小説「真理の微笑 真理子編」

五十八

 真理子は高瀬を会社に送り届けると、そのまま区役所に向かった。母子手帳をもらうためだった。

 真理子は母子手帳をもらうと、早く高瀬に見せたくて会社に行った。

 しかし、社長室には高瀬はいなかった。高木が来て「新年会の御礼もあり、お得意様回りをしています」と言って出ていった。

 高瀬はお昼にも戻らなかった。

 戻ってきたのは、午後四時過ぎ頃だったろうか。

「忙しいのね」と真理子は言った。

「まあね」

「今日は区役所に行ってきたの」

「区役所」

「そう」

「何しに行ったの」

母子手帳を貰いに行ったのに決まっているじゃない」

「そうか」と言う高瀬に、真理子はハンドバッグから母子手帳を出して見せた。実感が湧くでしょう、とでも言うように。

「病院に行って予定日を訊こうかと思ったわ。昨日はつい嬉しくなっちゃって、予定日を聞いたかも知れないんだけれど、忘れちゃって」

「そういうのって忘れるもんかなぁ」

「意地悪、言わないでよ。わたしは、赤ちゃんができたってことで嬉しくなって他のことは考えられなかったのよ」

「そうか、で……」

「出産予定日は妊娠届出書に書いてあったわ。妊娠届出書を医師から渡されていたのをすっかり忘れていたの。出産予定日は九月十六日よ」

「九月十六日か」

「ようやく、できたのね」と真理子は実に感慨深げだった。

「そうなのか」と高瀬が言うと「そうよ」と、真理子は嬉しそうに言った。

 

 それから二週間近くが経った。

 会社に高瀬を迎えに行った真理子は、車を出すと「書店に寄ってもいい」と尋ねた。

「構わないよ」と高瀬は答えた。

 真理子が書店に高瀬の車椅子を押しながら入っていくと、赤ちゃんの名前の付け方の本が並んでいるコーナーに高瀬を連れて行った。

 真理子は見える範囲の本を取り出しては、何冊も見ていた。高瀬は、平積みされた本を見ていた。

 真理子は書棚から取り出した何冊かを籠に入れると、レジに持って行った。

 

 家に帰ると、真理子は本の入った紙袋をリビングのテーブルに置いた。そして、夕食の準備に取りかかった。

 真理子が「後で一緒に見ましょうね」と言うと、「分かった」と高瀬は応えた。

 夕食の後、紙袋の中から本を取り出した。

「男の子だったら、勇ってのはどう」

「勇か、勇ましい名前だね」

「あなたが修だから、おといを入れ替えたらそうなったの」

「おい、こらっ」と高瀬が軽く手を上げると、「うふふ」と真理子は笑った。

 その後で「ゆういち、っていうのもいいよね」と言った。すると、すぐに高瀬は「それはない」と言った。そして、高瀬は真理子を見た。週刊誌にも高瀬の子どもの名前は伏せられていたので、ゆういち、が高瀬に祐一を連想させるとは、真理子はもちろん思いもしなかった。

「どうせ、勇ましいのなら、たけるがいいんじゃないか」

「どう書くの」と真理子が訊くので、『猛』と、高瀬は本のページの余白に大きく書いた。

「なるほどね。じゃあ、女の子だったら」

「九月生まれだよね。えり、とか」

「どう書くの」と真理子が訊くと、高瀬はさっき書いた余白の隣に『恵梨』と書いた。

「富岡恵梨か。あっ、だったら富岡恵梨香の方がいいんじゃない」

「どっちでもいいよ。まだ、先は長いんだ。ゆっくり考えればいい」

「そうね」

 そうだった。生まれてくるのは、まだ先の話だった、と真理子は思った。しかし、こうして子どもの名前を考えることだけでも楽しい。子どもが生まれてきたら、もっと楽しいだろう、と真理子は思った。