小説「真理の微笑 真理子編」

五十

 次の日の朝、介護タクシーを呼んで、真理子は高瀬を社長室まで連れて行くと、高瀬は車椅子から真理子の手を借りなくても自分で椅子に座った。

「俺は大丈夫だから、真理子は介護用の車の方を頼むよ」と言った。

「わかったわ」と真理子は応えると、社長室から出ていった。

 

 真理子は、ポルシェを買った自動車販売店に向かった。会社から介護用の車があるかどうか確認の電話をした。

福祉車両もいろいろ取り揃えておりますから、ご覧になってください」という返事が返ってきた時は、ホッとした。慣れない店に行くのは嫌だったからだ。

 自動車販売店に着くと、高瀬が希望していた助手席が回転して乗り降りでき、車椅子も後ろに積めるものを見せてもらうことにした。

 何台か見せられたが、どれもよく見える。なかなか決めるのは難しかった。このような車は初めてだったので、実際に乗ってみなければわからないと真理子は思った。

 そんな真理子を見ていて、店員が「もし、実際に乗ってみて合わないようでしたら、別のにも変えられますよ」と言った。

「こればかりは実際に試乗してみなければわかりませんからね」

 それを聞いた真理子は、「じゃあ、取りあえずこれにするわ」と言った。

「ありがとうございます」と店員は言った。

「手続きがありますので、こちらにどうぞ」と真理子を店内のカウンターに案内した。

 

 門の所まで真理子は車椅子を持ってきて、高瀬が介護タクシーで家に戻るのを待っていた。早く、福祉車両のパンフレットを見せたいからだった。

 高瀬は介護タクシーを降り、車椅子に乗って玄関の中に入った。そして、室内用の車椅子には乗らず、真理子に支えられて、椅子式昇降機に座った。

 高瀬が二階のリビングに入ると、そのテーブルには、いっぱいカタログが広げられていた。それを高瀬に見せて、選ぶというより、それだけ真理子が熱心であったことを見せたかったのだ。実際、高瀬がパンフレットを手に取る前に、真理子はその中から、シルバーの助手席回転スライドシート車のパンフレットを高瀬の目の前に出してきて、「これに決めたわ」と言ったのだった。

「明後日、納車するって。試乗して良かったら、そのまま買うことにするわ」

 高瀬は「分かった」と言うだけだった。

 明後日は土曜日だった。

 

 高瀬は毎晩、真理子を抱いた。そして、毎晩、真理子も高瀬に抱かれた。

 高瀬に抱かれていくうちに、富岡に抱かれていた記憶がなくなっていき、真理子には高瀬に抱かれることが自然に思えてきた。そして、高瀬が愛おしくなっていった。

 

 土曜日、介護タクシーで高瀬が会社から帰って来るのを、真理子はディーラーと一緒に待っていた。

 家の前には、シルバーの福祉車両が届けられていたのだった。

 高瀬が介護タクシーから降りると、真理子は「どぉ、乗ってみる」と訊いてみた。

「そうだな」と答えた高瀬は、車椅子を自分で動かして、福祉車両の助手席のところまで行った。

「待っててね」と真理子が言うと、助手席のドアを大きく開いて、ボタンを押した。

 すると、助手席が全自動で回転し、スライドし、地面すれすれまで降りてきた。

「乗ってみて」と真理子が言うと、高瀬は車椅子から立ち上がり、その助手席に自分で座った。真理子がボタンを教えると、それを押した。助手席は自動で上がり、スライドして車の中に入ると、回転して止まった。

 車椅子をトランクに収納した真理子は、「少し走ってきますね」とディーラーに言って、車を発進させた。

「どう、乗り心地は」と真理子が訊くと「とてもいい」と高瀬が答えた。

 戻ってくると、真理子はディーラーに「これに決めたわ」と言って、その福祉車両を購入した。

 

 ボーナスが出る日だった。

 午前九時に福祉車両で高瀬を送り届けると、社内の空気が弾んでいるのがわかった。

「社長、こんなにいいんですか」

「はずみましたね」

 それらの声に高瀬は、手を上げて応えていた。真理子は車椅子を押して高瀬と社長室に入り、ドアを閉めた。喧噪から解放された。

「みんな喜んでいたわね」

「そりゃそうだろう。通常のボーナスに加えて百万円もの特別ボーナスを支給したんだから」

「トミーワープロのおかげね」

「そうだね」

 そういう高瀬の口を封じるかのように真理子は高瀬にキスをした。トミーワープロのおかげね、とは言ったが、真理子は、本当は、あなたのおかげね、と言いたかったのだ。

 

 高瀬を会社に送ると、その帰りにスーパーの衣料品店に寄って、高瀬のサイズに合う下着類をいっぱい買った。

 そして家に戻ると、富岡の下着類をゴミ袋に詰めて、空いたスペースに今日買ってきた高瀬の下着類を収めた。

 ゴミ袋に詰めた富岡の下着類を、ゴミ捨て場に持って行こうとした時、玄関の下駄箱が目に入った。真理子は新しいゴミ袋を持ってくると、下駄箱にあった富岡の靴もゴミ袋の中に全部詰めた。そして下着類と一緒にゴミ捨て場に捨てた。

 

 高瀬を迎えに会社に行き、家に戻ってくると、郵便受けにチラシがいっぱい入っていた。出かける前に郵便受けの物は、一度真理子が取り込んでおいただけに、いつの間にそんなにチラシが入れられたのだろうと、真理子は思った。

 真理子がチラシを郵便受けから取り出すと、高瀬が手を出したので渡した。

 真理子は車椅子を押して家の中に入っていた。

 リビングに上がると、「ねぇ、真理子。今年はこれしてもらおうよ」と高瀬がチラシを見せた。郵便受けに入っていたチラシはハウスクリーニングのものだったのだ。

「ハウスクリーニングなら毎年してもらってるじゃない」

「そうなのか」

「いやねぇ、そんなことも忘れているの」

 真理子は、高瀬のことを富岡だと思っているように思わせるために、そう言った。

「全部の部屋をやってもらっているの?」

「ううん、トイレとバスルームに洗面台、それとキッチンかな」

「だったら全部の部屋をやってもらおうよ」

「全部」

「うん」

「あなた、書斎、いじられるの嫌がってたじゃない」

「そんなこと、今は構わない」

「寝室も」

「ああ」

「何だか、恥ずかしいわ」

「エアコンとか窓とか、床掃除してもらうだけなんだから、恥ずかしいことなんかないじゃないか」

「だって……」

「ベッドが乱れるのは、夜だけだよ」

「意地悪ね」

「そんなことないさ」

「わかったわ。明日、会社にあなたを送りに行ったら電話してみる」

「そうだね、いくつか電話して見積もり出させて、良さそうなところに頼めばいいよ」

「いつものところじゃ駄目」

「いつものところってどこ」

 真理子はチラシの一つを出して、高瀬に見せ、「いつもここに頼んでいるの」と言った。

「だったら、そこに頼めば良いさ」

「そうするわ」

「今日の夕食は何」

「舌平目のムニエル」

「凄いね」

料理本とにらめっこしながら作るから、味はどうかな」

「真理子が作ってくれるものなら、何でも美味しいよ」

「嬉しいこと、言ってくれるのね」

「だってほんとのことだからさ」

「わたしね、今度、料理教室に通おうかと思っているの」

「そうなの」

「ええ」

「どうして」

「だんだんレパートリーがなくなってきたんだもの」

「そうなんだ」

「あなた、退院してきてから毎日、家で食事しているでしょ」

「ああ」

「前のあなたはそうじゃなかったのよ。どこかのクラブやバーに行っていて、帰って来るのも午前様が多かったんだから」

「ふ~ん」

「だから、わたし、毎日料理作る必要がなかったの。たまに早く帰ってきても、お茶漬けがあればいいって感じだったわね。いくら、わたしが作って待っていても関係なかったわね」

 真理子は腕によりをかけて料理を作って待っていた時の自分を思い出していた。

「でも、あなたは変わった。わたしの料理を食べてくれる」

「そりゃ、そうだろう。こんな躰だからクラブやバーになんか行けやしないし、第一、酒が禁じられている。家で、真理子の美味しい手料理を食べるのが一番だ」

 真理子は立ち上がって、高瀬に抱きついた。

「嬉しいことを言ってくれるのね。わたし、あなたにもっと美味しいものを食べさせたい」

 そう言うと真理子は高瀬にキスをした。