九
林が途切れると眼下に雄大な湖が見えた。そこに向かって坂を台車を押しながら下っていった。
途中に甘味処があった。店の前の席に座った。店の者が品書きを持ってきたので、僕はお汁粉ときなこ餅を頼んだ。きくはぼた餅二つとお汁粉を頼んだ。お汁粉は半分はききょうのためだろう。
番茶が運ばれて来た。それを啜りながら、湖を見ていると、コップの中の海を見ているかのようだった。何人かの旅人も足を止めて、この店で足を休めた。僕は彼らの中に怪しい者が含まれていないか注意した。しかし、そんな気配はなかった。もっとも訓練された忍びの者は、自分の本当の素性を隠すことなど容易いことだろう。
しかし、定国が唸らないので、この者たちは大丈夫だと僕は判断した。
頼んだものが運ばれてくると、僕はきなこ餅を食べながら、お汁粉で口の中に流し込んだ。甘いものは旅の疲れをとってくれる。
きくはききょうに匙でお汁粉を少しずつ飲ませていた。そして自分はぼた餅を食べていた。
食べ終わると、きくは哺乳瓶に白湯を入れてもらって、代金を払って店を出た。
僕は台車を、坂道を転がして歩いた。きくはききょうをおぶっていた。段々と湖が大きく見えてくる。湖の周りには宿屋がいっぱい並んでいた。
平坦な道に出ると両脇に宿が連なっていた。僕らはその通りを歩いて行った。
定国も唸らなかったし、道行く人ものんびりしていた。僕らは、おかしな話だが、すっかり旅気分になっていた。これが普通なのだ。今までが異常だったのだ、と僕は改めて思った。湖を囲むように山が聳え立っていた。
盆地の昼間は短い。太陽がすぐに山陰に隠れる。まだ、午後三時頃だったが、太陽は山の上に載っていた。後一時間もすれば、薄暗くなるだろう。
早かったが、きくの体調も考え、宿を取ることにした。いっぱい宿が並んでいるので、迷ったが、その中でも立派そうなところに泊まることにした。
窓のある部屋をお願いした。その個室は一人一泊二食付きで六百文だった。少し高かったが、この湖と山の景色が見たかったのだ。
台車を玄関に置き、荷物を部屋に運んでもらった。風呂敷に包んだ千両箱だけは僕が運んだ。ここら一帯は温泉が出るから、どの宿も風呂は掛け流しの温泉だった。
少し早かったが、僕は温泉に入りに行った。
戻ってくると、きくが僕の袖を引いた。静かにしていると、隣の部屋から若い女性の泣く声が聞こえて来る。
どうしたのかと思って聞いていると、スリに財布をすられたらしい。宿賃も払えないのにどうするという話をしているのだった。
きくは同情していた。お金ならいっぱい持っているのだから、貸してやったらどうかと思っているらしかった。
僕もそうだなと思って、襖に手をかけようとしたら、定国が唸った。定国が唸るということは、そこに悪意があるからだった。隣の親子のような者たちは敵なのか。
僕は警戒をした。そして、振り向くと、きくに首を左右に振った。定国を見せて、この刀が相手は嘘を言っているというようなことを伝えていると話した。
定国には何度も助けられている。僕は定国を信じることにした。
夕餉が済んで布団が敷かれた。
すると、隣から嬌声が聞こえて来る。親子ではなかったのだ。きくはその声を聞いて、僕にしがみついてきた。僕はきくのおでこにキスをするときくを抱き締めて眠った。
夜中だった。
定国が唸った。薄目を開けると隣の襖が開けられようとしていた。そして、壮年の男が忍び込んできて、荷物を探ろうとしていた。僕は起き上がると、床の間に走り、定国を掴むとその鞘で男の手の甲をしたたかに打ち据えた。
そして、定国を抜き峰打ちで右手を折った。
男はあまりの痛さに蹲った。
そこにきくが起きた。
「この男が私たちの荷物を漁ろうとしていたのだ」と僕はきくに言った。
「もう一方の手の骨も折られたくなかったら、早く部屋に戻っていろ」と僕は言った。
男は黙って隣の部屋に戻っていった。
次の日起きると、隣の部屋には誰もいなかった。早立ちしたのか、それとも夜のうちに逃げ出してでも行ったのだろうか。
「危のうございましたね」ときくが言った。
「ああ」
「きくは、てっきり親子だと思っていました。そして、本当にスリに金を取られたのだと思ってしまいました。京介様が風呂から出られるのを待っていて良かったです」
「こういうこともあるから気をつけないとな」
「そうですね」
僕らは朝餉の前にもう一度風呂に入りに行き、ゆっくりと朝餉を食べた。