小説「僕が、剣道ですか? 1」

十六

 早朝だった。

 昨夜もきくとは交わらなかった。ただ、抱いて眠りはした。

 きくはまだ眠っていた。起こさないように、きくから離れた。

 立ち上がると躰が軽い。

 毒の影響はすっかり無くなっていた。

 障子を開けて廊下に出ると、まだ月は低く浮かんでいた。ちょうど塀に載っているような感じに見えた。

 庭に降りようとした。下駄と草履があった。下駄では、きくを起こしてしまいそうだったから、草履を履いた。

 僕は自分の躰が戻ったのか試そうとした。バク宙(宙返り)をやった。

 そしたら、降りる時に草履の鼻緒が切れた。

 僕は尻餅をついてしまった。結構な音がした。

 きくが飛び起きて来た。

 僕は尻の土を払いながら立ち上がった。

「どうなさいました」ときくが言うから、「大丈夫だよ」と答えた。

 草履の鼻緒が切れたので、足を引きずるように廊下まで来ると、きくは「足を痛めたのですか」と訊いた。僕は鼻緒が切れた草履を見せた。

「これで転んでしまった」と言った。

 きくは「まあ」と言った後、廊下に両手を突いて頭を下げ、「きくの注意が足りませんでした、申し訳ございませんでした」と言った。

 僕は廊下に上がると、きくの肩を叩いて「きくのせいじゃない」と言った。

「でも」と言うきくに「もう一眠りするぞ」と言った。

 きくは「はい」と言って、僕が布団に入ると、その横から入り込んできた。

 

 もう一度、目覚めた時には、きくはいなかった。

 庖厨にでも行っているのだろう。

 草履の鼻緒は直してあった。

 床の間に行き、本差を持ってきて、鞘から刀を抜き、草履を履いて庭に出た。

 真剣を頭上に振り上げ、素早く切り下ろした。空間が切れていく感覚が戻っていた。それを繰り返した。

 しばらく刀を振っていると、汗が出てきた。

 昨晩は久しぶりに風呂に入った。気持ちよかった。それを汗臭くするのは、我慢できなかった。きくを呼んだ。きくは顔を真っ赤にしてやってきた。女中たちに何か言われたのだろう。

 僕は「汗を拭いたい」と言った。

 きくは「わかりました」と言って、水の入った桶と手ぬぐいを持ってきた。

 僕はきくの見ている前で着物を脱ぐと、手ぬぐいを桶に入れ、絞って躰を拭き始めた。トランクスを穿いていたから、僕は気にしていなかったが、きくは気になったのだろう。顔を両手で覆っていた。

 僕は躰を拭き終えると、着物を着た。もう帯の締め方も覚えていた。

 

 僕は本差を元の位置に置くと「道場に行ってくる」ときくに言った。きくは「はい」と言って、僕を見送った。

 道場は人で一杯だった。僕が入っていくと、稽古をしていた者たちも止めて、「先生」、「先生」と言って周りを取り囲むように集まってきた。

「心配をかけて済まなかった」

「とんでもないです。でも先生が回復されて良かったぁ」

 一番の年長の者がそう言った。

「みんなに助けられたな」

「そんなことありませんよ。先生がほとんど盗賊たちを倒していたじゃあないですか」

「そうだが、寺の門を開けた時はホッとしたよ。これで一人で戦わなくて済むと思ってな」

「先生でも、そう思われるんですか」

「誰でも同じだよ。一人で多数を相手にするのは、気の張ることだ。門を開けた時はやっとみんなと一緒に戦えると思ったよ」

「俺たちを頼りにしてくれるとは、嘘でも嬉しいです」

「嘘なもんか。本当のことだよ。それにしても大勢になったもんだな」

「盗賊を倒した話は、もう藩内で知らない者はいません。先生に稽古を付けてもらいたいという者たちは毎日のように増えています。その者たちは屋敷内に入れないものだから、屋敷の周りにたむろしています」

「そんなことになっているのか」

「そんなことになっているんです」

「私たちも稽古どころじゃないんです。その者たちを追い返すのに精一杯なんです」

 それでかと思った、道場が人で一杯だったのは。これでは稽古のしようがない。

 人数を絞るしかないが、どうする。

 六十人でも一杯なのに、それ以上、入れられるのか。

 でも、最初に来ていた六十人は閉め出す訳にもいかない。と言って、後から来た者、全員を追い返す訳にもいかない。

 どうする、俺、って思った。

「先生、どうするんですか」と言う誰かの声が聞こえた。それはこっちが訊きたいよ、とは言えなかった。この道場のキャパシティは六十人でも超えているくらいだ。せいぜい四、五十人がいいところだろう。

「誰か暦を持ってきてくれないか」と言うと、誰かが屋敷に走った。そして、しばらくすると暦が手元に置かれた。しかし、その暦は現代の物とはかなり違っていて、僕には読めなかった。

「休日というのはあるのか」と周りの者に訊くと、「いいえ」と言う返事が返ってきたが、「一と十五の日を休みにしているところは多いようです」と誰かが言った。

「じゃあ、一と十五の日を道場の休日としよう」

 年長の者が「それは、いいですけれど、それでは問題の解決にはならないのでは」と言った。

「分かっている。それをこれから説明する」

 僕は立ち上がって、大きな声で言った。

「一と十五の日をこの道場の休日とする。それ以外は道場で稽古をする。ただし、稽古は二組に分かれて、それぞれ一組ずつ二日に一日だけ稽古に来ること。そうすれば倍の人数に稽古を付けられる。稽古のない日は、各自、自分の家で稽古をするように。自分の家での稽古の仕方は後で教える」

 ここまで言って一息ついた。

「それでも全員には稽古を付けられませんよ」と年長の者が言った。

「分かっている。それをこれから言う」

 僕は再び大きな声を出した。

「これから選抜試験を行う。選抜試験という言葉は聞き慣れないかも知れないが、この道場に通うことができる者とそうでない者とを選ぶことをいう。先に入門していた者は選抜試験を免除する。後から、入門したい者は、集まるように」

 そう言うと、どっと人が押し寄せてきた。思った以上に大人数だった。

「少し下がってくれ」

 僕は声を張り上げた。

「これから二人ずつ立ち合いをする。その勝った方が残り、四十人になるまで立ち合いを続ける。いいか」

 おぅ、と言う声が響いた。

 試合ができるぐらいに人を隅に立たせて、入門したい者を二人一組にさせた。入門したい者は、屋敷の門外にまで連なった。

「始め」の声で、二人が木刀を交わし合った。すぐ決着が付く場合もあったが、なかなか木刀をかち合わさない者もいた。その者たちは両者失格とした。そうして一巡したが、四十人になるには、まだ百人以上残っていた。

 一度戦うと、体力も気力も使う。続けて戦わそうとしたが、それも酷な気がしてきた。

 と思っていると、もうすっかり夕方になっていた。気が付かなかった。

 祝宴の時間も迫っていた。

 負けた者は帰るように言い、勝ち残った者はまた明日来るように言った。