小説「真理の微笑」

四十

 夕食が終わった頃、真理子が病室に来た。私はセーフティーボックスの鍵を左手首から外して、パジャマのポケットに入れていた。真理子とキスをする時に首に回した手に鍵がぶら下がっていたのではまずいと思ったからだった。

 真理子が「今日はどうだった」と訊いた。午前中にきた開発部の連中とどうだったのか、知りたかったのだろう。

「上々だった」

「そう」

「会社のホストコンピューターに接続する方法を教えてもらったよ」

「それ何」

「ここから会社のコンピューターに接続できるんだ」

「わからない」

「真理子が分からなくてもいいよ。とにかく、パソコン通信できるようにしておいてよかった、って事」

「そう」

「今日は、松葉杖を使って立つ練習をしたんだ。これが結構難しくってね。松葉杖で歩けるようになれば、自分でトイレに行けるようになる。そうすればおむつもとれる」

「今はどうしているの」

「行きたくなったら看護師を呼んで、トイレまで連れて行ってもらっている。だけど、いつもすぐ来るとは限らないからね。自分でトイレに行けるようになるまでは外せないかな」

「そうなの」

「ああ」

「明日は設計士の人が来るの」

「いつ頃」

「午前九時。だから、会社にも行けないし、病院にも来られない。家を片づけておかなくちゃいけないから。夜なら別だけれど」

「いいよ、毎日来るのは大変だろう」

「それはそうなんだけれど、家にいてもする事がないから」

「じゃあ、前はどうしていたんだよ」

「ほんとね。どうしていたのかしら」

 それからほどなく、キスをして真理子は帰っていった。

 

 午後十時少し前に、あけみから電話がかかってきた。

「富岡です」と言うと「明日は、絶対に行くからね」と言ってきた。

「いいよ」

「良かった。会いたかったの」

「分かったよ」

「いつがいい」

「午前九時頃、来られる」

「夜、遅いから、朝は苦手なんだけれど、午後はだめなの」

「リハビリとか検査なんかで、ゆっくりとした時間が取れない」

「そう。それじゃあ、仕方ないわね」

「無理に来なくてもいいんだよ」

「行くわよ。意地悪ね」

「分かった。待っている」

「待っててね」

 そう言うと電話は切れた。

 私は真理子が帰った後に、ポケットから取り出して左手首にかけた鍵を見た。

 これで約束したお金を明日渡せる。