小説「僕が、剣道ですか? 6」

十六
 風呂に入る時間まで、僕は眠っていた。
 きくから渡された浴衣を見た。御札は貼ってなかった。きくはもう幽霊は切れられたものだと信じ切っていたようだった。
 風呂場では、風車は機嫌が良かった。躰を洗いながら、故郷の歌を歌っていた。
「故郷はどこですか」と尋ねたら、「高木藩(「僕が、剣道ですか? 4」参照)です」と答えた。若鷺藩から白鶴藩に戻る時に通過した藩だった。世の中は狭いものだと思った。
「明日、少し早めに風呂を焚いて良いですか」と風車が訊くので、「構いませんよ」と答えたついでに、「風車殿が先にお入りください」と言った。
「良いのですか」と言うので、「吉原に行くんでしょう」と答えたら、びっくりした顔になった。
「どうしてわかったんですか」と風車が言うので、「早めに風呂に入りたいと言えば、それしかないじゃあありませんか」と答えた。そして、「この間、浅草に行った折に何か聞いてきたのですね」と続けた。
「そういうわけでは……」と風車は言ったが、何か聞いてきたのに違いなかった。吉原への行き方や遊びの作法でも、教わってきたのだろう。刀を鍛えるのには時間がかかる。浅草にいて、何もすることがない風車が何をしていたかは、手に取るように分かった。
「明日の晩は、当然、吉原に泊まってくるんでしょうね」と僕が尋ねると、「そういうことになりますかな」と応えた。
「でも、今日のところは、おきくさんには内緒ですよ」と風車が言った。
「分かりました」と応えたが、明日になれば、分かることなのにと思うと可笑しくなった。

 夕餉をとり終えると、「一局どうですか」と風車が訊いてきた。
「いいですよ」と答えた。いつもの風車らしかった。
 奥座敷で打った。
 二子局で、終盤まで僕が良かった。最後の所で、寄せで損をした。その分負けた。二目差だった。
 もう一局することになった。どこかで、あやめが見ているかも知れないと思った。
今度は僕が勝った。五目差だった。
 当然、風車は「もう一局」と言ってきた。僕は受けて立った。僕らの碁は早かった。相手が打てばすぐ打つといった感じだった。だがら、一局にそんなに時間はかからなかったのだ。
 その局に三目差で勝つと、きくが風呂から上がってきた。
 ききょうを抱いて、奥座敷に入ってきた。
「髪をとかすので抱いててくれますか」と言うので、ききょうを受け取った。ききょうは温かかった。
「拙者はこれで失礼します」と風車は言って、碁盤を床の間に置くと、離れに向かった。
 きくに「寝室に行こう」と言い、行灯の火を消した。

 寝室では、ききょうを真ん中にして布団に横たわった。
 しばらく、きくは僕の顔を見ていた。
「どうした」と訊くと、「わたしには京介様がすべてです。幽霊から京介様を取り戻せて良かったです」と答えた。それを聞いて、僕の胸はずきりと痛んだ。
 きくが行灯の火を消して、布団に横になった。
 しばらくして、きくが深い眠りに入った。
 僕は念のために時間を止めた。
 そして、廊下に出て、奥座敷に向かった。
 奥座敷の障子戸を開けても、あやめの姿は見えなかった。
 僕は「あやめ」と呼んだ。
 その時、座敷の中央がぼうと明るくなって、白い着物を着たあやめが姿を現した。そして、すぐに僕に抱きついてきた。
 その躰は震えていた。
「怖かったです」
 女はか細い声でそう言った。
「そうか」
「はい。わたしは刀から逃れて、座敷の奥に消えることができましたが、その時、あなた様を見たのですが、消えていくのです。どうされたんだろうと思いました」
「御札を背中に貼られたのだ」と僕は言った。
「そうでしたか」
「ああ。あの御札にそんな力があるとは思いもよらなかった」と言った。これは本音だった。
「でも、ようございました。こうして、またあなた様に会うことができたのですから」と女は言った。
「わたしはあなたに助けてもらいました。もうあなたなしでは生きてはいけません。あなたはわたしのあるじ様になられました。これからは、あなた様のことを主様(ぬしさま)とお呼びしても構いませんか」と続けた。
「それは構わないが、主様か。少し大仰だな」
「そんなことはありません。そのうち、慣れますわ」と女は言った。
「そういうものか」
 女は躰を寄せて来て、「わたしを抱いてください」と言った。
「それは構わないが、あまり時間をかけられないよ。今は時間を止めているからね」
「わかっております。主様が時を止められているときには、躰から精力がその分、減っていきますから」
「そうか。私の精力が減っていくのが分かるのか」
「わかりますとも」と女は言った。
「だったら、急ごう」
「はい」

 女との逢瀬は半刻ほどだった。
 女は最後に口づけをすると、座敷の奥に消えた。
 僕は寝室に戻り布団に入ると、時を動かした。
 疲労感は少なかったが、すぐに眠りについた。

 朝はききょうに起こされた。笑いながら、その躰を僕の上に押しつけてきた。
 僕はききょうのほっぺたを触りながら、布団から起き上がった。
 庖厨からは味噌汁の匂いが漂ってきた。
 僕は手ぬぐいを持つと井戸場に行った。風車が顔を洗っていた。
「おはようございます。いい天気ですね」と僕が言うと、顔を拭った風車が挨拶を返してきて、「本当に」と言った。
「決行には良い日ですね」と僕が言うと、風車は僕の浴衣の袖を引いて「それは内緒の話ですぞ」と言った。
「分かっていますとも」と僕は言ったが、今日、風車が帰ってこなければ、きくが気付かないはずがないだろう、と思うと笑いをかみ殺すのに苦労した。

 朝餉が済むと、風車はさっさと離れに向かった。
 吉原のことで、碁のことは頭になかったのだろう。どうせ、一番いい着物で行くのだから、着物を選ぶこともあるまいが、まだ、朝だというのに、夜のことに思いを馳せている。そんな風車が憎めなかった。

 僕は寝室でききょうをはいはいさせて遊んだ。ききょうのはいはいは素早かった。ちょっと目を離すと、そこにはいなかった。支えれば立てるようにもなった。こうして、子どもは大きくなっていくんだと、思った。
 哺乳瓶を取り出して、温度を確認して、白湯を飲ませた。その時、歯が生えていることに気付いた。前歯が白く小さく見えた。凄い勢いで、冷めた白湯を飲んでいた。