空にすると、付き添っていた女中がすぐに「おかわりを」と言って手を出した。今日は久しぶりに稽古らしい稽古をしたのでお腹が空いていた。僕にしては珍しくおかわりをした。

 彼女は嬉しそうに茶碗に山盛りにして返してきた。それを見た瞬間に、一杯で止めにしておけば良かったと後悔した。

 

 夜になった。

 布団に入ると昨日と同じように、若い女が入ってきて、行灯の火を消して着物を脱いだ。そして、僕の隣に躰を横たえた。彼女が抱きついてきたのは覚えているが、その時には僕は非常に強い睡魔に襲われていて、すぐに眠ってしまった。

 

 次の日、起きると着物を着た若い女が布団から少し離れたところに座っていた。

「おはよう」と言うと、彼女は「おはようございます」と返してきた後、涙を流した。

「どうした」と訊くと、「あなた様はわたしがお嫌いでございますか」と訊いた。

「いいや、そんなことはないが」と答えると、「だったら何故でございますか」と訊いた。

 何のことか分からない僕は「何のことだか分からないんだけれど」と答えた。

 女は恥ずかしそうに「あのことです」と言った。

「あのこと?」

 あのことが何を意味しているのか、僕には分からなかった。

「そうです。あのことです」

「済まないんだが、あのことって何を言っているのか分からないんだけれど」

「あなたは嫌な人ですね。男と女がすることです」

「ああ、そのこと……」と言ってから「ええ」と僕は驚いた。確かに、夜に裸になった若い女性が僕の布団の中に入り込んでくるのは、尋常なことではなかったが、男と女がすることのためだったとは思わなかったのだ。いや、そう思う前に眠ってしまっていた。

 平安時代でもあるまいし、江戸時代にもそんな風習が残っていたとは、ついぞ知らなかった。いや、そんな風習は残ってはいないはずだ。とすれば、あの島田源太郎の配慮なのだろう。とんでもない配慮だと思った。

 女は若く見えたが、僕よりは年上だろうと思ったので「君は何歳なの」と訊いてみた。

「十五歳です」と答えた時、淫行じゃないか、と思った。この時代は年齢は数え年で呼んでいるはずだから、若く見える女の満年齢は十四歳だった。現代に戻ったとすれば中学二年生だ。無理無理、と僕は思った。

 俯いている女を見れば可愛い。何も言わないでいると、彼女に気の毒だと思ったので「疲れていたんだ。昨日は、大勢と久しぶりに稽古をしたもんだからね」と言うと、「その前の晩もすぐに眠ってしまいました」と抗議をした。

「前の晩は盗賊たちを退治したからだ。その話は聞いているだろう」と言うと、女は頷いた。

「そういうわけだ。君のせいじゃない」

「わかりました」

 女は両手を畳に突いて、深々と頭を下げた。