小説「真理の微笑 真理子編」


 ホテルの部屋に入ると、病院に電話をして部屋番号を伝えた。これで富岡に何かがあれば連絡が来るだろう。
 疲れがどっと押し寄せてきた。このままベッドに倒れ込みたくなったが、そうすれば起き上がることは難しそうだった。
 着替えなどを詰めてきた旅行鞄をクローゼットにしまい、ハンドバッグはサイドテーブルに置いた。服を脱ぎ、これもクローゼットのハンガーに吊るした。
 ブラジャーとパンティをとるとシャワーを浴びた。頭から疲れが流れ出していくようだった。
 あの手の結婚指輪を見た時、計画が失敗したことを悟った。しかし、心のどこかで病院からの、夫の容態の急変を知らせる電話が来ることも期待していた。
 バスルームから出るとバスローブを羽織り、髪を拭いた。
 そこまでするのがやっとだった。
 躰をベッドに横たえると、睡魔が襲ってきた。

 目が覚めると午後三時を過ぎた頃だった。ホテルに入ったのが午前八時前だったから、七時間ほど眠っていたことになる。
 まだ今日の出来事だったが、病院から電話があってからの数時間があっという間のようだった。中央自動車道を高速で走らせていた気分から抜け出し切れてはいなかった。
 シャワーを浴びて、旅行鞄から出した新しい服を着ると、ハンガーに掛けてあった服はクリーニングに出した。今日のクリーニングの受付は終わっているので、明日の朝、クリーニングし、夕方には仕上がっていると答えたので、それでいいと言った。
 道路を隔てた向かいが病院だったので、ポルシェには乗らずに歩いて病院に向かった。
 三階のICUに向かうと看護師に、富岡の容態を訊いた。帰ってきた答えは昨日と同じだった。そこのソファに座っていると、一人の医師が声をかけてきた。彼に案内されて、事務室のような殺風景な一室に入った。細長い机と椅子があるだけだった。
 奥の椅子に、医師は腰掛けると、机を挟んだ反対側の椅子を、真理子に勧めた。真理子はその椅子に座った。
 医師が口火を切った。
「当面は容態の安定を待つしかありません。今は危険な状態なので、注意して見守っているしかありません。この先のことですが、ご主人は全身火傷は免れましたが、上半身に重度の火傷を負っていて危険な状態です。今は適度な管理の下で火傷の箇所を冷やしている状態です。専門用語は使いたくないのですが、上半身の大半はⅢ度熱傷の状態です。しかも、火傷の範囲が広いので、全部を自然治癒に任せるわけにもいきません。どうしても皮膚移植が必要になりますが、ここの病院ではこれほど広範囲のかつ重度の熱傷には、対応しきれません。それともう一つ問題があります。それは顔です。顔面がフロントガラスに突っ込んだせいでほとんど元の形状を留めないほどに、複雑に骨折しています。これを形成する技術は当院にはありません。そこで、容態が安定してきたら転院を勧めます。と言うより、それ以外の方法がありません」
「そんなにひどいのですか」
「ええ。隠していても仕方ありませんが、はっきり言って、助かったのが奇蹟なくらいです。いえ、まだ助かったと申し上げるのは尚早かも知れません。重篤な状態であることには変わりはありませんから。しかし、うちの病院ではこれ以上の治療はできません。だから、転院を勧めているのです」
「転院先は紹介してもらえるんでしょうか」
「それは今やっています。こちらの患者の状態を詳しく説明して、それでも受け入れてくれる病院といったら日本にそう幾つもないでしょう。今、その一つに打診しているところです。いい返事がきたら、知らせます。そして、ご主人が移送に堪えられるようであれば、その機会を見計らって移送することになります」
「わかりました、お任せします。どうぞ、よろしくお願いします」
 会話はこれで終わった。ICUの外側から、富岡らしい男の横たわるベッドを眺めて、ナースステーションに寄ってから病院を出た。ナースステーションでは、新しい情報は得られなかった。

 ホテルに戻った。
 部屋は掃除され、シーツは新しいものに取り替えられていた。そこに、ハイヒールを脱いで、そのまま横たわった。
 この先どうなるのだろう、と思った。
 富岡は今は意識不明の重体だ。しかし、そのうち、治るだろう。悪運の強い富岡のことだ。治るに違いないと思った。
 その時、ブレーキのことを思い出すだろうか。
 仮に思い出したとしても、車の故障と思うだろう。
 そのあたりのことが頭の中で揺れていた。
 その時に電話が鳴った。受話器を取るとフロントが出て、「外線からお電話が入っているのでお繋ぎします」と言って切り替わった。
 電話は警察からだった。
 今朝会った中年の警察官のようだった。
「現場検証が先程終わったようです。よろしかったら、そちらに出向きますがどうでしょうか」
「疲れているので、電話で済むことなら、そうして頂けませんか」
「わかりました。端的にお聞きします。ご主人は、自殺されるようなお方ですか」
 真理子は警察官の言っている意味がわからなかった。
「どういうことですの」
「あのですねぇ、現場検証した者からの報告によると、現場の道路にブレーキ痕がなかったということなんですわ」
「…………」
「普通、カーブや急な坂道にさしかかればブレーキを踏みますよね。特に事故に至るような時には、おそらくスピードを出しすぎていたことも多く、カーブにさしかかるとブレーキを踏むんですよ。それが道路に痕跡として残るもんなんですが、今回の事故の場合、それが見当たらないと言うんですよ」
「…………」
「ご主人がお酒を飲んでいなかったことは、体内からアルコールが検出されなかったことを医者から聞いてわかっているんです。ということは、下りのカーブに差し掛かったのにもかかわらず、しかもアルコールで酔っ払っていなかったにもかかわらず、ブレーキを踏まなかったことになる。よそ見をしていなかったと断言できる訳ではありませんが、あれだけカーブがある坂道ですよ。よそ見をする余裕なんかないでしょう。しかも夜間ですよ。とすれば、自殺を試みたと考える他はないんですよ」
「主人は自殺するような人じゃありません」
 真理子はそう言ったが、すぐに『そう言えば、悩んでいたような様子はありましたが、主人は自殺するような人ではありません』と言えば良かったと思った。
「そうですか。となればブレーキか何かの故障だったんですかね」
 警察官が、ブレーキの故障と言った時は、真理子の心臓は飛び出しそうなほどドキッとした。
「とにかく、明日、車体を引き上げるんでそれで原因もわかるでしょう」
 真理子は落ち着かなくなった。ブレーキの細工には自信があった。あれを故意にした細工だと見破るのは、よほどの技量をもった者でないとわからないはずだった。
 しかし、ブレーキ痕が全く無いというのは、想定外だった。ブレーキ痕は付くが完全にはブレーキが利かずに車が転落するというのが、想定していたことだったからだ。
 どうしてそうなったかは真理子にはわからなかった。しかし、事故車については、警察でも調べるが、その自動車を製造した所でも調べる。事故の原因が車にあるとすれば、それを究明しなければならないからだ。
 真理子は自分の細工に自信を持つしかなかった。
 躰は疲れているのに、不安が頭を冴えさせていた。