二十-2
屋敷にすぐ戻る気にはなれなかった。
町をぶらついていた。到る所で、「よっ、真剣白刃取り」と声をかけられた。
蕎麦屋の前を通ると、「奢るから、話を聞かせてよ」と言う若い旦那風の男に声をかけられたりもした。
ある角に何かの飾りを作っている職人がいた。
その脇を通り過ぎようとしたら、「あんた、鏡の旦那だろう」と言う。
「そうだ」と答えると、「いつか勇太を助けてくれたんだよな」と言った。
「誰を助けたって」
「勇太だよ、川で溺れかけていた」
「ああ」
僕はそう言われて思い出した。
「おなみさんに会いに行くんだろう」と訊かれたので、「いいや」と答えたが、「おなみさんならそこの長屋だよ」と教えてくれた。
別になみに会いに来たわけでもなかったが、そこの長屋だよ、と言われると、ふらりと引き寄せられるように長屋に向かう通りを入っていった。
中程に井戸があり、その回りが洗い場になっていた。何人かの中年の女性が洗い物をしていた。
僕が入っていくの見ると、「あら、鏡の旦那」と声をかけられた。一人がそう言うと、一斉に目が向けられた。
「どうして私を知っている。会ったこともないのに」
「そりゃわかるわね」と一人が言うと「そうそう」と皆が頷いた。
「背が高くて、若くて役者のようないい男と言ったら、あんたぐらいしかいないじゃないか」
「それから真剣何とか取りとかいう凄い技も持っているんだってね」
「このあたりじゃ、知らない人なんかいないよ」
「それに、そこの勇太が川で溺れているのを助けてくれたんだよね」
「あっ、そうだ。そういうこともあった」
「あんたには、おなみさん、感謝していたよ」
「そうそう」
「そうですか」
「おなみさんに会いに来たんだろ」
「あいにくだったわね」
「今、お客さんが来ているんだよ」
「別に会いに来たわけじゃないんで」と言っていたところで、端の戸が開いて、中から若い男が出てきた。なみも出てきて、頭を下げた。その男は長屋を出て行った。
「あっ、帰って行くよ」
「ちょうど、良かったじゃない」
中年の女性の一人が、僕の着物の袖を引っ張って「おなみさん」と声をかけた。
なみは「あら」と言ってビックリしたような顔をした。そして、「ちょっと中をかたづけますね」と言って部屋の中に入っていった。
「若い男がちょくちょく来るんだよ」
「呉服屋の若旦那だよ」
「そうだね」
ここにはプライバシーってものがないのか、と思った。
しばらくして、なみが「どうぞ」と僕を呼んだ。
「あー、お金を払っても抱かれたいよね」
「いい男だもんね」
「おなみさんが羨ましい」
僕は完全に、彼女を抱きに来た者と思われているのか、と思った。
僕が部屋に入り、なみが戸を閉めると、直前までの男女の営みの気配がまだ漂っている感じがした。二方向の窓は開けられていた。部屋の隅に布団が畳まれていた。
「今日に来て、済みません」
僕はそう言った。
「いえ、いいんですよ。でも、見られたくないところをお見せしてしまいましたわ」と言った。
「お裁縫をしていると言ったけれど、それだけじゃあ、暮らしてはいけないんですよ」
「はあ」
「お茶を出さなくちゃ」と言って、やかんをかまどにかけようとしたが、火はおこしていなかった。その時、戸を叩く音がした。
なみが開けると、「はい、お茶」と言って、おそらく隣に住む女性がお盆に載せた湯呑みを二つ持ってきた。
「ありがとうございます」と言って、なみはそれを受け取った。
僕が「頂きます」と言って、お茶に手をつけると、「その節は、ありがとうございました」となみは両手を畳に突いて頭を下げた。
「勇太とか言う男の子はどこに」と訊くと、「子どもたちと遊びに行っているんでしょう。暗くなると帰ってきます」と言った。
「そうですか」
「わたしに何か御用でもありましたか。御礼が十分ではないのはわかっていますが」
「いや別に、ただ通りがかったものですから、気になって来てしまいました」
「わたしにできることなら何でもします」とにじり寄ってきた。
僕はなみの両肩を持って、「ただ、来てしまっただけですから」と言った。
「わたしのことを、忘れないで来てくださったんですか」となみは嬉しそうに言った。
そういうことじゃないんだけれど、と思ったが、口にはしなかった。
「ちょっと考え事をしているうちに、偶然こっちに来てしまったのです」
炊事場があるだけの一間の部屋だった。
ここになみと勇太が暮らしている。こんな暮らしを普通の町人はしているのだ。僕は恵まれているのだ、と思った。
「私はこれで帰ります」
「そんな、今、来たばかりではありませんか」
「ただ、立ち寄っただけですから」と言って立ち上がったら、なみも立ち上がり、急にふらついた。そのままでは倒れそうに思ったので、抱きかかえた。すると、なみの両手が首筋に回って、抱きついてきた。そして、あっという間に、口づけをしていた。
口を離した後、「わたし、血が薄くて、時々目眩がするんです」と言った。
なみから躰を離した僕は、「ちゃんと食べていないからです」と言った。
そして、巾着から一両を出して、「これで精のつくものを食べてください」と言った。
なみは「これはもらえません」と返そうとしたが、現実の一両には勝てなかった。
それを返す振りをして、僕の手を掴んで胸元に入れた。
「なみをお抱きください」
「いや、結構」
僕はなみを離すと、草履を履き、戸を開いた。そこに聞き耳を立てている人がいっぱいいた。
その人たちをかき分けて、外に出た。
「すげぇ、一両だ」と言う声が聞こえてきた。
そのまま僕は通りに出た。
そして、溺れた子どもを助けた良い思い出を、悪い思い出に変えたことを後悔した。