小説「真理の微笑」

五十七

 家に帰ると、郵便受けにチラシがいっぱい入っていた。私は車椅子を押す真理子に代わり、それらを手にした。年末らしく、ハウスクリーニングの広告が多かった。

 これを見ている内に、私はこの家をハウスクリーニングしてもらいたくなった。

 富岡の痕跡は徹底的に消したくなった。

 リビングに上がると、「ねぇ、真理子。今年はこれしてもらおうよ」とチラシを見せた。

「ハウスクリーニングなら毎年してもらってるじゃない」

「そうなのか」

「いやねぇ、そんな事も忘れているの」

「全部の部屋をやってもらっているの?」

「ううん、トイレとバスルームに洗面台、それとキッチンかな」

「だったら全部の部屋をやってもらおうよ」

「全部」

「うん」

「あなた、書斎、いじられるの嫌がってたじゃない」

「そんな事、今は構わない」

「寝室も」

「ああ」

「何だか、恥ずかしいわ」

「エアコンとか窓とか、床掃除してもらうだけなんだから、恥ずかしい事なんかないじゃないか」

「だって……」

「ベッドが乱れるのは、夜だけだよ」

「意地悪ね」

「そんな事ないさ」

「わかったわ。明日、会社にあなたを送りに行ったら電話してみる」

「そうだね、いくつか電話して見積もり出させて、良さそうなところに頼めばいいよ」

「いつものところじゃ駄目」

「いつものところってどこ」

 真理子はチラシの一つを出して見せた。

「いつもここに頼んでいるの」

「だったら、そこに頼めば良いさ」

「そうするわ」

「今日の夕食は何」

「舌平目のムニエル」

「凄いね」

料理本とにらめっこしながら作るから、味はどうかな」

「真理子が作ってくれるものなら、何でも美味しいよ」

「嬉しい事、言ってくれるのね」

「だってほんとの事だからさ」

 真理子が少し改まって、「わたしね、今度、料理教室に通おうかと思っているの」と言った。

「そうなの」

「ええ」

「どうして」

「だんだんレパートリーがなくなってきたんだもの」

「そうなんだ」

「あなた、退院してきてから毎日、家で食事しているでしょ」

「ああ」

「前のあなたはそうじゃなかったのよ。どこかのクラブやバーに行っていて、帰って来るのも午前様が多かったんだから」

「ふ~ん」

「だから、わたし、毎日料理作る必要がなかったの」

 そうか、富岡の手帳には午後五時以降に幾つものイニシャルがついていた。という事は、家で夕食をとるなんて事はしていなかったのだ。

「たまに早く帰ってきても、お茶漬けがあればいいって感じだったわね。いくら、わたしが作って待っていても関係なかったわね」

 私は過去の自分を責められているような気分になった。

「でも、あなたは変わった。わたしの料理を食べてくれる」

「そりゃ、そうだろう。こんな躰だからクラブやバーになんか行けやしないし、第一、酒が禁じられている。家で、真理子の美味しい手料理を食べるのが一番だ」

 真理子が立ち上がって、抱きついてきた。

「嬉しい事を言ってくれるのね。わたし、あなたにもっと美味しいものを食べさせたい」

 そう言うとキスをしてきた。私は真理子を抱き留め、その潤った唇を十分堪能したのだった。

 

 夜のベッドは激しかった。終わった後、真理子は再びシャワーを浴びに行った。

 戻ってきて一息ついたところで、尋ねてみた。

「入院中、真理子のご両親もうちの両親も面会に来なかったけれど、どうしてだろう」

「知らなかったの」

「何も覚えていないんだ」

「あなたのお母様は認知症で千葉にある施設に預けられているわ。お父様は五年前にお亡くなりになった」

「そうだったのか」

「わたしの両親はもう亡くなっているわ。母は十年前に、父はその三年後にね。去年、父の七回忌をやったの、覚えていないの」

「うん、全然。うちの父は何をやっていたんだろう」

「普通の会社員よ。何て言ったかな、確か大手の証券会社の子会社に勤めていたと思ったけれど」

「真理子のお父さんは」

「うちは自動車修理工場をやっていたわ。わたし、小さい頃、自動車の下に入って、よく遊んだもの」

「へぇ~」

「車のタイヤ交換や、簡単なエンジントラブルならすぐ直せるわ。父から教わったもの。父はわたしが男だったらなぁ、と良く言っていたわ。工場を継いで欲しかったのね」

「父親ってのは、大抵そんなもんだよ。子どもに跡を継がせたくなる」

 そう言うと、真理子は黙った。それから「そうよね、そういうもんよね」と言った。

 真理子は一瞬、沈黙した。私が「子どもに跡を継がせたくなる」と言った後にだった。それは偶然なのか。それとも由香里の事を知っているのか。

 いや、そんな事はない。由香里の事は知らないはずだ。私の思い過ごしに過ぎない。真理子は自分に子どもがいない事を気にしたのだ。トミーソフト株式会社がいくら大きくなっていっても後継者がいない。真理子は自分に子どもができにくい体質なのを気にしたのだ。そして、私が子どもを欲しがっていると思ったのだ。

 私は真理子を抱き寄せた。真理子がいればいい、そう口には出さなかったが、抱き締める事でその思いを伝えたかった。