小説「僕が、剣道ですか? 5」


 宿場に着くと、個室であることが条件だったので、良さそうな宿を選んで入った。角部屋の個室を借りることにした。一人一泊二食付きで四百文だった。
 台車から荷物を降ろして、部屋まで運ぶと交代で風呂に入った。
 夕餉を食べて、布団に入ると、きくが寄ってきて「あれがないんです」と言った。
 僕は「あれって、あれのこと」と訊き返した。
「ええ」と答えるきくに、今日、キューブミルクを使わなかった理由が分かった気がした。
 また子どもができたのだ。おむつカバーも抱っこ紐も取り上げられているかも知れないと思って買ってきたのが、幸いしたと思った。心配していたが、結局おむつカバーも抱っこ紐も取り上げられてはいなかった。これで二人目ができても、おむつをし、抱っこしていける。
 そうなると、安定期になるまで、あまり早く歩くことは止めようと思った。できればききょうをおぶってやりたかったが、それをきくに言うと「いざというときに困るでしょう」と言われた。すれ違い様に吹き矢を拭かれたり、手裏剣を投げられたら、ききょうをおぶっていては咄嗟の動きもできない。こればかりは、きくの言うとおりだった。
「大丈夫です。現代というところの女性はどうかわかりませんが、ここに生まれた女ですから、これしきのことでは参りません」ときくは言った。この時ばかりは、きくが頼もしく思えた。
 そんなわけで、その晩はきくの相手をしないで僕はゆっくりと眠れた。しばらくの間、この状態が続くかと思うと、子どもができたことよりも嬉しくなった。もちろん、冗談だ。

 朝餉はきくもききょうもよく食べた。きくは子どものためだと思ったのだろう。ききょうは、これからはミルクではなく、離乳食に慣れさせる必要があるので、少し無理をしたが、それでもお腹が空いていたのか、よく食べた。これには正直、ホッとした。
 おひつが空になったので、おにぎりは作らなかった。哺乳瓶には、きくが白湯をもらって入れてきた。
 大仙道には六十九次の宿場がある。京都から出発しているわけではなかったので、残りの四十七次の宿場を通ることになるが、すでに三次は通り越してきた。全長百三十五里の大仙道に六十九次の宿場があるということは、おおよそ二里ごとに一つの宿場があることになる。僕はきくの体調を考え、無理をしない行程で行こうと思った。
 次の宿場では、昼食をとることにした。
 宿を出ると、山道が続いた。前方から武芸者たちが十人ほどやってくる。殺気立っていた。あたりには他に人はいなかった。
「きく」と僕は言った。
「わかっています」ときくは答えた。きくは懐に手を入れた。懐剣を握り締めているのだろう。
 僕らの距離は縮まってきた。すると、武芸者の一団は走り出し、僕らを囲った。
「私を知っての振る舞いだな」
「そうだ。鏡京介」と首領らしき者が言った。
 彼らは選ばれてきた者たちなのだろう。腕の立つ者らであることは分かった。
「きく、離れていろ」
 そう言うと、きくは離れた。
 武芸者たちは、きくを楯にとるつもりはないようだった。あくまで目当ては僕だった。
 僕はゆっくりと定国を抜いた。
 相手も刀を抜いた。そして、すぐに走り寄って来た。最初の者の剣はかわすのが精一杯だった。それほど素早かった。その間に、次の者の剣が襲ってきた。これは刀で弾いた。そして、もう一人の剣が襲ってきた。僕は一歩引くと、その者の腕を斬り落とした。そして、すぐに腹を刺した。
 その時、僕の背後の者の剣が振り下ろされた。普通ならそれで斬られているだろう。だが、僕は飛び退いて、その剣を外して、逆に定国で頭から斬り落としていった。
 左右の者が剣を突き出してきた。それを避けながら、その者たちの脇腹を定国で刺していった。
 そして、正面を向くと、最初に斬り付けてきた者を袈裟斬りにした。
 まだ、五人が残っていた。彼らは一斉にかかってきた。僕は時間を止めるしかなかった。時間を止めて、輪を描くように彼らの腹を切り裂いていった。そして、時間を動かした。
 僕は血しぶきを全身に浴びていた。
 腹を切られた者は何が起こったのか分からなかっただろう。振り向いて、なおも僕を斬ろうとしたが、腹から腸がはみ出してきて、僕を斬るどころではなかった。
 この者たちは、やはり選び抜かれ者たちだったのだろう。それが刀の鋭さに表れていた。やり合ってみて、よく分かった。しかし、それでも、僕を討ち果たせなかった。
 僕はきくのもとに行き、台車を押しながら、相手が次にどういう戦法で来るのか、考えた。正攻法が失敗したのだから、今後は彼ららしいやり方で、攻めてくるのに違いなかった。
 僕は崖の下を川が流れているのを知った。
 きくに待っているように言って、僕は崖下に降りて行った。手裏剣が無数に飛んできた。僕は油断していた。しかし、定国が鞘から飛び出すと、それらの手裏剣を叩き落としていった。僕は定国を掴むと手裏剣の飛んできた方向に走った。そこにいた八人ほどの忍びの者を定国で斬り捨てていった。もう、相手になるような者はいなかった。
 僕は河原に降りていき、着物を脱ぐとそれを川の水で洗った。赤い血が川の流れにのっていった。着物を踏み洗いして、血を洗い落とすと、僕は強く絞った。着物はこれしかないから濡れたままでも着るしかなかった。帯も洗って締めた。草履も洗った。一通り洗うと、僕は定国を腰に差して、崖を上がっていった。
 濡れた着物を着ている僕を見ると、きくは「次の宿場で着物を買いましょう」と言った。僕はきくが気遣ったように着替え用の着物も必要だなと思った。
「そうだな」ときくに言った。

 次の宿場に着くと、古着屋を探した。通りの中程にあった。そこに入り、僕が着れそうな着物を探した。この時代にしては背の高い僕に合う着物はそれほどなかった。紺色の物を選ぶとそれをあてがってみた。ちょうど丈が合っていた。それを買うことにした。僕は「ここで着替えてもいいですか」と店の者に訊くと、いいと言ったので、部屋の隅で着物を着替えた。帯は濡れていたがそれほど気にならなかったので、そのまま締めた。
 まだ濡れている草履を履くと代金を払い、その店を出た。
「何か食べるか」と僕が訊くと「はい」ときくが答えたので、近くの蕎麦屋に入った。
 ざるそばを三人分注文した。隣の席で食べている商人の鴨南蛮がとても美味しそうに見えたので、それも追加注文した。
 僕はざるそば二枚を食べるときくは一枚食べて、鴨南蛮は二人で分け合って食べた。ききょうにも沢山食べさせた。
 僕が武芸者たちと戦っている時に、きくはききょうに白湯を飲ませたようで、空になった哺乳瓶を持って厨房に行った。そして白湯を哺乳瓶に入れて持ってきた。
 代金を払って蕎麦屋を出た。
 台車を押しながら、僕らは大仙道を下っていった。
 この先には、大きな湖があった。そこでは一帯に温泉が出るので、湖の周りには宿屋がいっぱい並んでいるはずだった。
 今日はそのどこかに泊まるつもりだった。