小説「僕が、剣道ですか? 1」

 僕が落ちたのは、白樺の林の中で、すぐ下の方から怒声が聞こえていた。

 誰かの籠を盗賊が囲んでいる感じだった。

 付き添いの者は女中二人、侍四人いたのだが、腰が引けていて全く役に立ちそうになかった。籠の中にいるのは女性だろう。

 盗賊は八人。勝ち目は無い。

 僕には関係ないと思った。

 そのとたんに心拍数が上がるのを感じた。

 下を見ると、護衛をしている家臣の一人の首を斬ろうとしているのが見えた。

 えっ、と思うまもなく、僕は坂を転がっていた。

 転がっているのだから音には気付くだろう。刃の切っ先が僕に向かっていた。

 腹をえぐられるものと思っていた。しかし転がりながら、チェーンとカッターナイフを腹の方に移して、胸にはペットボトルを抱えた。

 すごい音がした。僕はどこか切られたのかと思った。

 でも、そうではなかった。相手は気絶していた。切っ先はチェーンに絡まっていた。

 僕は相手の刀を取ると、次にすぐに襲ってきた者の小手を切った。その次に上段に振り上げた者には腹に突きを入れた。

 殺す感覚は無かった。

 相手はまだ五人いたがちりぢりに逃げた。

 付け人の侍が三人の命を奪うのをぼんやりと見ていた。

 しばらくして、籠の戸が開いた。

 最初に「どこの家中の者ですか」と訊かれた。

「いえ、どこにも」と答えるのがやっとだった。

「浪人ですか」と続けて訊かれたので、「いいえ。西日比谷に……」と言いながら、この時代に分かるわけもないか、と思った。

 共の者から「その風体はどうしたのか」と尋ねられた。

「南蛮渡来の物です。この辺りでは目にしようも無いでしょうが」と答えた。

「剣の心得があるようだが」

「ええ、北辰一刀流二天一流を少しばかり」

 好きな剣士になぞらえて大きくでまかせで答えてみた。本当は小野派一刀流なのだが……。

「さもありなん。見事な腕じゃった」

 一番の長老の者が言った。二天一流はともかく北辰一刀流は、まだこの時にはなかったはずだが、と僕は思った。

「ではこれにて」

 僕は段々会話に疲れていた。どこかの方言をずっとしゃべっている気がしていた。

「そうはいかん」

「ちょっと待ってください。私にも用事はあるのです」

 あるわけもないが、今どこにいるのか、知るのが先決だと思った。

 籠の中の女性が「それはそうかもしれませんが、このままお帰ししたら殿にどのように言われるかわかりません。ご一緒していただけませんか」と言う。

 供の者に囲まれてしまえば、嫌とも言えなくなる。僕の悪いくせだ。

「分かりました」と小さな声で言った。そして、手にしていた相手の刀を放り捨てた。

 若い女中の一人が近くに寄り、「こちらへ」と囁いた。籠の側に寄るように言ったのだ。椿油のいい香りが漂った。

 

 稲妻に打たれた僕はそのまま路上に倒れた。誰が一一九に掛けたのだろう。

 救急車で運ばれた先は御茶の水近くの病院だった。

 僕は意識がなかった。

 意識は違う次元に飛んでいたのだから。

 

 籠に近寄ると、「私の屋敷まで来ていただけませんか」と中の女性が言った。

 僕は考えた。この身なりだ。江戸時代のどこかなのだろうが、まるで分からない。

 このままでは、どうにもならない。

「お言葉に甘えさせていただきます」と答えた。武士の言葉とは異なっていたのだろう。

 女中が微かに笑った。

 笑っている女中に「可愛いよ」と言ったが、意味が通じたのかは良く分からない。

 僕は平伏し、籠中の女性に尋ねた。

「今の将軍様はどなたでしょうか」

 供回りの者からの失笑は承知の上だった。

「家宣(いえのぶ)様です」

「そうですか、甲府の……」と言いかけて僕はやめた。

 確か、将軍職になられ甲府徳川家は絶家となったはずだった。

 すると今は一七一〇年ぐらいなのだろう。

 随分、過去に来てしまった、と思いながら、「この格好ではまずいですよね」と誰に尋ねるでもなく、口にした。

 誰かが羽織を掛けてくれた。寒くはなかったが、立ち上がると、当てもなく、道に沿ってそのまま歩き始めた。

 僕に添うように籠も動き出した。

 その時、第二陣が襲ってきた。

 さっき逃げていったのは仲間を呼びに行くためだったのだ。

 今度は十数人いる。勝てるはずがない。

 足元の棒を靴で拾い、最初に向かってきた相手に小手を打ち、落とした刀を拾って、次の相手の足を払った。そのまま、隣にいた者には腹を突き、次の相手には面の要領で顔面を切った。

 時が止まっている感じがした。だから簡単に小手や足を払うことができた。だが、相手はまだ十人以上いる。士気は少しも衰えてはいなかった。

 僕に向かってきたのは、小者だったのに違いない。本隊は籠を襲っていた。

 籠を守っていた四人のうち二人はすでに斬られて倒れていた。

 今にも籠の引き戸が開けられそうになっていた。僕は叫びながら、籠に向かって走った。槍で突いてきた者の槍先を跳び越して、中段に突きを入れてきた者の刀を払いながら、逆に彼の腹を切った。そのまま走り、横から刀で斬りかかってきた者を避けて、正面に立っていた盗賊に面を打った。相手の頭が弾けるように真っ二つに割れた。

 刀が刃こぼれしたので、その男の刀を拾い、斬りつけてきた者の足を払った。そして、籠の前に辿り着こうとした時、大きな男が立ちはだかった。彼は大きな刀を持っていた。正面から斬りつけて来たので払おうとしたが、凄い力で、刀で払うことができなかった。仕方なく、横に跳んで避けた。しかし、すぐに次の太刀が向かってきた。これも避けるだけで精一杯だった。大きな男は尋常じゃない馬鹿力を持っていた。そして、素早かった。

 僕はその男だけに立ち向かっていたわけではなかった。彼の仲間二人が僕の後ろに回り、同時に斬りかかってきた。これが強い相手と戦う時の相手の戦法なのだろう。普通の相手なら、これで確実に仕留められたはずだろう。しかし、僕は違っていた。すぐに振り向くと、最初に刃を突き出した者の小手を払った。相手の手首が飛び散っていくのが見えた。そして、次の相手には、刀を振りかざしたところで腹を切り開いた。

 後ろが開けたので、走って籠のところまで行った。籠を守っていた二人も多数の傷を負っていたが、傷は浅かった。

 籠を背に、大男が来るのを待った。

 相手が今度は刀を振り下ろしてきたら、刀で避けることはしないつもりだった。刀で払おうとしても、それができないくらい相手の男は力強かった。だから、相手が刀を振り下ろしたら、それを避けて横に跳び、相手の腹を切り裂く。夏季剣道大会兼関東大会の団体予選の初戦で、強豪相手に使った手だった。大男は力が強いだけでなく素早い。しかし、一度振り下ろした刀の切っ先をすぐに別の方向に変えられるはずはない。それは力が強いことの反面の弱点だった。だが、相手が太刀を真正面から振り下ろしてくるまで、待たなければならない。その前に動けば、相手もそれに合わせて刀の振り下ろし所を変えてくるだろう。相手が振り下ろしてくる刀を、一時でも避けないで待たなければならない。一瞬でも時間がずれれば、相手の刀に身が切り裂かれてしまうだろう。

 相手の目を見た。鬼の形相をしていた。躰がすくみそうになった。手にしている刀の先が恐怖で小刻みに震えていた。

 相手が一歩踏み込んできた。間合いを詰めているのだ。目を閉じたくなった。だが、ここで目を閉じたら、死ぬことになる。

 必死で相手を見返していた。

 ぐるりと周りは盗賊で囲まれていた。僕が斬られれば、一斉に彼らは籠を襲うだろう。

 取り囲んでいる盗賊たちは、僕と大男の勝負を見ていた。

 大男がまた一歩、近づいてきた。

 次だった。次に踏み込んできた時に、刀は振り下ろされるだろう。僕はそれまで心が震えていたのに、何故か落ち着いてくるのが分かった。相手に集中していたのだ。

 草鞋のズリという音とともに相手は、半歩踏み込み、同時に刀は振り下ろされた。僕は最初は避けずにその刀が振り下ろされるのを見ていた。その次の瞬間、相手に向かって横っ跳びになりながら、刀を振り抜いた。相手の胴を真っ二つに切り裂いたのが見えた。

 僕が立ち上がると、周りを取り囲んでいた者たちが後ずさりするのが分かった。

「引けぃ! 」と言う誰かの声が響いた。多分、盗賊の頭なのだろう。これ以上、襲っても自分たちの被害が大きくなるだけだと思ったのに違いない。

 僕が胴を切り裂いた者を盗賊たちの二人が両方の腕を肩にかけて、引き上げていった。