五十六
ボーナスが出ると社員は全員喜んだ。
「社長、こんなにいいんですか」
「はずみましたね」
あちこちから声が上がった。手を上げてそれに応えながら、真理子に車椅子を押されて、社長室に入った。ドアを閉めると静かになった。
福祉車両が来てからは、毎日、真理子が送り迎えをしてくれた。
「みんな喜んでいたわね」
「そりゃそうだろう。通常のボーナスに加えて百万円もの特別ボーナスを支給したんだから」
「トミーワープロのおかげね」
「そうだね」
そのトミーワープロは、富岡が北村を使って私から奪っていったものだとは言えなかった。トミーワープロを(株)TKシステムズから出す事ができていれば、(株)TKシステムズを倒産させる事も、夏美や祐一たちと別れる事もなかった。
真理子がキスを求めてきた。もちろん、私は真理子の唇を、舌を受け止めた。私は失ったものも多かったが、真理子を得た。そして、トミーソフト株式会社と多くの社員も……。
私の心は複雑だった。失ったものと得たものとが、果たして釣り合いが取れているのだろうか。釣り合っているはずがなかった。釣り合っていいはずがなかった。私は富岡を殺しているのだ。これに釣り合うものなどなかった。
私は真理子が帰っていた隙に、介護タクシーを呼んで、少し遠くの郵便局まで連れて行ってもらった。郵便局には、タクシーの運転手に支えられて入った。
書類の間に現金三百万円を入れた封筒を挟んだ硬く少し大きめの封筒を、書留で夏美の実家宛に送った。この現金は金庫にあったものだった。現金を現金書留以外の普通の封筒で送る事は違法だったが、この際仕方がなかった。現金書留では三百万円もの大金を一度に送る事ができなかったからだ。
送り主の住所も名前もでたらめだったが、予めメールで知らせておいたのと、封筒の端に「Ryu」と書いた。だから、夏美には私からだと分かるはずだ。中を開ければ私からの手紙も添えてある。私は多くを書く事はできなかった。
『夏美様 もっと仕送りができたら良いのだが、今はこれしか送れない。また、送る。それと、これだけは守ってくれ。この手紙と、この仕送りをした封筒は焼き捨ててくれ。必ずそうしてくれ、頼んだよ。 隆一』
再び、タクシーの運転手に支えられて、介護タクシーに乗った。
「大変ですね、郵便を出すくらいなら、どなたかに頼めば良いのに」
「いいや、自分で出したかったんだ」
「そうですか」
「ああ」
私は会社に着くと、タクシーの運転手に社員を呼んでもらい、車椅子に座った。
タクシーの運転手には、一万円を渡した。
「おつりを取ってきます」と言うので「いいから取っておけ」と言った。
「こんなにいいんですか」
私は「良いお年を」と言った。タクシーの運転手も上機嫌で「よいお年をお迎えください」と言って車に戻っていった。
私は車椅子を女子社員に押してもらい、社長室に入った。
それから高木を呼んだ。由香里の事を相談した。来月には子どもが生まれる。出産費用などに二百万円ほど用意して、彼女の銀行口座に振り込んで欲しいと頼んだ。
「わかりました」と言った後、「忘年会はどうしますか」と訊いた。
「去年までは前の会社の近くの居酒屋を貸し切って行っていましたが」と言った。
「だったら、今年もこの近くの居酒屋を貸し切ればいい」と答えた。
「わかりました。田中に話をしておきます。このあたりだと完全貸し切りは無理でしょうが、何とかなるでしょう」
「任せるよ。で、忘年会はいつやるんだ」
「会社は二十九日から正月休みに入りますから、二十八日です」
「そうか。私は酒が飲めないし、こんな躰だから最初に挨拶をしたら、早々に失敬するよ」
「承知しました」
「忘年会の費用は当然会社持ちなんだろうな」
「ええ、そうです」
「二次会はどうなんだ」
「二次会は、各自の責任ですから」
「そうか。分かった。で、新年会の客はどうなっている」
「今回は一千人を少し超えると思いますよ」
「そんなに」
「ただで飲み食いができる上に、ビンゴ大会の景品が結構いいものですから。今回は、一等はなんと二人分の沖縄旅行のチケットです」
「昔は熱海ぐらいだったけれどね」
「いつの時代の事ですか。来年は沖縄旅行だと言ったのは社長ですよ」
「今年はどこだったんだ」
「北海道でした」
「で、二等は」
「二等も大型ブラウン管テレビです。三等以下もそれなりの景品が付きますから」
私はトミーソフト株式会社の気前の良さに驚いた。
「まずは注目してもらわなければ駄目なんだと言ったのは社長ですよ。こうして人を集めて、口コミで宣伝してもらう。特に大型量販店のソフトの担当者も多く呼んでますからね。今度の新年会は盛り上げないと。トミーソフト株式会社、ここにありと知らしめるんです」
私は苦笑いをして「勇ましくていいね」と言った。
高木が出て行くと、考えなければならない事がいっぱいあるな、と思った。会社は今月二十九日から来月四日まで正月休みに入る。そして、それが明けるとすぐに新年会だ。
新年会には、何か出し物をやるようで、各部でそれぞれ張り切っている。私は今回が初めてだから分からないが、寸劇をするところがあるらしい。多分、秘書室&広報室か、販売宣伝部あたりだろう。あるいは両方かも知れない。
とにかく来年早々の仕事は新年会になりそうだった。
そして、それが済めば由香里の出産が待っている。予定日は十三日だった。出産に立ち会うのは難しいかも知れないが、生まれたらすぐに駆けつけなければならないだろう。
だが、真理子がいる。真理子に分からないように由香里と生まれてきた子に会いに行かなければならない。これも考え始めるとそんなに容易い事ではないように思える。
それに生まれてくるのは、あの富岡の子だ。それをさも喜んでいるように演じなければならなかった。私はいつからそんな器用な人間になったのだ。実際のところ、上手く演じられるか分からなかった。