小説「真理の微笑 真理子編」

二-2

「夫は事故に遭ったのは不運でしたが、その中でも運が良かったということでしょうか」
「ええ、昨夜のような事故が起これば、一応はパトカーや救急車、消防車が出動しますが、怪我人が路上に倒れている場合なら助けることも可能ですが、崖下に落ちている場合は、普通は翌日の捜索ということになるのです。ところが、今回の場合には、たまたま木に引っかかっているご主人をすぐに見つけたのと、その木の位置が救助するのにそれほど難しい場所ではなかったという偶然に救われたのです」
「そうでしたか」
「ご主人は救えたのですが、身元を示すものが焼けてしまっていて、最初は誰だかわからなかったのです。しかし、ナンバープレートから所有者がわかったものですから、病院に伝えたのです。その後で、お宅に電話をしました」
「ええ。夫の容態が気がかりだったものですから、急いでこちらに向かいました」
「そうでしょうね、事故については、現場検証が九時ぐらいから始まります。もう警察の者が現場に向かっているところです」
「事故現場は蓼科の山奥なのでしょうか」
「ええ、山奥と言っても、ここからなら二時間か二時間半ぐらいの所です。もっともパトカーで向かうとしたらの話です。山はカーブが多く速度制限があるので、乗用車で行くとしたら、もっとかかるでしょう」
「そうですか」
「お訊きしたいことが一つあるのですが」
「何でしょうか」
「お車に乗っていたのは、ご主人なんですよね」
「ええ」
「別の人に車を貸していたというようなことはないでしょうね」
「ありません。どうしてそんなことを訊くのですか」
「さっきも話したように、身元を確認できるようなものがなかったからです。財布や免許証は持っていたでしょうが、おそらく事故の際に焼けてしまったのではないかと思いまして……」
「…………」
「何しろ、本人を確認するものを本人が所持していなかったのです」
 その時に看護師がやってきた。
「主人はどうなんですか」
 真理子はソファから立ち上がって訊いた。
 看護師は「相変わらずです。まだ、危険な状態であることには変わりありません」と言った。変に家族に希望を持たせて、後でクレームをつけられるのを恐れているかのようにも見えた。
 中年の警察官が、「これを見てもらえませんか」と言った。それは焼けただれた人の手だった。真理子はすぐに顔を背けた。
「何ですの、それ」
「これはご主人の左手です」と警察官は言った。
「お医者さんから説明がありませんでしたか」
「何がですか」
「顔のことです」
「顔?」
「ええ」
「いいえ」
「そうなんですか」
「それがどうかしたんですか」
「いや、なに……」
 警察官は、しまったとでも思っていたのだろう。しかし、言い始めてしまったものだから、途中で止めるのもおかしな話だった。仕方なく続けた。
「ナンバープレートから車の所有者はわかったのです。それと同時に免許証も照会しました。免許証には顔写真が載っていますよね」
「ええ」
「それで本人かどうか確認しようとしたのです」
「…………」
「しかし、事故が事故なものですから、顔からは本人かどうか判別がつかなかったのです」
「主人の顔は傷付いているんですか」
 真理子は少し大きな声で言った。
「ええ、詳しいことは私たちもわからないのですが、顔から本人だということが確認できなかったのです」
「そんな……」
「それでですね。現場に駆けつけたパトカーの警官が現場の写真を撮ったのです。これは現場の状況を保全するためです。そのうちの一枚がこの手の写真なのです」
 そう言って、警察官は、もう一度、写真を真理子の方に差し出した。やはり焼けただれた左手だった。しかし、よく見ると薬指に指輪をしているのがわかった。
 警察官が「薬指に指輪をしているでしょう」と言ったので、真理子は頷いた。
「これがその指輪の拡大写真です」と言って、警察官はもう一枚の写真を見せた。
 そこには結婚指輪が鮮明に写っていた。それは富岡がいつもしているものだった。真理子が見間違うはずはなかった。
「主人です」
 真理子はそうはっきりと言った。
「この結婚指輪は、いつも主人がはめているものです」
「そうですか。それを確認したかったのです。ご協力、ありがとうございました」
 警察官はそう言うと、取りだした写真をバッグにしまった。
「わたしはもういいのですか」
「ええ。事故に遭われた方が富岡修さんだと確認できましたから、もう用件は済みました。ご主人の回復を願っています」
 用事が済むと、警察官はさっさとその場を立ち去っていった。
 警察官がいなくなると真理子は所在がなくなった。
 通りがかった看護師に「わたしはどうしたらいいのでしょう」と訊いた。
 その看護師は「さぁ」と首を傾げてから、「ちょっとお待ちください」と言って、ナースステーションの方に向かった。しばらくして、その看護師が出てくると「今は特に奥様にお伝えすることはありません」と言った。
「ではわたしはどうしたらいいのですか」
 彼女は少し考えてから、「昨夜から眠られてはいないんですよね」と言った。
「電話がかかってくるまでは眠っていました。でも、それからは眠ってはいません」
「では、近くのホテルでお休みになった方がいいですね。ご主人の容態は今は安定していますが、いつ急変するともわかりませんから、近くにいて頂く方がいいですね」
「どこか近くのホテルを紹介してもらえますか」
 そう言うと、看護師は「ちょっとこちらに来てください」と言って廊下を曲がった所から見える、道路を挟んだ隣の建物を指さした。
「あのホテルならどうでしょう」
「わかりました。あそこに泊まることにします」
「部屋番号などがわかりましたら、こちらにお電話頂けますか。もし、急な用ができたらご連絡できるでしょうから」
「わかりました」
「では、失礼します」
 看護師が離れていくと、真理子はもう一度ICUの病室の前に立ち、それからきびすを返した。