小説「僕が、剣道ですか? 5」

 ききょうのミルクを作ると、家老屋敷を後にした。

 家老の屋敷を出る時、くれぐれも僕たちに関わらないように言った。もし、それが守れないなら、ここに戻ってきて、皆殺しにすると言った。

 島田源太郎はしぶしぶ頷いた。道中手形と添え書きも書いてくれた。

 

 僕たちは堤道場に向かった。朝方、不躾ではあったが、背に腹は代えられなかった。

 たえなら朝餉の用意はしてくれるだろう。

 堤道場に着いたのは、午前七時頃だろうか。通用口の戸を叩くと、たえが戸を開けてくれた。

「あら、鏡様」と言った。僕の後ろに隠れるようにしているきくを見付けると、「おきくさんも」と言った。

「おはよう」と僕が言うと、たえは「おはようございます。そんなところにいないで、お入りください」と言った。

 僕らは座敷に通された。僕が着物姿でないことについては、たえは何も言わなかった。

 しばらくすると、今は指南役になっている堤竜之介が座敷に入ってきた。僕が座布団から降りて挨拶しようとすると、「そのままでいいですよ」と言った。

「久しぶりですね」

 堤の言葉遣いは前とは変わってはいなかった。

「堤先生こそ、御指南役で大変でしょう」

「いやいや、それほどのことはありません」

「城崎さんはどうしているのですか」

 僕はつい城崎を旧姓で呼んでしまった。たえと結婚して婿養子になったことを忘れていた。

「彼の母が危篤で実家に戻っています」

「そうでしたか」

 城崎がいないことが都合良かった。

 僕は姿勢を改め、今まで起きてきたことをかいつまんで、堤に話した。

「そういうことですか」

 堤も指南役として白鶴藩の藩政に身を置く身だった。今日、僕が町奉行所の牢屋や家老家で行ってきたことは、白鶴藩の藩政に身を置く者としては見逃せるはずはなかった。しかし、僕の言い分は、それは白鶴藩のためでもあったということを信じたのだろう。

 僕が身なりを整えず駆け込んできたことは、何よりも急を要していたことを証するものだった。

「そういうことなら、朝餉はまだでしょう。ゆっくりと食べて行かれるがいい。大仙道で江戸に向かうにしてもこれから大変でしょうから」

 堤には二心はないようだった。とにかく腹が減っていた。僕は堤に甘えることにした。

 たえの給仕で朝餉を沢山食べた。きくもききょうも昨日からろくなものは食べていなかったのだろう。きくもだが、ききょうも味噌汁を掛けたご飯をよく食べた。そしてミルクもよく飲んだ。

 お腹がいっぱいになると、ききょうは眠くなったようだ。横にした抱っこ紐の中で眠っていた。

「具体的に、これからどうされるつもりですか」と堤が訊いた。

「これだけの荷物を持って歩くのは、容易ではありません。町に出たら、台車を買おうと思っています。それから、口留番所の手前の宿場で今日は泊まり、明日、大仙道に出るつもりです。そして、江戸に行こうと考えています」と僕は答えた。

「そうですか。わたしにできることはありますか」

「いや、何もしないでいただきたい。その方が双方のためです」

「わかりました」

 僕は部屋を借りて、革ジャンとジーパン姿から着物に着替えた。安全靴はショルダーバッグの外の風呂敷の間に挟んだ。

 その間に、たえは、おにぎりを作って渡してくれた。

 僕たちは、堤とたえに礼を言って、堤道場を後にした。

 

 途中の町で僕たちは押して進むタイプの台車を購入した。それに荷物を載せて押して歩いた。随分と楽になった。

 宿場に入ると、まだ日は高かったが、泊まることにした。最初に見た宿に入ると、個室で一人五百文だったがそこにした。昼間の料金も含まれているということだった。台車から荷物を部屋に運ぶと、畳に寝転がった。それだけで僕はもう眠っていた。

 昼はたえの握ってくれたおにぎりを食べて終わりにした。ききょうはミルクを飲んだ。

 きくが「これからどうするんですか」と訊くから、「言っているだろう。大仙道を通って江戸に行く」と言った。

「江戸ですか。きくは一度は行ってみたいと思っていました」

「大変な旅になるぞ」

「覚悟はしています」

「そうか。それなら良かった。それからききょうには、なるべく食べさせろ。持ってきたミルクでは江戸まで持つはずもないからな」

「はい。わかっています」

「そうか。それならいい」

 夕餉にはまだ時間があったが、交代で風呂に入ることにした。何と言っても一千両を超える金を持っているのだから、安心はできなかった。きくには何かあったら、叫べと念を押して、僕が先に風呂に入った。

 折たたみナイフで髭を剃り、腰ぐらいまでの風呂に浸かった。今日一日のことが走馬灯のように浮かんだ。

 最初は、牢屋にいたのだ。それから家老の屋敷に行き、それから堤道場を訪ねて、今はこうして風呂に浸かっている。それが一日の出来事には思えなかった。

 ゆっくりと風呂に浸かって上がると、きくと交代した。きくはききょうを連れて行った。おむつを洗うのに時間がかかると思った僕は、畳に寝転がった。うっかりすると眠ってしまいそうだった。

 そのうちにお膳が運ばれて来た。夕餉の支度だった。僕は窓辺に行って外を見ていた。外はまだ明るかった。

 昼がおにぎりだけだったので、夕餉は進んだ。僕は沢山食べた。ききょうにも味噌汁を掛けたご飯を潰して沢山食べさせた。ききょうは喜んで食べた。

 きくもよく食べた。

 家老の島田源太郎や堤竜之介には、大仙道を通って江戸に向かい、一連の首謀者を探し出して排除すると言って来たが、僕に何かの計画があったわけではなかった。

 とにかく江戸に行けば、どうにかなると思っただけだった。

 現代において、政府の関係者の一人を探し出して排除することがいかに困難かを考えれば、僕の考えていることは夢物語に過ぎなかった。しかし、その時の僕は、その考えにすがるしかなかった。