小説「僕が、剣道ですか? 1」

十七
 祝宴が始まる前に風呂に入った。そして、祝宴に着て行く着物をきくに着せてもらった。
 まもなく祝宴が始まった。
 僕が最後に入っていき、家老の嫡男、島田源太郎の隣に座らされた。その時には盛大な拍手とかけ声が沸き起こった。
 きくはその声と拍手の渦の中を、腰をかがめてそっと私の後ろに座った。
「主賓も来たことだから乾杯といこう」と島田源太郎が言った。
 僕がどうしていいか分からずにいると、きくが「杯を持って、旦那様の方に向けて」と後ろから囁いた。僕は杯を持つと、島田源太郎の方に差し出した。その杯に島田源太郎は酒を注いだ。僕は杯を置いて、島田源太郎に注ぎ返そうとすると、きくは「そのまま杯を持っていて」と囁いた。島田源太郎の杯には、お付きの侍女が酒を注いだ。
 皆に酒が注がれたのを確認すると、島田源太郎は「では、乾杯」と言って杯を飲み干した。僕は酒が飲めないので、飲む振りをして、きくが差し出してくれた手ぬぐいに杯の中身をあけた。
 島田源太郎が身を寄せてきて「そろそろ、武勇伝を聞かせてもらおうか」と言った。
「武勇伝なんて、そんな大したもんじゃないですよ」
「一人で一度に十数人倒したんだろう。大したもんじゃないか」
 話が大きくなっている、と思った。
「一度に十数人も倒せる訳がないじゃないですか。一人一人倒していったんですよ」
「それそれ、その話を聞きたいのだ」
 僕は仕方なく、裏塀の崩れたところから寺の中に侵入していった場面から、話し始めた。かなり端折って話そうと思っていたのだが、島田源太郎は細かなことも聞きたがって、全部を話し終えるのに小一時間ほどはかかった。ただ、話をしている間に、酒を勧めてくる者が遠慮してくれていたのが幸いだった。
 話し終えた時、僕は前から訊こうと思っていたことを尋ねた。
「屋敷に稽古場があることは分かるんですが、それにしても凄い道場ですね」
「ああ、あれか。あれは曾祖父が作ったものだ」
「曾祖父殿ですか」
「そうだ。江戸で新陰流を習い、免許皆伝になったというので荒れ地に道場を作って、屋敷内の者に教えようとしたんだ」
「なるほど」
「しかし、伝える者がいなくなって、今まではただの道場だった。だが、今は凄い騒ぎになっているではないか」
「はい。私も少し困っているのです」
「何故じゃ」
「余りにも人が集まりすぎて……」と言うと、島田源太郎は笑い出した。
「結構なことじゃないか。面倒を見てやってくれ」
「はぁ」
 そうこうしているうちに宴もたけなわになってきた。
 島田源太郎との話が終わると、代わる代わる酒を注ぎに人がやってきた。断り切れずに飲む振りを続けた。
 その内、中央で何やら面白いことを始めた奴が出た。ひょっとこの面をかぶり、右左によろけながら進んでくる。右によろけた時は、右の者から酒を飲ませてもらい、左によろけた時には左の者から酒をもらっていた。そんな具合にして、前に向かってきた頃には、完全に酔っ払っていて、足も交差して、島田源太郎の膳の前に倒れてきた。
 僕は飛び上がって、自分の膳を飛び越すとその者を抱き留めた。
「かたじけない」とその者は言うと、酔って眠ってしまった。僕はお付きの者に彼を渡すと、周りの者が僕に「何かやってくださいよ」と言い出した。すると、それにつられて皆が囃し立てた。
 宴会ってのは、こういう展開になるんだよな、と思いつつ、助けを求めるように、島田源太郎の方を見たが、どうぞ、どうぞ、と言うように手をこちらに差し出すようにした。
 もう何かするまで、この囃し立ては止まらないだろう。
「ちょっと待っていてください」と言って、僕は仕方なく自分の席の後ろにいるきくを呼び、部屋からシューズを取ってくるように言った。きくなら見ているからシューズの意味がわかるだろうと思った。
 やがて、きくは部屋からシューズを持ってきた。僕はそれを受け取ると縁側に出た。そしてシューズを履いて、庭の中央に立った。
 宴席の奥に島田源太郎の顔が見えた。
「病み上がりだから、一度しかやりませんよ。よく見ていてください」と言った。
 僕は呼吸を整えた。そして、斜め後方の上に向かって飛び上がった。それと同時に足と躰を丸めた。いわゆるバク宙をやろうとしていたのだ。躰がふわっと浮き上がった。思ったよりも高く飛び上がったのが分かった。そのまま一回転したが、まだ降りるまでに余裕があった。そこで、躰を捻ってみた。くるりと一回転した。そこで着地した。
 膝を少し曲げて、クッションのようにしてふわりと降りた。
 僕が立ち上がった時、割れんばかりの拍手が起こっていた。
 バク転は小学校の時からやっていた。バク宙ができるようになったのは、中学校の時だった。それからバク宙は、僕がもっとも得意としている見せ技の一つになった。今朝、早起きした時もバク宙をして、草履の鼻緒を切ってしまったのだった。だから、草履ではバク宙はできないと思って、きくにシューズを取ってこさせたのだ。
 宴席に戻ると、島田源太郎が感心したように「鏡殿はまるで忍びのように身軽じゃな」と言った。
 僕は笑って答えなかった。こんなの誰にでもできますよ、なんてこの時代の人には言えなかったからだ。バク宙して一捻りすることなど、体操部の者ならできることを、僕はよく知っていた。
 シューズをきくに渡して「ありがとう」と言った。きくは大事そうにシューズを抱いた。
 バク宙一捻りに感動した者たちが、酒を注ぎに押し寄せてきた。
「飲めないって言っているじゃないですか」と僕は、半ば怒ると杯を伏せて、酒を注ぎに来た者に杯を持ってくるように言い、それらの者たちに飲ませた。
 彼らは僕の酌を喜んで受け入れた。
 宴会が終わりになる頃、島田源太郎が身を寄せて来て、僕の着物の袖の中に何かを入れた。ある程度の重さのあるものだった。
「褒美だ。取っておけ」と言った。
 僕は「はぁ」と言うしかなかった。
 島田源太郎が離れると袖の中に入った物を探ってみた。
 よく時代劇で見るような小判を紙で包んだ物が二つ入っていた。

 祝宴が終わって座敷に戻ると、シューズを戸棚に戻していたきくが振り向いた時に、さっきもらった包み金を二つ放った。
 きくは、それを受け取ると目を見開いた。
「どうしたんだ」
「これ五十両ですよ」
「そうか」
「そうかって、五十両ですよ」
「分かっているよ、五十両だろう」
「凄い額ですよ」
「そうなのか」
「そうですよ」
「私には使いようがないから、預かっておいてくれ」
「わたしに預けるんですか」
「そうだよ」
「ええー」
「ええーって、困ることはないだろう」
「困りますよ。こんなお金、持っていては仕事も手につきませんよ」
「この部屋のどこかに隠しておけばいいだろう」
「そんな」
「頼んだよ」

 夜眠る時、きくが「すごい技が使えるんですね」と言った。
 バク宙一捻りのことを言っていた。
「あんなのは誰にでもできる技なんだよ」
「そんなことありません」
「そうなんだよ、私の時代には」
「あなたの時代?」
「いや、今の言葉は忘れてくれ」
「あなた様はどこから来たんですか。服にしても見たことのないものでしたし、シューズだって」
「だから、そのことは忘れてくれ」
「無理ですよ。だって、あの戸棚を開ければ、あるんですもの」
「ああ、そうだった」
「どこから来たんですか」
「言っても分からないところから来たんだ」
「いつか、帰って行くんですか」
 きくは泣き始めていた。
「分からない」
「帰りたいですか」
「今は夢を見ているんだよな」
「夢なんかじゃありませんよ。ちゃんときくがいるじゃあ、ありませんか」
「それも夢なんだよな」
「夢なんかじゃありません。あなたは夢を見ているんじゃありません。現にここにいるじゃあ、ありませんか」
「夢オチじゃないのかよ」
「夢オチってなんです?」
「こっちの話だ」
 この言い合いはキリがなかった。
 僕は夢オチだと信じて眠ることにした。そして、どうせ夢オチならと思い、きくを抱き寄せた。