五十九
二月になった。
真理子のお腹の子どもは順調に育っていた。
ある日、介護タクシーで早く帰ってきた高瀬に真理子は驚いて、「どうしたの」と訊いた。
「少し疲れているんだ」と高瀬が応えると「それならベッドで休んだら」と真理子は言った。
「いや、そうもしていられない。気にかかることがあるんだ」と言う高瀬に、「なに」と真理子は訊かずにはいられなかった。
高瀬は「仕事上のことだ」と答えたが、いつもの高瀬とは違う何かを真理子は感じた。
高瀬が書斎に上がっていくのに、真理子もついて行った。気になったからだったが、「気が散るから、一人にしてくれ」と高瀬に言われた。
今までこんな言い方をする高瀬ではなかったので、真理子はびっくりした。
「心配だわ」と言う真理子に「大丈夫だ。思い出さなければならない契約について、すっかり忘れていたようなので確認したいんだ」と、高瀬が言った。
「そうなの」
「契約については、忘れてしまったので済みませんでしたでは、済まないからね」
「それもそうね」
「だから確認したいと思うんだ。しばらくは一人にしておいてほしい」
「わかったわ。何かあったら呼んでね」と真理子が書斎から出ていこうとすると、その背中に向けて「そうする」と高瀬が言った。
会社で何かあったに違いないが、それを一々話す高瀬でないことは真理子もわかっていた。黙って見守るしかなかった。
小一時間ほど経った頃、「あなた、コーヒーでも飲む」と、書斎の外で真理子が声をかけた。
「ああ、ここに運んでくれ」と、中から高瀬の声がした。いつもの高瀬の声だった。真理子はホッとしながら、キッチンに向かった。
夜になった。躰を重ねても、高瀬はなかなか勃起しなかった。
やっぱり、今日何かがあったんだわ、と真理子は思った。ただ、それが何かは、高瀬が話してくれないので、真理子にはわからなかった。
つい「今日は元気がないわね」と真理子は言ってしまった。
「躰にさわるんじゃないかと思って……」と高瀬が言うと「馬鹿ね、そんなはずないじゃない」と真理子は言った。
「いいわ、わたしが立たせてあげる」と言って、真理子はベッドの中に潜った。
真理子は高瀬のものを頬張ろうとしたのだった。
しばらくするうちに、高瀬のものは元気になってきた。真理子は素早くそれを自分の中に入れて、腰を動かした。
真理子は恥ずかしそうに「わたし、こんなことするの初めてなのよ」と言った。そして、上体を倒して「あなただから、したの」と言った。
高瀬が「どういう意味」と訊いてきたので、「別に意味なんてないわ。あなただからしたのって言っただけよ」と答えた。そして、「事故を起こしてからのあなたは、変わったわ。まるで別の人になったみたいにわたしにとても優しくしてくれたし、それに、この子の父親だもの」と続けた。
六十
三月になった。役員会も済み、真理子の社長代理の職も解かれた。企業決算も無事に終わった。
トミーワープロはその後も順調に売れ続け、昨年のビジネスソフト売行きナンバーワン賞を某出版社から授与された。その授与は、某ホテルの会場で行われることになったが、真理子は悪阻がひどくて授賞式には出られなかった。しかし、高瀬が持ち帰った受賞の楯を見て、「あなた、良かったわね」と「どこに置こうかしら」と書斎の棚を見廻した。
そこには富岡がゴルフコンペで優勝したトロフィーなどが数多く飾られていた。
真理子はそれらを見て、高瀬に「あれ、いる?」と訊いた。高瀬は首を左右に振った。
「だったら、片付けてしまいましょう。この楯の方が貴重だもの」
「そうだな」と高瀬は言った。
四月の下旬には、蓼科にあった別荘が壊された。別荘を壊したことについて高瀬が説明する時に「今の別荘じゃあ、俺が行っても上がれないからね」と言うので、真理子も「そうね、あなたが行っても使いやすいように建て替えればいいわ」と答えた。しかし、真理子は高瀬の説明に違和感を覚えた。それは、あの別荘に入った時の違和感と似ていた。そして、あの別荘を壊さなければならない理由が、高瀬にはあったんだと思った。そう考えていくうちに恐ろしい考えが浮かんできた、あの別荘なのだ、富岡が殺されたのは。そう考えると、別荘を取り壊したのもわかる気がした。
五月には、カード型データベースソフトのトミーCDBが、トミーワープロにあやかり、トミーカードと名称を変え発売された。
毎年五月に開催されるビジネスショーを、トミーソフト株式会社はそのトミーカードの、格好の宣伝の場とした。トミーカードはカード型データベースソフトとしては、順調な売行きを見せた。
六月に入った。記録的な大雨が甲信越地区に降った。各地で土砂災害があり、山崩れも起こったと大きく報道された。
その頃になると真理子のお腹も大きくなり、目立つようになった。真理子の赤ちゃんはお腹の中で順調に育っていた。二度、流産の経験のある真理子は、どんな些細なことにも慎重だった。
六月のある日、高瀬が急に真理子に眼鏡店に行きたいから連れて行って欲しいと言い出した。真理子はお腹も大きくなってきたことだし、あまり無理をしたくはなかったが、高瀬があまりにも言うものだから、なるべく近くの眼鏡店に連れていった。
高瀬は、薄い色のサングラスを買った。
「どうしてサングラスなんか」と言う真理子に「この頃、光が眩しく感じるんだ」と高瀬は説明した。
九月になった。真理子のお腹ははち切れんばかりに膨らんでいた。
九月六日に、真理子に陣痛が来た。病院に介護タクシーで高瀬と向かった。
真理子が分娩室に入って三時間ほど経っただろうか、産声を真理子は聞いた。
赤ちゃんが生まれたのだ。真理子は涙を流した。
看護師がタオルで拭いた赤ちゃんを真理子に支えるようにして抱かせた。
赤ちゃんは男の子だった。
看護師が赤ちゃんを抱え、真理子の乳首に触れさせると、赤ちゃんは意外なほど強い力で真理子の乳首を吸った。母乳が吸われていくのがわかった。その時、この子を守るのは自分なのだ、と強く真理子は思った。
一週間後、真理子と赤ちゃんは退院した。
そして、生後二週間が経とうとした頃、真理子は高瀬と出生届を区役所に出しに行った。