二十五
屋敷に戻ると、明日の準備をした。
革手袋は、昨夜渡されたが、綺麗に縫われていた。
九月の下旬ともなると夜の山は寒い。なるべく温かい格好をして行くことにした。
シューズは念のため、もう一足も持っていくことにした。
きくが、餅と乾燥させた柿や葡萄を持たせてくれた。それらを袋に詰め、オーバーのポケットにしまった。シューズは背中のポケットに入れた。
夕餉の席で、家老から「明日、飛田村に行くんだな」と念を押された。
「はい」
「山奉行には伝えたのか」
「伝えました」
「そうか。やはり、行くのか」
佐竹が「無茶はしないでくださいね」と言った。
「分かっています」
寝床の中で、きくが「ききょうがてて無し子になるのだけは、止めてくださいね」と言った。
「ああ」と言いながら、きくをしっかりと抱き締めた。
次の日、きくは、早めに起きて、竹水筒におにぎりを二つ用意していた。
僕は少し多めに朝餉をとって、着替えた。
上はヒートテックの肌着に厚いシャツ、そしてセーターにオーバー、下はヒートテックのズボン下にジーパンに厚手の靴下。靴下はもう一足、少し薄手のがあったから、それはシューズと一緒にオーバーの背中のポケットに入れた。その時、肌着ももう一着入れた。これはヒートテックではなかった。
これではまるっきりの現代人に見えてしまうから、オーバーの上から羽織を着ようとしたが、上手く着られなかった。オーバーを脱いで風呂敷に包んで持ち、羽織を着て、帯を締めた。そして刀を差した。
少し変な格好だったが、早朝だったから、人はいない。
そのまま屋敷を出た。
門の所に、佐野助が待っていた。重ね着をした上に、毛皮のコートのような物を着ていた。寒さ対策なのだろう。
「さぁ、行こうか」
「へぃ」
山に入ると、佐野助の方が先に音を上げた。
「鏡の旦那、速すぎますぜ」
「そうか」
「そんなんだったら、すぐ疲れてしまいますよ」
「私は平気だがな」
私は不思議と疲れなかった。むしろ、佐野助の手を引いてやるくらいだった。
「全くとんでもないお人だ」
歩きづめで、お昼頃になると、佐野助は「少し休みましょうよ」と言った。毛皮のコートのような物は歩き出してからは脱いでいた。
「そうだな」
僕は近くの岩に腰を下ろして、きくが握ってくれたおにぎりを一つ食べた。もう一つは夕食にしようと思っていた。
食べ終えると、また歩きが始まった。
「旦那がこんなに速いとは思わなかったな」
佐野助がぶうぶう言っている。それには関わらず、僕は先を急いだ。
「この分なら、明日の午前中には着きそうですね」と佐野助は言った。
「そうか」
林の間を、道なき道を抜けていった。
山の夜は早い。午後三時ごろには、半分陰り出した。
その時、沢に出た。
水筒の水を飲み、新たに水を汲んだ。
少し下流の広い所に、ヤマメが游いでいた。かなり大きかった。
「竿でも持ってくるんだったなあ」と佐野助が言っている頃、僕は、上を脱いでいた。
「何してるんです」と佐野助が訊いてくる頃には、一匹目がすくい上げられて、地面に落ちていた。すぐに二匹目がすくい上げられた。
僕は地面に這いつくばって、水面から沢の中に手を入れていた。そして、游いでくるヤマメを捕まえては、放り出していたのだ。
四匹捕まえたところで、「こんなもんか」と言ったら、「後二匹捕まえてくださいよ」と佐野助は言った。佐野助は昼食は食べていなかったのだ。僕はもう一つおにぎりを持っていたが、もちろん、佐野助にやる気はなかった。佐野助は佐野助でなんとかするだろうと思っていたからだった。でも、何も考えずに山に入ってきたのだ。
食べ物のことぐらい考えろよな、と僕は思った。
取りあえず、後二匹すくい上げると、僕は手ぬぐいで躰を拭いて、脱いだ物を着た。
佐野助は、大きな木の枝を折り、ヤマメをそれに突き刺して歩いた。
あたりはすっかり暗くなった。そして、寒くなった。
「このあたりで夜を明かすか」と僕が言うと、「そうですね」と佐野助も同意した。
木の葉と木の枝を集めて、火打ち石で火をつけた。
その周りに、木の枝に刺した六匹のヤマメを囲むように並べた。
魚の焼ける良い匂いが漂ってきた。
反面の皮が黒焦げになったところで、ひっくり返した。
その反面も黒焦げになったが、佐野助は「まだですよ」と言った。
その間に、僕はきくの作ってくれたおにぎりを食べていた。
いよいよ、ヤマメが焼けた。
かじりついた。芳ばしい香りとともに、うまみの詰まった肉が口をいっぱいにした。
おいしかった。二匹をすぐに食べてしまった。
佐野助は四匹のうち、三匹を食べていた。
竹水筒から水を飲んだ。
ますます冷え込んできたが、オーバーを着ている僕には寒さは無縁だった。佐野助は毛皮のコートのような物に包まれていた。
火を消した後、眠りに落ちた。