小説「僕が、剣道ですか? 7」

三十一
 沙由理からは、昨日から沢山のメールが来ていた。僕はそれに一度だけ、ありがとう、と返信した。
 今日のメールにも朝刊の記事のことが書かれていた。昨日のメールは、当然のことだが、テレビニュースのことだった。
 僕はメールで、『記者会見ではほとんど本当のことを話していない。相手が、求めているだろう返答をしたまでだ。だから、ニュースの僕の話も朝刊の僕の質疑応答の部分も、でたらめだと思ってほしい。沙由理が風邪が治って会える時に、本当はどうだったか話すよ』とメールした。
 沙由理からは、『わたしだけ、真実が聞けるのね。嬉しい!』という返信が来た。
 沙由理は、時間が止まった中での戦いなんて信じやしない。だから、真実ではなくて、より本当に近い心境を話すつもりだ。それで沙由理には十分だろう。

 暇だったので、買物に行こうかと思ったが、母から「今日は出かけない方がいいと思うわ」と言われた。
「どうして」と訊くと、「知らない人にじろじろと見られたくはないでしょう」という答えが返ってきた。それもそうだな、と思った。
 僕はききょうと京一郎のお守りをして、母ときくが買物に出かけた。母がきくに普通に「買物に行くわよ」と声をかけたので、きくは嬉しそうに「はーい」と返事をしていた。
 いつもと同じだった。僕はホッとした。きくもそう思っているだろう。

 次の日になった。僕は剣道着と剣道具を持って、電車に乗った。周りの人から、じろじろと見られた。昨日出かけなくて良かったと思った。
 体育館に行った。皆、剣道の練習をしていた。僕も剣道着に防具を着けて、監督の方に歩いて行った。
「来たな」と言うと、稽古中の部員に向かって「よーし、一旦、止めて集まれ」と言った。
 部員たちが稽古を止めて集まってきた。
「これから鏡と試合練習をする。番号順に並べ」と言った。
 四十九人が並んだ。
 七人相手だと丁度いいが、五人だと最後の組は四人になる。
「これから、五対一の試合形式の練習をする。番号順に対戦する。最初の五人前へ」と言った。

 五対一の戦いがこれから始まる。
 向こう側の開始線に五人が蹲踞している。そしてこちらに竹刀を向けてきた。僕も竹刀を向けた。
「始め」の声がかかった。
 僕は、江戸時代の時と同じように簡単にやれると思った。しかし、現実は大違いだった。
 五人の踏み込みが素早かった。競技剣道は素早さが命だった。その良さが十分に出ていた。
 三人までならなんとかなりそうだったが、後の二人の竹刀は受けてしまいそうだった。僕は競技剣道を甘く見ていた。
 五人を相手にするには、時を止めるしかなかった。
 最初の一人に竹刀を合わせて、無反動で弾いた。そして、少し時が動いたところで止めて、次の竹刀を弾いた。そして時を動かし、二人の小手を打ち、また時を止めた。そして、二人の竹刀を弾いて、時を動かし、二人の小手を打った。最後の一人は、そのまま竹刀を弾いて小手を打った。
 一瞬だったから、時を止めていることに気付かれなかったろう。
 一人ずつ竹刀を合わせて、小手を打ったように見えたのに違いなかった。
 五人は竹刀を弾かれたのと、小手を打たれて、手が痺れたのだろう。盛んに手を振っていた。
「凄いなぁ。本当に五人、相手にできるんだ」と監督が言った。
 僕は監督の前に行って頭を下げた。
「僕が甘かったです。今のでいっぱいいっぱいでした」と言った。
「しかし、五人共、綺麗に小手を決めていたじゃないか」と監督は言った。
「まぐれです」と僕は言った。
「まぐれには見えなかったがな。余裕で五人を相手にしていたよ」と監督は言った。
「すみません。次は三人にしてください」と言った。
「えー」と他の部員が言った。
「三人じゃあ、勝負になりませんよ」と誰かが言った。

 周りも、そうだ、そうだ、と言い立てた。
「そうですか。じゃあ、五人とやります」と僕は言わざるを得なかった。

 次の五人が開始線に並んで蹲踞した。その切っ先は僕の方に向いていた。僕も蹲踞して切っ先を向けた。
「始め」の声とともに立ち上がり、今度はこちらから踏み込み、最初の一人の竹刀を弾き、次の一人の竹刀をすぐに弾いた。そこで時を止めざるを得なかった。僅かに竹刀を引いて、時を動かし、二人の小手を叩き、次の竹刀を弾き、時を止め、四人目の竹刀に竹刀を合わせた。そして時を動かして、竹刀を弾き、五人目の竹刀を弾いてから、今度は三人の小手を順番に打っていった。
 時を止めるタイミングは異なったが、時を止めなければ、打ち込まれていた。
 コンマ何秒の世界では、これ以上早く動くのは不可能だった。竹刀を動かす、僅かな時間だけ時を止めた。一瞬のことだから、見えはしない。外からは、流れるように僕が五人の小手を打ったようにしか見えないに違いない。
 これを十回もやったのだ。
 最後は四人だったが、時を止めることは同じだった。
 終わった時、肩で息をしている僕に「ご苦労だった」と監督が声をかけてくれた。そして、部員たちに「これがインターハイ男子個人優勝者の実力だ」と言った。
 僕は監督に「僕はこれで上がります」と言った。
「わかった」と監督は答えた。
 そして、「また、頼むよ」とも言った。そう言うだろうな、と思って聞いた。

 富樫が寄ってきた。
「お前凄いな。今まで戦ったことがなかったから、わからなかったが、あの無反動で竹刀を弾くのは考えられない技だ。実際に受けてみて、その凄さがわかったよ。鉄の棒でぶっ叩かれている気がした。それにスピードの速さ。とてもじゃないが、ついていけなかった。竹刀を弾かれた時、小手が無防備になったのは、わかったが、どうしようもなかった。あれなら、優勝するわな」と言った。
「今日のは、そんなに凄くはないさ」と僕は言った。時を止められなければ、僕が打ち込まれていた。倉持喜一郎のように、時を止めて勝ったのに過ぎない。見せかけの勝ちだった。

 着替えると、剣道部員たちはまだ練習をしていたが、僕は先に上がった。
 帰りの電車でも、じろじろ見られたが、疲れていたので、気にならなかった。それより、早く家に帰りたかった。
 家に帰ると、真っ先に風呂に入った。体育館にもシャワー室があるが、汗を流す程度にしか使えなかった。ゆっくりするなら、家の風呂に限った。
 浴槽に浸かって考えた。
 江戸時代の練習とは、全く違っていたことを反省した。五人軽く相手にできると思っていたのは、大間違いだった。現代剣道では、踏み込みが重要だった。そしてスピードだった。江戸時代の緩い練習を想像していただけに、最初に五本の竹刀が向かってきた時は、駄目かと思った。
 時を止めることで時間のズレを作り、何とか、五本の竹刀に竹刀を合わせることができたが、これも定国の力がなかったら、無意味だった。竹刀を合わせさえすれば、無反動で竹刀を弾いてくれる。竹刀を弾かれた者は体勢を立て直す。それには時間がかかる。その時間差が、時を止めたときに生きてきたのだ。
 両手で顔の汗を拭った。そして浴槽から出た。

 リビングに行くと、きくがいた。お米を研いでいた。これから炊飯器に入れて、タイマーをセットするのだ。と言っても、炊き上がる時間は予めセットされているから、予約ボタンを押すだけだが。
 きくは顔を上げて「ケーキを食べますか」と訊いた。午後四時半だった。
 そう言われると、お腹が空いてきた。
「じゃあ、もらおうか」と言った。
「今、用意しますね。コーヒーですか」と訊かれたので、「ああ、そうしてくれ」と答えた。